今日は舞台の感想というより私の日記です。
舞台内容に触れますので大いにネタバレしております。
朝起きた時から、いや前日の就寝前からずっと緊張していた。私と章大君との時間は「忘れてもらえないの歌」の東京公演で止まったままだった。横山さんと大倉君の舞台の記事を娘が書いたので私も同行していたと思っていた友人もいらしたのだが、私はいずれも観劇していたかったので本当に久しぶりの「現場」となった。
ライブではなかったけれど久しぶりなので防振双眼鏡もリュックの中に入れて通院以外ではこの一年半で片手より少ない回数しか乗らない電車に乗り渋谷へと向かった。渋谷の街は平日の昼間であったが人が多く、スクランブル交差点を渡りながらニュース番組で流れる人並みの中に自分が存在している事に少しの不安がこみ上げてきた。
劇場へ向かうエスカレータの速度がとてもゆっくりに感じた。逸る私の気持ちがそう感じさせたのかもしれないけれど。パンフレットを購入し席に着く。
傾斜のある会場内は満席であったが舞台の幕が開くまでの時間がとても静かで、その静けさが世の中の状況を物語っているように思えた。
暗転して流れる音楽の美しさに痺れる。
フィンセント役の章大君のセリフを聞いて、生の声を聞いて何だかとても安心した。久しぶりに家族に電話をして声を聞いたら安心した、そんな感覚にも似ていた。でも、そう感じたのはわずかの時間で章大君の声を確認してから程なく、それはフィンセントの声となって響いていた。
21世紀が舞台の冒頭では客席の私達がオークションに参加しているかのような演者の振る舞いが物語の中へ入り込む手法として、遊び心があって良かった。
そのオークションの場面でステージ上に段差がある事に気付いたのだが、後にそれが舞台転換の為だと分かった。この様な形の舞台は初めて見たので実に面白かった。
場所や時代を行き来する物語を表現する上で視覚的に実に分かりやすく、とても見やすかった。そして動きがある度に次はどんなステージになるのかワクワクするのだった。
フィンセント役の章大君のセリフを聞いて、生の声を聞いて何だかとても安心した。久しぶりに家族に電話をして声を聞いたら安心した、そんな感覚にも似ていた。でも、そう感じたのはわずかの時間で章大君の声を確認してから程なく、それはフィンセントの声となって響いていた。
21世紀が舞台の冒頭では客席の私達がオークションに参加しているかのような演者の振る舞いが物語の中へ入り込む手法として、遊び心があって良かった。
そのオークションの場面でステージ上に段差がある事に気付いたのだが、後にそれが舞台転換の為だと分かった。この様な形の舞台は初めて見たので実に面白かった。
場所や時代を行き来する物語を表現する上で視覚的に実に分かりやすく、とても見やすかった。そして動きがある度に次はどんなステージになるのかワクワクするのだった。
舞台転換の美しさは、その場面場面が一枚の絵画のようだった。照明も小さな部屋に一つの裸電球があるような儚げな美しい場面はアルルでフィンセントが過ごした小さな部屋そのものだった。
中盤から件のリボルバーはずっとステージ上に置かれていた。全てを見て来たのはリボルバーであり、過去と現在を繋いでいる象徴としての役割があったのだろうか。
パンフレットの章大君の言葉には喜怒哀楽とあったけれど、舞台上では喜びや楽しさよりも怒りと哀しみの分量の方が多かった様に見えた。怒りや哀しみを爆発させている場面が多かったように思えた。
特にフィンセントに関しては幸せそうな時間が舞台上では少なくて、彼が本当の笑顔で嬉しそうに振る舞ったのはポールがアルルに到着した時くらいだったのか?持っていた食材を撒き散らしながらポールと抱き合うシーンはそういう意味でも印象に残っている。
現代では非常に価値のある作品の数々を生み出した創作の喜びをフィンセントは果たして感じていたのだろうか。そんな思いを抱いて美術館を訪れると、また違った見えた方になるのかもしれない。パンフレットで章大君もそんな感じの事を話している。
時代を先取り過ぎた才能と性分がフィンセント自身を追い込んでいたのだとしたら皮肉な事である。何かを生み出す事は才能があったとしても辛さや苦しみが伴う事もあり、そんな苦悩する姿にフィンセントと章大君の姿が重なっていた。
中盤から件のリボルバーはずっとステージ上に置かれていた。全てを見て来たのはリボルバーであり、過去と現在を繋いでいる象徴としての役割があったのだろうか。
パンフレットの章大君の言葉には喜怒哀楽とあったけれど、舞台上では喜びや楽しさよりも怒りと哀しみの分量の方が多かった様に見えた。怒りや哀しみを爆発させている場面が多かったように思えた。
