親子eighterはじめました。~母はなにわ男子も嗜みはじめました。~

AmBitiousも応援中!真弓のタケ垣にタケ立て掛けたのはタケ立て掛けたかったからタケ立て掛けたのです。

じい様のお引越し。

2017-03-12 00:00:56 | 実話


まだ寒さが厳しくなる前の事です。

じい様が一人で急いでお引越ししました。

引っ越し先は極楽浄土。

引っ越し業者ではなく、阿弥陀様が沢山の菩薩様をお供にじい様を天国へ誘って下さったことでしょう。



私が実家へ通い出して3年になります。

元々はばあ様の体調不良を何とかしなければ!という思いでした。滞る家事をこなし、せめて私がいる間は温かい食事を作ってあげようと思ったからでした。

ばあ様の体調が上向きになって直ぐに、じい様の病気が分かりました。

手術そのものは成功したのですが、じい様は術後の治療との相性が良くありませんでした。

副作用ばかりが強く出て、効果があったのかどうか分からない状況が続きました。

私は自分の病気の時は泣いてばかりでしたが、じい様の時は努めて泣かないように過ごしました。

嬉しい時の為に涙をとっておきたかったのです。

5年後に主治医から「もう大丈夫です。」と言ってもらえる時にの為に。



術後、わずか一年で転移。

それが分かってからは病魔の驚く程の威力に私達家族も不安になる事が多くなりました。

それでも亡くなる一週間前までは笑顔で入院生活を送れていました。

痛みのコントロールが上手く行かなくなっても、お正月は家に帰りましょう!というのを合言葉にして前向きに過ごしました。そして、それは実現すると主治医も看護師さんも、そして私達家族も信じていました。帰れるはずでした。

その晩は珍しく病室のじい様から、夜に電話がかかって来ました。

他愛もない会話でしたが、それが最後になってしまいました。




その電話から数時間後、病院からの電話で急いでじい様のもとへと駆けつけました。

テレビドラマで見ているのと同じような光景が、じい様の周りで繰り広げられている事が不思議でした。

現実の事として受け入れられませんでした。



東京オリンピックに一緒に行くって約束していたのにな・・・。








じい様は仕事も趣味も、趣味と関連するボランティア活動も現役で続けていました。

手術や治療で入院していても、退院した時は病院からそのまま会社へ行きました。


退院している間は一日も会社を休むことはありませんでした。

死ぬまで仕事がしたい。

そう言い続けていましたから。亡くなる数日前にも、病室でウトウトしている父が私に時間を尋ねて来ました。

「午後3時だよ。」

と答えると、

「じゃあ、そろそろ会社に戻らないとな。」

そう言って、また眠りました。

そんな、忙しい合間を縫って趣味とボランティア活動を50年続けて来ました。

その功績が称えられて、市、県、国からそれぞれ表彰された事もあったのです。

仕事と趣味とボランティア活動がじい様の人生を支えて来たのですね。


葬儀場には会場に入りきらないお花がロビーにもたくさん、本当にたくさん溢れていました。


立派な旅立ちをさせてあげられたかな?




大好きな先輩や仲の良いお友達から言われた事があって、私はそれをいつも念頭に置いていた3年間でした。

「親孝行はしておいた方がいいよ。」


これまでの状況で出来る事は全部出来た。


今はそう言えます。

そう言う為に、自分への免罪符を与える為に頑張ったのかもしれません。

ズルイのかな、私。


それでも、こんな私の事をじい様は最後まで宝物と言い続けてくれました。

じい様との思い出が沢山あり過ぎて涙が溢れます。

何より私自身がじい様との思い出の結晶にも思えて、もう少し自分の事を好きになってみようかとも考えます。



じい様がいなくなった後、庭掃除をして焚き火をしました。

幾千幾百もの落ち葉の全てにじい様への思いを書いておいたら、その思いはじい様に届くだろうか。

届いたならいいのにね。

そして春になったら、沢山の芽吹きの中にじい様からの返事が書いてあったらいいのにな。

そんな事を考えると煙が目に沁みたのか、どうしても涙を止める事は出来ませんでした。










さあ、もーたん!春が来たよ。

お気に入りの毛布を置いてお散歩に行こう。

じい様からのお返事を探しに行こうよ。

じい様からのお返事を沢山見つけよう!

