ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

これも好きなのです。

2010-03-22 14:53:48 | 好きなもの
 仕方がないのです。気に入っているのですから。

1995年のことでした。愛媛県の友人がある音楽家を紹介してくれたのです。
 1946年にNYで生まれたピアニストでした。

 何日かお付き合いをすると、えらく気に入ってしまったのです。
 ピアノがめちゃくちゃうまい。
 ピアニストですから、これは当たり前ですが、人としても気に入ってしまったのです。
 この写真は、そのとき急遽演奏会を計画して開催をしたときのチラシです。

 主催者 ふくろうの会。
 「名曲を聴く日曜日」と題して高知県立美術館ホールで開催をしたのです。

 あのコンサートを成功させたあと、24回かな自主事業として、音楽会をやり続けてきたのですが、最近は全く元気がありません。

 そのうちどこかで、聞いてみたいとおもっております。
 聞くことだけ考えると、チケットを購入したほうが楽なのですが、主催者になって裏方の作業を経験すると、これは病み付きになってしまいます、

 この前年に夜須町のホールでウィーンのEICHENDORFE QUINTETTのコンサートを仲間とともに実行委員長として成功させておりましたから、あまり精神的にも負担は無かったのです。

 これからどの様な音楽シーンを創れるか、ゆっくり考えてみましょう。
 企画をしたりして、思い描いている間は、楽しい時間です。

 あれから15年が経ったのです。
 
 

美しい黒。

2010-03-20 11:19:46 | 好きなもの
 日本画の墨とも違い、ベラスケスの黒でもない、もちろんゴヤのものでもない。美しい黒だと思わせてくれた絵画でした。
 この展覧会に行くのに、大型のバスをチャーターして出かけたのです。奈半利町から神戸までほとんど満員状態で出かけました。いい思い出です。

 オルセー美術館展。神戸市立美術館まで出かけていたのです。
 もう10年以上前のことになってしまいました。20世紀の最後頃でしたね。

 マティスもマネの「鈍く光を含んだ黒」が好きだったそうですよ。
 黒という色はなかなかに強い刺激的な色だけに、使い方が難しいのですが、マネの黒は浮き上がらせたりもするのです。上品な色です。マネの黒はね。

 マネの黒。ルノアールの赤。ボナールの緑そしてマティスは青がキレイです。
 私の好みなんですがね。

 暗く、陰湿な感じに陥りがちな色、黒ですが、使い方の巧者はいるものなのです。

 この美術展では、印象派の巨匠達の作品がたくさんありすぎて、目が泳いでしまったほどです。ルノアールやセザンヌ、マネもモロー・・・。限が無いほどの作品群を一挙に見たことになります。さらにせっかく神戸まで行ったのですから、おいしいものも食べたくなりましたし、珍しいものを見たくもなって、時間がなくなって忙しい旅でしたねえ。

 またいつか、安芸郡奈半利町から皆で出かけたいものです。
 画を見に行きませんか。
 こうした作品展がいつでも見られる。都会の贅沢です。

 田舎から出かけるには、若干の努力が必要なのです。

美しき時代

2010-03-20 09:47:25 | 好きなもの
 行けなかった美術展のチラシをです。
 行きたくても行けなかった美術展だったのです。

 トゥールーズ・ロートレック(1864~1901)の作品の展覧会でした。
 2007年11月から2008年1月まで愛知県立美術館で開催されていました。

 行けなかったですね。金も暇もなく、ただうろうろしておりました。
 随分と前からロートレックは好きでしたね。巴里のダンスホールや劇場さらに娼館など、モンマルトルの歓楽街に住む人々を描いていました。全く日本にはない世界だとおもっていました。

 ポスターなんかで有名な作家の一人です。
 見たいとか聞きたいとか、そうした欲望はいつもあるのですが、田舎暮らしは随分と我慢をしなければなりません。
 そういえば「赤い風車」という映画もありました。素晴らしい幻想の世界だったことを思い出します。
 37歳で亡くなったのですが、残すものは残していった天才の一人かとおもいます。

 酒におぼれて死んでいったのです。
 彼は、孤独だったのです。
 そして美しき時代(ベル・エポック)といわれた頃に華やかな世界にいたのです。

 

神になった男

2010-03-19 23:31:09 | 高知県東部人物列伝
 室戸市羽根町の旧道を東に向かっていると、小さな、といっても普通にくぐれるほどの大きさはあるのですが、鳥居があります。鑑雄神社です。
 この神社に祀られているのが岡村十兵衛なのです。

