モディリアーニ(その1)
「スフィンクスの前に立つ」
夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を見てきた。平日だったにもかかわらず、行列を組みながら進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な恋物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスによるものだろう。
さて、その混沌とした感想を無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は今日的な「スフィンクス」はないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思うのである。
テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足、四つ足と姿を変えるものはなにか?」という謎々である。「それは人間だ」と正解したのがオイデプスであった。モディリアーニのスフィンクスはそんな一般的な問いを発するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君は誰だと云うのだ?」…正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。
「近代の果ての孤独ということ」
彼の描く人物は、それぞれ非常に個性的であり、おそらくそれが故の優しさと憂愁を我々見る物に与えてくれる。その感覚とは、現代美術としては稀少となってしまったロマンティズムある。とはいうものの、そのの根源には、非叙情的なる存在論的な構造があるだろう。描こうとする対象が個性的だといったが、正確にはいやおうなしにそこにある「モノ」の個別性と言ってよいだろう。それがわれわれの受け取る憂愁というものの正体である。、現代的なロマンティズムというものは、その意味で人間的というよりも物質的である。モジリアーニ肖像が語る孤独は、ものの哀れというような日本人の感傷に収斂できない、近代という営みの果てに見出した自己像、すなわち人間をも含む「自然」をコントロールし支配しようとする人間が陥った孤独である…そのあたりを探ってみたい。
「モノと仮面」
彼はもちろん二次元的な画布上に、彫像を制作したといえる。そしてそれは仮面の本質を有した彫像である。彼の描こうとした人間の本質は、ああでもありこうでもあり得、つまるところ何でもあり得、何でもないところの「イメージ」ではなくむしろ人間にあるモノの質感である。しかしそれは「肉体」ということでもない。肉体というのはむしろ自由の根拠でもある。人間の実体を否応のない「モノ」としてとらえたのだ。そしてそのモノには瞳を来る抜かれた「穴」がある。その穴故にモジリアーニの肖像画には穴が空いて、反ポートレイトとも、あるいは最後のポートレイトとも云える位置に置かれている。彼以後、少なくとも画布の上では、人間は抽象化され、単なるイメージか記号、模様の類に変容されたのだ。写真、映画など映像の時代にはいり画のポートレイトが商業的になりたたなった。また絵画の芸術における存在理由として、リアリズムでは映像にとうてい太刀打ちできず、想像力もしくは無意識という場所に重心を移したのである。
「モナリザ的仮面の本質」
ダビンチは中性から近代へ、人間中心主義を切り開いた、無神論者であった。レオナルドダビンチのモナリザは人間的が仮面であることの告白である。多くの人は神秘的だと感受する、彼女の微笑みに邪悪さ(語調が強すぎれば「陰険」と言い換えてください)さを読み取ることはそれほど難しくはないだろう。ただ、鑑賞者が自分の生きている邪悪さに気がつきたくないために、世間に流布されている「モナリザの微笑み=神秘的」という共同のコードを利用し、その正直な直感を打消すのだ。