どっちが沢山見つけられるか競争してみよう。









NaNaは大学を卒業したよ。

RYOは就活をはじめたよ。

私は50歳になったよ。



それからね、ばあ様もとても元気になったよ。

一つの病院は卒業出来たんだよ、ウソみたいだけど、もう大丈夫なんだって。



一緒に喜びたかったな。






ありがとう、じい様。

いつだって私の味方でいてくれたね。

最強で最高で最愛の味方でいてくれたね。

大好きだよ、ありがとう。



実家でのお仕事 ~孝行したくなくても親はいる・じい様編~

2016-02-19 00:01:55 | 実話



みなさま、ごきげんよう。

可愛い可愛いもーたん♪

お座りして、おやつを待っています。

最近のお気に入りはサツマイモとササミチップス!

もーたん♪とばあ様の為に私は庭掃除をしながら焼き芋を焼くのです。





お昼寝中にゲージを覗くと、ぼんやりした様子。

こんな姿も可愛いです。

前足の曲がり具合も満点ですね。




誰も遊んでくれないから拗ねているんです。

この目線!!

拗ねてる~可愛い~。


実家通いが続くのも、可愛い可愛いもーたん♪がいるからです(笑)



2月にばあ様が通院を始めて、少し落ち着いた4月。

じい様の病気が見つかりました。

少し調子が悪いと近所のクリニックに通うこと1年。膀胱炎とか過活動膀胱などど言われ薬を飲むも一向に良くならず、ある朝、目に見える形で異変が起こりました。

大きな病院へ行き検査をした所、かなり進行している状態。

私がばあ様を病院へ連れていかなかればと実家へ通っているのと同時進行でじい様がクリニックへ通っていました。私が数回病院を変えることを提案してみたのですが、お医者様の言う事は絶対!という考えでしたので、1年放置した事になってしまいました。

もっと強く言って早くに病院を変えていれば、と悔やみました。でも、これから先に出来る事がまだあると思い、気持ちを切り替えました。


4月にじい様は検査入院をしました。

じい様にとっては生まれて初めての入院です。風邪で寝込むことさえ無かったのですから、一週間の検査入院は家族にとっても未知の世界でした。

その時の私に出来る事は、じい様に素敵なパジャマを数着プレゼントするのと、病気の治療のガイドラインを読んで勉強する事。

私自身の病気は患者数が多いので、患者用に分かりやすいガイドラインが発売されていますが、じい様の病気は医療従事者用の専門書しかありませんでした。

場所は違うけれど同じ病気という事で、ガイドラインの内容を理解するのはそれほど難しくはありませんでした。

これをキャンサーギフトというのか?などど思いましたが、受け入れることは出来ませんでした。ガンからの贈り物なんていらないものってね。


検査の為の手術当日の朝、じい様から私の携帯に電話がありました。なんだろうと電話に出ると・・・


「点滴が漏れてパジャマが濡れてしまったので、すぐに来て着替えさせて欲しい。」


初めて入院を経験するじい様は[ナースコール]をどう活用していいのか、それさえも分からなかったのです。

ナースコールの意味を教えるのも一苦労でした(笑)

お医者様の言う事を聞いて、看護師さんには出来るだけ迷惑を掛けないようにしなければ!という考えだったじい様。お蔭で家族は振り回される事となったのです。

午後からの手術に備えてのルート確保だったので、太い針を使ったので漏れてしまったようでした。輸液だったので問題はありませんでしたが、これが抗がん剤だと思うとゾッとしました。


検査入院から一か月後、本来の治癒目的の手術の為に入院しました。

この時は2週間。

手術が無事に終わり、一度退院して体力を取り戻し、2週間後に3度目の入院。

化学療法の為でした。

ワンクールが終わると強烈な副作用がやって来ました。

じい様の薬は脱毛が無かったのですが、インフルエンザの様な状態プラス吐き気という感じだっと見受けられました。

副作用はどんな感じなのかな?というじい様に対して、インフルエンザの時みたいだって、と答えるも、インフルエンザに罹患した事の無いじい様には予想不可。

余計な先入観がなくて逆に良かったのかもしれません。

3度目の入院は1週間の予定でしたが、じい様は発熱がずっと続き振り返れば入院はひと月に及びました。

じい様は病院の食事が苦手で、許可を得て差し入れをしました。

昼は私が、夜はばあ様が、朝はパンとか温泉卵とかを病室の冷蔵庫に入れておくことにしました。

病院への差し入れを1日に2度するのは思いの外大変でした。

ばあ様が疲れて出来ない時は私が代わりに昼夜と通いました。

猛暑の夏を群馬で過ごした故、シミが増えました( ;∀;)