 藩政時代の羽根浦は藩主の直轄地だったこともあって、お城から徴税官として分一役が派遣されていたのです。布師田の出身であった岡村十兵衛が任命されて赴任して来たのは、天和元年(1681)2月の頃だったそうな。
 分一役とは、他浦他国へ船積みするときに課税する税を分一銀といったことから、この名前があったのです。

 当時羽根村は不作、不漁続きで困窮の極といったところだったそうで、赴任してきた岡村は村内をくまなく歩いて救済方法を検討し、藩の許可を得て木材を伐採し、大阪に売りさばいて利益を出すのですが、根本的な救済とはならなかったのです。
 
 貞亨元年(1684)彼が赴任して3年あまりたった頃、状況がさらに悪化したことで藩庁に嘆願し続けるのですが、返事がなく、彼は無断で御米蔵を開いて浦人を救済するのです。

 後に、その責任を取って割腹して果てたそうな。
 そして浦人は彼の死を悲しみ悼んで、鄭重に葬ったそうな。

 弘化4年(1847)には13代山内豊照が彼の墓前に手を合わせることになるのですし、維新の後、明治4年には鑑雄神社として祀られることになるのです。
 昭和28年、没後270年祭を挙行した時には、各界の名士が参列し特に高知県の長老元貴族院議員野村茂久馬の参拝があって、羽根村始まって以来の盛会であったとの記録があります。

 自らを犠牲にして、民を救済した義人岡村十兵衛は神となって、未だに手を合わせる多くの方々に囲まれて、崇拝され尊敬を集めているのです。
 

 

人生の意義に。

2010-03-19 11:14:58 | 高知県東部人物列伝
 彼の名前は、藤村六郎といいます。明治21年(1888)生まれです。
 藤村製糸株式会社の創業者藤村米太郎氏の二男です。
 
 昭和22年(1947)奈半利町の町長に就任することから今回の話が始まるのです。59歳のときです。
 公言することは、「わたしは、新港開設のために生まれてきたような人間です。」

 そして考えていたことは、「特定の人の名前を残さず無名の方々が、”よってたかって”
この港を造るところに奈半利港の価値があり、それに何を求めずに奉仕できた方々にほんとうの人生の意義がある。」なのです。

 人生の意義を考えながら、仕事をしていた町長がいたことに驚きです。
 昨今はいい結果が出ると、「俺がやった。」「すごいろう。」そんな政治家ばかりです。
そして失敗事例が出ると、「知らなかった。」というのです。

 「特定の名前を出さずに・・・。」地域運動の大切なところです。
 「人生の意義・・・。」最近こんな話を聞いたことが無いなあ。

 当時の港は河口港で、奈半利川が暴れると埋まってしまうような港だったのです。
 紀貫之の土佐日記にある「奈半の泊り」の事例もありますし、中芸の森林は長曾我部元親の時代には既に木材資源の豊富な場所として中央でも評価が定まっておりました。
 秀吉の依頼で京都方広寺大仏殿造営の為に木材を搬出した記録がありますから、港は必要な施設ではあったのです。ただ地形的には、港を造る適地ではなかったことから、昭和28年に着工した港は掘込港湾だったのです。

 高知県の東部地域に商業港を作ったのです。400年以上前から木材の搬出港としての役割を果たしてきた実績が地域住民の理解を得て、運動として展開が出来たのです。

 戦後初の選挙に出て、当選。自分の役割を果たして、退任するのです。
 港建設に、自分の政治生命をかけたのです。
 彼が町長をしていたのは、昭和22年(1947)からの8年間。2期です。
 藤村家の巨財を食いつぶしたとされている彼ですが、実に魅力的な人物です。
 また、町長退任後亡くなるまでの13年間程をどの様に生活していたのか、興味のあるところです。さらに、彼が町長になりたかったとは思えないのです。押されて町長になって、気がついたら港・港だったような気がします。

 今も奈半利港は太平洋に向かって門戸を開いております。
 
 昭和43年(1968)2月没、享年79歳でした。彼の人生の意義は、やはり港だったのだろうか。もっと何かしら出てきそうな気がしております。政治生命は港だったのでしょう。しかし彼の人生からすると、たった8年間のことです。
 あと70年ほどの彼の生活について、追いかけてみたいと考えております。
 

小龍

2010-03-18 18:20:53 | 昔話
河田小龍は、土佐藩の御船方軽格の藩士土生玉助の長男として文政7年(1824)に生まれるのですが、祖父の生家河田家を継いだことから河田を名乗ることになるのです。
 幼少の頃から島本蘭渓に画を学び、さらに岡本寧浦の門下に入って勉学につとめるのです。基礎的な学問は岡本寧浦の下でしたのですから安芸郡にもご縁がありますね。