モナリザは近代的、人間の鏡像であり仮面である。その意味は仮面の背後に意志と欲望の主体である自我が控えていて、その眼差しの元、浮かべる表情の薄笑いとは、親密性という笑いの本質を否定するところの、敵意、支配欲、相手を表情にコントロールしようとする隠された意志である。モナリザファンは、この意見に容易に同意しないだろうが、同じ画家による「洗礼者ヨハネ」の両性具有の不気味な笑いを思い出していただきたい。モナリザが実はダビンチの自己像であるだとか、モナリザは未亡人でその笑いは哀しみを隠しているとか、その右半分の顔は女であり、左の顔半分は男であるというような、俗説がある。要するに神から離れることのできた画家は、ニーチェが見抜いたように、人間の持つ両面性である善と悪を躊躇することなく描けた。また彼に続く神から離れた人間達は人生を躊躇なく善と悪の全体性で生きうるのだ。その全体性とはひと言で言うと個人の根拠としての隠された「欲望」と名付けてよいだろう。そして欲望の対象は、人ではなくあくまでも間としての自然である。本質的に私の他に外部としての他者をもたないのである。人間一般の問いに果敢に答えることの出来たオイディプスは、他者としての「汝自身」を知らない自信満々の男であった。父を殺し母と結婚した自分の運命を知ったとき、自分から進んで文字通りの盲目となる。それまで、彼は父や母や自分と出会い損ねていたのである。
さて、その意味でモナリザもダビンチも出会いそこねの途上にある。
「モディリアーニの画は、仮面的な彫像である」
この度の展覧会の企画者であるマルク・レステリーニ氏は、モディリアーニの人物像がプリミティヴィズム(原始主義)に根ざしたものだと断言している。他の芸術家達のプリミティヴィズムの影響が一過性だったのに比べ、彼のそれは基本原として用いたと述べる。なるほど、冒頭で彼の画を、スフィンクスになぞらえたた僕の主観は、スフィンクスがアフリカの工芸品や彫像でないにしろ、まったく根拠のないことでもなさそうだ。 画布上のに次元に、彼は三次元空間の仮面的な彫像を造ったのだといえる。
同時代のピカソのキュービズムが多視点からの描写を二次元上に再構成を行った。いわば立体的な紙のサイコロを伸ばして平面にしたものである。定点にいながらにして、すべての視点からの対象の眺望を我がものにする、究極の見る欲望である。効果としては徹底的な二次元性であり鑑賞者は一歩も動けない。画の裏にまわることが可能性として許されていない。これに対し、モジリアーニの画においてわれわれは可能性としての他視点を得ている。画の後ろからみたり、近づいて触ったり、腕をまわして抱くことも、可能性として許されている。
彼の画が彫像的であることの根拠を、絵画技術的に述べることは素人の僕にはできない。ただ彼はもともと彫刻家を目指していて、健康上の理由からそれを断念したことを指摘しておこう。
「創世記」
さて閑話休題、僕の拙い詩をはさむ。
断言
死ぬから愛するのだ
ということは本当だ
断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ
堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ
アダムがイブのために
イブがアダムのために
「スフィンクスの前に立つ」
夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を見てきた。平日だったにもかかわらず、行列を組みながら進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な恋物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスによるものだろう。
さて、その混沌とした感想を無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は今日的な「スフィンクス」はないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思うのである。
テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足、四つ足と姿を変えるものはなにか?」という謎々である。「それは人間だ」と正解したのがオイデプスであった。モディリアーニのスフィンクスはそんな一般的な問いを発するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君は誰だと云うのだ?」…正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。
「近代の果ての孤独ということ」
彼の描く人物は、それぞれ非常に個性的であり、おそらくそれが故の優しさと憂愁を我々見る物に与えてくれる。その感覚とは、現代美術としては稀少となってしまったロマンティズムある。とはいうものの、そのの根源には、非叙情的なる存在論的な構造があるだろう。描こうとする対象が個性的だといったが、正確にはいやおうなしにそこにある「モノ」の個別性と言ってよいだろう。それがわれわれの受け取る憂愁というものの正体である。、現代的なロマンティズムというものは、その意味で人間的というよりも物質的である。モジリアーニ肖像が語る孤独は、ものの哀れというような日本人の感傷に収斂できない、近代という営みの果てに見出した自己像、すなわち人間をも含む「自然」をコントロールし支配しようとする人間が陥った孤独である…そのあたりを探ってみたい。