ひと月の入院でじい様が体重が減り激やせ。

毎日差し入れを続けたばあ様と私は疲労困憊。

2クール目の治療の前に一度退院して仕切り直しすることを希望しました。


2クール目はお薬を減量して治療しました。この時は発熱が無かったので1週間で退院出来ました。じい様の場合は術後の治療は無いので、退院後は無治療で経過観察の為に月一で通院しています。

じい様は入退院の合間も、そして現在も仕事を続けています。

退院したその足で、そのまま会社に行く位の仕事大好き人間です。無理の無い範囲で仕事を続けて欲しいと思います。



そんな訳で、ばあ様の二か所の病院の付き添いと、じい様の病院への付き添いが現在の私の実家でのお仕事です。



あっ!もう一つ大事なお仕事。

それは、もーたん♪を朝晩のお散歩に連れて行き、夕食後のもーたん♪タイムにいっぱい遊ぶこと\(^o^)/



じい様とばあ様には私の行き過ぎたお節介を受け入れてもらえているみたいです(笑)







実家でのお仕事 ~孝行したくなくても親はいる・ばあ様編~

2016-02-19 00:00:18 | 実話


みなさま、ごきげんよう。

写真は実家のばあ様が愛用している「自動読経マシーン」

以前に深夜にお経が聞こえて来て恐怖で震えた事があったと、ここでも書きました。

壊れてしまったので、ばあ様が新しいお経マシーンを購入しました。

楽天にもあるようです(#^^#)








発売元はテイチクさんね!!

テイチクさん、お経からエイトさんまで幅広くお取り扱いがあったんですね。







今日は私が実家でどんな風に過ごしているのかを書こうと思います。

こちらは、ばあ様と二人で日帰り温泉に行った時のお昼の写真です。

ちょうど雪が降った後でしたので、お風呂から見えたのは雪景色。

美しく、そして気持ち良かったです

この温泉に行ったのは一年振りで、ばあ様が治療をはじめた時以来でした。

一年の治療と通院を頑張ったばあ様へのご褒美。

何より、そこへばあ様を導いた私自身へのご褒美でもあったのです。





ばあ様の病院へ行く途中、タクシーの車窓から見えたのはこんな景色。

この季節は寒いからね~、ばあ様は理由を付けて通院を拒み先延ばしにする傾向があるのです(´・ω・)

今回の鼻先のニンジンが日帰り温泉だった訳でございます。

温泉じゃない時はばあ様が大好きなショッピングに付き合います。

私は心の中でそれを「修行」と呼んで頑張っています(笑)


私自身の病気ではないし、ばあ様の許可を取った訳でもないので正確な病名は書きませんけども。


ばあ様は仕事を辞めて家にいるようになってから、お酒に溺れて行きました。

治療を始める前の約3年間は毎日が酩酊状態でした。

なんとかしなければ!という気持ちはあったのですが、先日書いたように私自身の病気の事、そして子供達がまだ高校生で親として色々としなければと思う事が多く、実家の事が後回しになってしまいました。