特にフィンセントに関しては幸せそうな時間が舞台上では少なくて、彼が本当の笑顔で嬉しそうに振る舞ったのはポールがアルルに到着した時くらいだったのか?持っていた食材を撒き散らしながらポールと抱き合うシーンはそういう意味でも印象に残っている。
現代では非常に価値のある作品の数々を生み出した創作の喜びをフィンセントは果たして感じていたのだろうか。そんな思いを抱いて美術館を訪れると、また違った見えた方になるのかもしれない。パンフレットで章大君もそんな感じの事を話している。
時代を先取り過ぎた才能と性分がフィンセント自身を追い込んでいたのだとしたら皮肉な事である。何かを生み出す事は才能があったとしても辛さや苦しみが伴う事もあり、そんな苦悩する姿にフィンセントと章大君の姿が重なっていた。
ステージ上にはフィンセントしか存在していなかった。アイドルの安田章大の姿はどこにも無かった。
メイクや衣装によって仕上げられたとはいえ、もう本当にフィンセントだった。実際に会った事はもちろんないのだけれど、私のわずかな知識の中に存在しているフィンセントだった。
メイクや衣装によって仕上げられたとはいえ、もう本当にフィンセントだった。実際に会った事はもちろんないのだけれど、私のわずかな知識の中に存在しているフィンセントだった。
狂気に満ちた遠くを見つめる鋭い視線は思い出すだけでも鳥肌が立つ。
ぼんやりと虚な目をして車椅子に身を任せる姿は病んだフィンセントが時空を超えて手の届きそうな所でゆっくりと息をしているのを感じた。
特にラストシーンは美しかった。その美しさに私は涙した。行定監督が語っていたキラーショットである。
植えられた向日葵の向こう側へ消えていく19世紀の3人と、こちら側でそれを見つめる21世紀の3人。残された絵画と錆びたリボルバーを通して魂と感性のリレーが行われたようだった。
確かにゴッホを中心とした物語ではあったが、19世紀の三者三様の思いや生き方がとても良く見えた。主人公はゴッホだけではなくステージ上の全ての人なのではないかと強く思った。
ぼんやりと虚な目をして車椅子に身を任せる姿は病んだフィンセントが時空を超えて手の届きそうな所でゆっくりと息をしているのを感じた。
特にラストシーンは美しかった。その美しさに私は涙した。行定監督が語っていたキラーショットである。
植えられた向日葵の向こう側へ消えていく19世紀の3人と、こちら側でそれを見つめる21世紀の3人。残された絵画と錆びたリボルバーを通して魂と感性のリレーが行われたようだった。
確かにゴッホを中心とした物語ではあったが、19世紀の三者三様の思いや生き方がとても良く見えた。主人公はゴッホだけではなくステージ上の全ての人なのではないかと強く思った。
私は舞台前に原作を読んだ。悩んでいると以前の記事に書いたけれど結局読んだ。仏像鑑賞に出掛ける時に私は予習をしていく。お像に対する知識があった方が一度の鑑賞から得られる事が多いからだ。それに倣って今回は原作を読んだのだ。
手にして20数ページを読んだ所で数日放置してしまった。
ゴッホ、出てこないやんか。
しかし友人から連絡を受けて、そろそろ読まねばと読み始めたらあっという間に読み終えてしまうほど原作も非常に面白かった。今回は原作と舞台は別物なので、原作は読まなくても舞台を楽しむ事が出来るのではないかと、個人的には思う。
アイドルの安田章大はいなかったと書きましたけど、私がチラっと感じたフィンセントではなく章大君の姿は、さくらんぼの歌の歌声とステージからはけていく時の小走りの走り方の二か所でしょうか。
まさか、この内容の舞台で透き通るような歌声を聞けるなんて思っていなかったので、とても嬉しかったです。幸いな事に私はフィンセントの声を聞いた事が無いので歌声からは章大君を感じる事が出来ました。
私が観劇した回ではカーテンコールで章大君は言葉を発する事はしませんでした。視線は会場内へ送るものの「ありがとうございました」とも言わずに去って行くのでした。時節柄色んな制約がるのかもしれませんが、演者として伝える事は全て舞台上で出し切って表現したので、そこから感じる事が全て、ということなのでしょうか。
それはそれで、かっこよすぎる。
それにしても章大君、お身体が非常に薄くて痩せていました。
大報恩寺の寺宝である快慶とその弟子の作品とされる十大弟子像の中のお一人の様に見える場面がありました。(興味がある方は大報恩寺・十大弟子で調べてみてください。)色々な事があって、加えて今の様なご時世で舞台を作り上げる事は文字通り身を削る事なのかもしれません。
舞台を降りた章大君が心身ともに健やかに過ごせる事を祈っています。素敵な舞台をありがとうございました。