 小龍は本来は画家でしょうが、画家以外の仕事のほうが有名になっています。

 彼の人生が大きく変わるのは1852年のことです。ジョン万次郎が登場するからです。
 15歳で遭難しほとんど日本語を忘れていた万次郎と年は3歳ほど年長でインテリの小龍。それまでにオランダ語についての知識を持っていた彼に吉田東洋が万次郎についての調査を命じたのです。
 吉田東洋は浦戸の船奉行でしたから、小龍の父の上司だったのですし、さらに岡本寧浦とも交流があったことから、小龍の事は以前から注目をしていたのでしょう。

 漂巽紀畧はそのときの聞き取り調査報告書といえるもので、当時のアメリカ西洋事情書として多くの志士達に多大な影響を与えたとされているからです。
かつての小龍は画家として狩野永岳の門下に入り、京都二条城本丸御殿の襖絵の大修理に参加するなど、着々と実績を重ねていたのですが、漂巽紀畧を提出して以後、勤皇の志士たちとの交流が増えるのです。坂本龍馬をはじめ彼らとの交流は彼の人生を大きく変えたように思います。単に画家ではなくなったのです。実業家への転進を意識したこともあったようですが、どうもうまくはいかなかったそうな。
 あの当時、画家といっても1職人ですから、坂本龍馬達と交流をすると、知識を獲得しながら幅広い興味となってあれこれ受け入れるしかなかったのでしょう。

 幕末から明治初頭の小龍は画家として、後進を育て、作品を残します。
 明治21年の春になるとかつて高知県令であった北垣国道が京都府知事に就任したことから、彼に招かれて京都府事務取扱雇となるために、高知から東部海岸伝いに京都に向かうことになります。
 このとき、彼は紀行文を書いているそうです。洒脱な文と得意の絵を添えてあるのだそうですが、読んでみたいものです。高知から京都まで、紀貫之の旅は船旅でしたが、小龍の旅は歩いての旅ですからずっと、今読んでも楽しいことは請け合いです。

 京都では琵琶湖疎水事業の記録係として「疎水図誌」を完成させます。さらに明治天皇・皇太子御前揮毫をするなどして、画家としての晩年を送るのです。

 明治31年(1898)享年75歳。京都北区の等持院に眠っております。
 興味深い明治の土佐人の一人です。



呼んでいるのです。

2010-03-18 16:29:35 | Vision East
 野根山街道が、早く来いと呼んでおります。

 新芽が出始めたから、「来い」というのです。山の木々が風に乗せて呼んでおります。

 何故だかわからないのですが、時折自然の中に入りたくなります。
 まあ行って後悔するようなことはないのですし、体が痛くなるのは普段の鍛錬不足なのですから仕方がないのです。

「一人で行ったら怖いろう」という人がいます。
 そんなことは無いのです。
 本当に怖いのは人間のほうで、自然はあるがまま、そこにあるだけですから、此方で無理をしない限りにおいては、怖い存在ではありません。

 無理は厳禁ですがね。体力勝負です。

 それに、春夏秋冬表情が変わるのですから、楽しみは何層倍にもなるのです。
 さらに、天候にもよって変化しますし、時間によっても印象が変わります。

 木も草も生長しますから、何度行っても以前と同じということはありえません。

 ただ、私の老化。
 これが大問題です。鍛錬不足ですからね。
 
 しかし呼ばれておりますので。「はい!!。行きます。」としか言いようがないのです。
 今月中に予定をくって何処かにいくことにしましょう。自然が呼んでおります。
 たくさんの映像資料も欲しいところです。

 

監督吉田喜重

2010-03-16 13:09:24 | 昔話
 映画作りに参加したことがあります。
 久しぶりに整理作業をしていたら、写真が大量に出てきましたから写真パネルを作ってみました。
 映画の題名は「幕末に生きる、中岡慎太郎」 ドキュメンタリー映画でした。

 監督は吉田喜重

 中岡慎太郎の生誕150年を記念して、「中岡慎太郎を表舞台に出す会」が組織され制作したのです。
 私もこの会の一員として、募金活動から下働き。さらにフィルムをもって上映会までやりました。考えてみたら当然のごとく若かったねえ。16MMのフィルムを持っていって映写機持参で出かけてゆくのです。料金は当然制作費になりました。支払いが完了したときはうれしかったですねえ。
 リスクをリスクと考えなかったのです。
 少し怖かったですがね。