実家通いの転機は息子の大学合格です。

ちょうど二年前の今頃からでした。当時の私の目的は明確に二つ。

一つはばあ様が出来ない家事をすること。一つはばあ様を病院へ連れて行くこと。

ばあ様がそんなでしたから、主婦不在の状態でした。せめて私が帰った時には温かいご飯を父と弟に作り、いつもは父と弟でこなしている掃除や洗濯をする。

一つ目の家事は問題なく出来たのですが、二つ目のミッションを成功させるまでなんと一年の歳月を費やしてしまったのです。

それはお酒に溺れた人の多くがそうであるように、ばあ様も溺れている事を認めなかったからです。

お酒なんて飲んでいないし、ましてや溺れてもいない。

それがばあ様の言い分でした。

毎月通い、それとなく通院を促しては喧嘩をすること半年。その時に私は一度全てを諦めてしまいました。

遅々として進まないばあ様の通院に焦り苛立った私は、じい様とばあ様を責めたのです。すると二人は「うるさい小姑みたいね!」と言いました。

じい様とばあ様の為に、と思っていた行動が行き過ぎたお節介のように思われていたのかと、とても悲しくなってしまったのです。



一度はくじけてしまいましたが、諦めなくて良かったです。

それから半年後の去年の今頃、ようやく通院を開始出来ました。

数回のドロップアウトはあったものの、ばあ様はお酒を口にする事なく今日を迎えている・・・はずです。

肝臓の数値も正常になりました。



お酒の影響で老人力が高まってしまったばあ様。

こちらの通院も最初は渋っていましたが、昨年秋から治療が始まりテストの点数も問題の無い点数になりました。

タイムリーだなと思ったのは、先日のマルちゃんの番組で某婦人が認知症の検査をしていましたよね。お酒の影響が出ていると言われていましたが、某婦人より酒量が多く脳の萎縮が進んだ状態なのが、ばあ様なのです。



もう老人だから・・・と諦めないで良かったなと思います。

ここまで投げずにやってこれたのは、私が親より先に大きな病気をして、もしかしたら親より先に・・・という親不孝をしてしまうかもしれない、と思ったからです。

私自身が出来る時に出来る事をしよう!

孝行したい時に親は無し、と言いますが、この先私自身が後悔しないように、これからも出来る事をやっていこうと思うのです。


今の私の事を親不孝と言う人はいないと思います(笑)


だって、ばあ様が一息ついたら、次はじい様が大変な事になってしまったのですから。

じい様編は次に。


デブの貧乳可もなく不可ばかり、私のチチ物語。

2016-02-14 00:25:27 | 実話
みなさま、ごきげんよう。

安心してください!大丈夫ですよ(*'ω'*)

今日のタイトルは私がもしも病気ブログをするとしたら、このタイトルにしようと。

でも病気ブログは書きません。

が、しかし病気である事は紛れもない事実であり、いつかどこかで書くのもいいかな~と思って来たのです。

来月の誕生日を迎えると40代最後の年になりますし、軽やかな50歳を迎える為の準備の一年にしたいと思っているし、章ちゃんのドラマが切っ掛けをくれたようにも思えたので、書いておこうかな。






2012年の春、関ジャニ∞の8周年の年に病気が見つかりました。

デブなのに貧乳だったお蔭で私は自分で胸のしこりに気付きました。

近所のクリニックを受診した際に「悪性の可能性」を示唆され、帰り道に自転車が漕げなくなり泣きながら帰宅した事を覚えています。すぐに近くの総合病院を受診し、更に詳しい検査をして結果が出るまでの2週間。

この2週間が辛かった(ノД`)・゜・。

振り返ると精神的に辛かったのは、この2週間。

結果を聞きに一人で受診した私は、悪性の告知をもちろん一人で聞き、手術を希望する病院への紹介状をもらいました。

大学病院から来ている先生はご自身の病院で手術して欲しそうでしたけどね。

当時、めまいでお世話になっていた女医さんにA病院で手術しようと思いますと告げると「A病院の乳腺科はいいですよ。後は病理がいいので大丈夫!」と言われました。


病院は患者さんが非常に多く手術まで約2か月待ちました。

手術までの間に様々な検査をするのですが、閉所恐怖症の私はMRIが最大の恐怖でした。

しかもうつ伏せになっての検査なので、鏡で外を見る事も出来ず震えながらの検査(;_:)

機械の中へ入る時に、顔の下に持参した関ジャニ∞が表紙のテレビ誌を置いて。

検査が終わるとテレビ誌は私の涙でしわっしわ

ホッとして着替えの途中で倒れて待合室で寝かされる事20分。

検査室担当の看護師さんがずっと身体をさすってくれたのがありがたかったな。


手術に際し私は同じ年の1月に見つかった婦人科の疾患も同時に出来ないかなと考えていた。

全身麻酔って、なんとなく一度死ぬのと同じと思っていたので、出来る事ならこれを最初で最後にしたいと思ったんだよね。

幸い同時に出来るとの事で、思い切ってしまったのです。

この思い切りを後悔したのは術後3日だけで、今では同時に手術して良かったと思っています。



手術室がズラーーーーっと並ぶ前室みたいな所で緊張していた私。

だって怖いじゃない!

手術室の看護師さんが「溜息になっちゃいます?それだったら吐いた後で息を吸って深呼吸にしましょう(*'▽')」と一緒に深呼吸をしてくれました。

怖くて仕方が無かった私は「手を握ってもいいいですか?」と看護師さんの手をギューっと握りながら深呼吸していました。


麻酔医の藤原紀香似の美人女医と話していると・・・母さーん、終わりましたよ~起きて下さ~い。という婦人科の主治医の声で目覚めました。

物凄く眠かったのは覚えています。

病室に戻ると、ばあ様と子供達が待っていました。

2日後に語学留学に旅立つ息子の手を握り「気を付けて」とだけ言うのが精一杯でした。


私の入院期間は10日間でした。

胸とお腹に傷があっても人間10日で退院出来るんですね、すごいです。

手術の2日後には起き上がってトイレまで歩くというリハビリが待っていました。

驚いた、驚いた!だって2メートルが歩けない、辛い、無理。

それでも可愛くて優しいナースちゃんが付き添ってくれて無事にトイレまで往復出来ました。

今でも時々思うのは、あの状況でトイレまで行けたんだから、私は大丈夫!

そう思えるのです。

この時のナースちゃんはその後も私の担当になってくれたのですが、私が泣いていた時に一緒に泣いてくれました。

「本当は泣いちゃいけないんです」

そう言いながら。私は温かさを感じて嬉しかったんだよね、とても。病気の身体だけじゃなく弱った心にも寄り添ってくれていると感じ、とても安心出来たのです。

その後もナースコールで待たされた記憶はありませんし、本当にホスピタリティに溢れる病院でした。手術件数や技術的な事だけでなく、本当に素晴らしい病院だと、私の病院選びは間違っていなかったと思えました。


幸い私は早期発見であった事、悪性の中でも大人しいタイプだった事で放射線治療をして、現在は内分泌治療中です。

思えば、八祭は退院直後で行くことは出来なくて残念でした。しかし術後約ひと月でスタジアムの8ESTにはママ友と一緒に行くことが出来たんですよね~。

これは未だにどうして行けたのか不思議なくらいです(笑)

関ジャニ∞への愛に他ならないんですけどね。

この時の事も、その後の教訓になっていて、術後ひと月でライブに行けたんだもの、私は大丈夫!と思えるのです。

どこまでもeighterですね( *´艸`)

そうそう、eighterのナースちゃんもいらしたので、お部屋に来てくれた時は関ジャニ∞の話を沢山したの!ちょうど映画「エイトレンジャー」の公開で番組宣伝が沢山あった時期だったし、ナースちゃんは八祭にも行くって言ってたし♪



気づけば5年間の内分泌治療も折り返しを過ぎ3年半が過ぎました。

この治療と婦人科の手術の副作用として更年期に悩まされているんです(;_:)

年齢的には少し早いのかもしれませんが、ホットフラッシュだの不定愁訴だのと書いているのは、そういった理由があったからなのです。


年明けに風邪をひいてしまいました。

それが中々治らず、不定愁訴のオンパレードが続き少々凹んでいました。

どこが、なにが、とハッキリ言えないけど、なんとも具合が芳しくない。

これぞ、まさにTHE★不定愁訴

だからと言って治療を止めたり、お休みする程でも無い。

が、しかし具合が悪い・・・これの繰り返しね( ;∀;)


今日、これを書いたのは自分自身が残りの治療を全うするために、自分自身へのエールを送ろうということかな。

頑張れ、私!

きっと大丈夫。

ブログの更新頻度も内容も、以前のようには書けないけれど、それも「今」の私。

抗うことなく受け入れて参りたいと存じます\(^o^)/



みなさまも、色んな事を抱えて大変な日々を過ごしていらっしゃるのかもしれません。

一緒に頑張りましょうね!


私たちには関ジャニ∞がついています!