 何にも無いところから、募金によって金を集めて映画をつくろうなんて考えたのですからね。それも3500万円なんて今考えたって尋常ではないのです。

 仲間とともにやってしまいましたから、無事終了でありがたかったですねえ。

 監督吉田喜重氏は誠に魅力的でした。紳士でしたねえ。

 何年かあと、彼の講演記録を読んでいたときのこと、「なるほど」と思いました。

 その講演の中で彼はこんな発言をしているのです。
 「劇映画とドキュメンタリーに境界は無い。」

      映像をとおして何かを表現をするという意味では、境界は無い。のだそう。

 「人間は物語を必要とする。しかし物語に裏切られもする。」

      人には物語が必要だ。しかし裏切られることも知っていながら楽しんでいる し、意識の中で目とか言葉でつじつまを合わせているのです。

 「スクリーンは私の目だ。」
      
      映画と私の間に、私の目がある。私はその目に導かれて映画を撮る。のだそうです。
「映像は、物語を越えて存在する。」

      彼の発言だと思えば納得で、彼に監督依頼したことは間違いはなかったのです。

 そして今でも思い出します。彼が完成したばかりのフィルムを持って、北川村で上映会を開催したときの中で彼はこのような発言をしました。
 
 「映画が出来ました。今までは私の映画でしたが、これからこの映画は皆さんのものです。」

 彼の目が撮らせた作品が北川村、安芸郡、高知県にあるのはそれぞれにとっても財産かとおもいます。
 改めて、見てみたいとおもいます。彼の目を楽しめることと思います。

 ずっと考えていたのです。吉田喜重というビッグネームの監督が何で廉価版の記録映画を撮ってくれたんだろうか。とね。
 中岡慎太郎の魅力はあったのでしょうがね。いい思い出です。

好きですねえ。こんなの

2010-03-15 02:28:14 | 建造物入門
好きですねえ。こうした遊び心は好きです。

安芸市土居廓中にある風景です。ぶらっと歩いていると、突然目の前に飛び込んできます。
蔵と植木がコラボレーションですね。
竹の生垣の上にひょこっと頭が飛び出したようです。
庭師の感性か家の所有者の好みなのかは、解りませんが、好きですねえ。

マンション住まいでは、まず味わうことが出来ない贅沢かと思います。さらに庭をお持ちのご家庭でもここまでの丹精をするのには時間がかかりますよね。
それを、さりげなく道行く私たち他人にも、美のおすそ分けをしてくれております。

さすが、安芸市の土居廓中です。高知県の中でも特異な存在の場所なのです。住宅の保存については結構意識して残そうとはしますが、正直なことを言うと、庭まではなかなか手が廻らないのです。
黒と白、モノトーンの蔵と緑の葉っぱと赤い花が映えて美しいですね。
形も面白いです。
それにこうして写真を撮ると、竹の生垣が広がるのを抑えるために横に2本固定された竹があります。これいいですね。

存在感抜群の住宅です。

いらいらするなあ。

2010-03-14 13:00:05 | 田舎の理屈
 日曜日の午前中はテレビの各局はワイドショーだらけです。
 今日も名の知れた政治家の方々が出ていて、政界再編について発言をしているのです。

 日本という国はもう何十年も批判の繰り返しを続けております。現状が駄目だから変えなければならないといい続けてきたのですが、変わったためしがないのです。

 昨年の衆議員選挙で大変動を経験したはずなのに、もう国民の支持率は急降下なのです。

 ずっと前から日本の経済は1流。政治は3流と言われてきましたが、3流からもっと下げたくなっております。

 田舎の生活は、政権与党が何処であろうと原則的に変わらないのですが、入ってくる情報にいらいらするのです。
 何でこうなるのだ。
 直さなければならないという人が、具体的な意見を言わないのです。
 手段を明示できないのですから、仕方がないのです。
 政治家ではなく、評論家なのです。

 もうこれ以上評論家は必要ないと思うのですがね。

 田舎も自立をするための方法論を模索しておりますが、難しいようですね。
 高知県も産業ビジョンをやっておりますが、効果についての具体的な検証が出来るのだろうか。
 予算人員を使って、せめて2年後にどの様になるのか、数字で出して欲しいところです。

 テレビでは、また新党結成だそうです。
 「もう、いい加減にしたらどうでしょう。」
 欠点のあら捜しで、新たな提案も無く、自己満足に終始するなど、マスコミで話すことではないと思うのですがね。しかし、彼らを出演させるマスコミにも責任があるなあ。
 視聴率が取れるからなあ。そのほうが面白いしね。

 高知県の東部地域は病んでおります。
 若い経営者達が育っておりません。
 官庁の中にも人材が・・・・??。みんな給料は、しっかりと取っているのだそうな。

 希望が持てなくなっております。

 安心して暮らせなくなっております。
 あくまで私見です。勝手な意見ですね。これも。
 ついでてしまいました。失礼。