そして私はカフェグラッセを飲む。

2014-06-29 23:48:46 | 実話


小雨が降りやんだ土曜日のお昼前。

私はお気に入りの傘を手に、かさ張る手土産を持ち電車に乗った。


新しい路線が走り、利便性も良くなって新駅が出来たけれど、乗り換えた後の懐かしい車窓の景色になんとも言えない郷愁を感じていた。


待ち合わせはあえて通学に利用していた駅に設定。

集合時間はランチには少し早目の11時。

お店も決めないまま。

みんなと会ってから、ああでもないこうでもないと、話ながら決めるのもいいかなって思ったから。


25年ぶりの同窓会。

以前に書いた「アナホリッシュの会」はゼミの友人の集まりで、今回はサークルの友人達の4人で。

結婚の時期が違い、子育ての忙し時期も少しづつズレていたし、友人の一人は米国の大学で教鞭をとっているので、卒業後は日本にいない時間の方が長かったのかもしれない。

そんな事もあってか、特に合わない理由があったわけでもないのだけれど、4人で揃って会うのは四半世紀ぶりとなった。


乗り換え駅での計算外の混雑で一本逃してしまった私が集合時間の二分後に到着した時には、すでに3人の輪が昔の様に出来ていて、笑い声ですぐに彼女たちだと分かった。


宝塚歌劇団の大階段のつもりで、優雅に階段を降りていく私を見つけて、


「わー、久しぶり~」と声が掛かる。


「昔は乙女、今は太目!お待たせしましたー(*´▽`*)」


と流行りのCMの様に声を掛けた。


爆笑する私達4人は、すぐに女子大生だった頃に戻った。



「お店は決めてないから、歩きながら決めよう。」


そう言って、通いなれた商店街の中を4人で歩いた。


私が今回の連絡係になってから、実は横浜のガイドブックを買っていた。


その事をみんなに話すと、「なんでよー」と笑われた。


「だってほら、久しぶりだからね、新しいムーブメントが起こっているかもしれないし。」


そう答えると、笑いは爆笑に変わった。

ブラブラ歩いて、結局は悩むことも無く、大学時代にも行ったことのあるお店に決めた。

飲茶のお店は当時と変わらず、そういえば見覚えがあった。


大学時代に群馬から出て来た私は、中華街で初めて食べた飲茶にカルチャーショックを受けた。

大根餅にゴマ団子、透き通る海老蒸し餃子、そしてタマゴカスタード饅頭・・・


意外にも、横浜で生まれ育った友人も当時は同様にカルチャーショックを受けていたと聞いて驚いた。

美味しい飲茶をしながら、お互いの近況報告をした。

自らの体調に関する事がメインだったけど(笑)


とにかくみんな元気で集まる事が出来て、美味しくご飯を食べられる事が本当に幸せだね、という統一見解に至った。

サークルの活動は至極真面目なものだったので、1つの事が「議題」として上がると必ずみんなが自分の意見を話して、議論して、結論を出していた、その一連の流れはとても美しく・・・まるで当時のサークルの活動みたいだった。


最初のお店を出て、当時は無かった観光名所で足を止めて、道行く人にお願いして4人で記念撮影をした。


ガイドブックまで買ってはみたものの、結局二軒目のお店も当時からある喫茶店に決めた。


バラバラで会う事はあっても、どうしてこんなにも長い間4人で揃う事が無かったのかと、改めて話題・・・議題が提出された(笑)


よくよく考えてみたら、幹事不在が原因であると分かった。

どうやら、幹事は私の役目らしかった(汗)


結婚も早めで、年子の育児、それから体調を崩して、ボヤボヤしていたら手術したりして、ようやく二人の子供が大学生になって余裕が出来た私が連絡係になって、4人で会う事が実現した。


とういことで、来年も友人が帰国したら4人で会う事に決めた。

そう決まる頃には夕暮れが迫っていた。

品行方正で真面目な主婦である私達は、4時過ぎには再会を誓い笑顔で別れた。



本当にね、みんな変わってないの。

真面目でスマートで優しくて可愛いの。

そんなみんなが改めて大好きだと思いました。


今の私があるのは間違いなく、この3人のお蔭でもあります。

あの頃に出会って築き上げた沢山の事は、今日を生きる私の大切な一部であり、欠かせない一部です。

今は年齢を重ねて、見た目通りに色々と積み重なっているけれど。

みんなと過ごしていた「あの頃」が無かったら、きっと私は別人だったね。

昨日は言えなかったから、ここで言わせて下さい。


ありがとう。

私と出会ってくれて本当にありがとう。

これからもよろしくね。

連絡係、頑張ります(*'▽')