「モノと仮面」
彼はもちろん二次元的な画布上に、彫像を制作したといえる。そしてそれは仮面の本質を有した彫像である。彼の描こうとした人間の本質は、ああでもありこうでもあり得、つまるところ何でもあり得、何でもないところの「イメージ」ではなくむしろ人間にあるモノの質感である。しかしそれは「肉体」ということでもない。肉体というのはむしろ自由の根拠でもある。人間の実体を否応のない「モノ」としてとらえたのだ。そしてそのモノには瞳を来る抜かれた「穴」がある。その穴故にモジリアーニの肖像画には穴が空いて、反ポートレイトとも、あるいは最後のポートレイトとも云える位置に置かれている。彼以後、少なくとも画布の上では、人間は抽象化され、単なるイメージか記号、模様の類に変容されたのだ。写真、映画など映像の時代にはいり画のポートレイトが商業的になりたたなった。また絵画の芸術における存在理由として、リアリズムでは映像にとうてい太刀打ちできず、想像力もしくは無意識という場所に重心を移したのである。
「モナリザ的仮面の本質」
ダビンチは中性から近代へ、人間中心主義を切り開いた、無神論者であった。レオナルドダビンチのモナリザは人間的が仮面であることの告白である。多くの人は神秘的だと感受する、彼女の微笑みに邪悪さ(語調が強すぎれば「陰険」と言い換えてください)さを読み取ることはそれほど難しくはないだろう。ただ、鑑賞者が自分の生きている邪悪さに気がつきたくないために、世間に流布されている「モナリザの微笑み=神秘的」という共同のコードを利用し、その正直な直感を打消すのだ。
モナリザは近代的、人間の鏡像であり仮面である。その意味は仮面の背後に意志と欲望の主体である自我が控えていて、その眼差しの元、浮かべる表情の薄笑いとは、親密性という笑いの本質を否定するところの、敵意、支配欲、相手を表情にコントロールしようとする隠された意志である。モナリザファンは、この意見に容易に同意しないだろうが、同じ画家による「洗礼者ヨハネ」の両性具有の不気味な笑いを思い出していただきたい。モナリザが実はダビンチの自己像であるだとか、モナリザは未亡人でその笑いは哀しみを隠しているとか、その右半分の顔は女であり、左の顔半分は男であるというような、俗説がある。要するに神から離れることのできた画家は、ニーチェが見抜いたように、人間の持つ両面性である善と悪を躊躇することなく描けた。また彼に続く神から離れた人間達は人生を躊躇なく善と悪の全体性で生きうるのだ。その全体性とはひと言で言うと個人の根拠としての隠された「欲望」と名付けてよいだろう。そして欲望の対象は、人ではなくあくまでも間としての自然である。本質的に私の他に外部としての他者をもたないのである。人間一般の問いに果敢に答えることの出来たオイディプスは、他者としての「汝自身」を知らない自信満々の男であった。父を殺し母と結婚した自分の運命を知ったとき、自分から進んで文字通りの盲目となる。それまで、彼は父や母や自分と出会い損ねていたのである。
さて、その意味でモナリザもダビンチも出会いそこねの途上にある。
「モディリアーニの画は、仮面的な彫像である」
この度の展覧会の企画者であるマルク・レステリーニ氏は、モディリアーニの人物像がプリミティヴィズム(原始主義)に根ざしたものだと断言している。他の芸術家達のプリミティヴィズムの影響が一過性だったのに比べ、彼のそれは基本原として用いたと述べる。なるほど、冒頭で彼の画を、スフィンクスになぞらえたた僕の主観は、スフィンクスがアフリカの工芸品や彫像でないにしろ、まったく根拠のないことでもなさそうだ。 画布上のに次元に、彼は三次元空間の仮面的な彫像を造ったのだといえる。
同時代のピカソのキュービズムが多視点からの描写を二次元上に再構成を行った。いわば立体的な紙のサイコロを伸ばして平面にしたものである。定点にいながらにして、すべての視点からの対象の眺望を我がものにする、究極の見る欲望である。効果としては徹底的な二次元性であり鑑賞者は一歩も動けない。画の裏にまわることが可能性として許されていない。これに対し、モジリアーニの画においてわれわれは可能性としての他視点を得ている。画の後ろからみたり、近づいて触ったり、腕をまわして抱くことも、可能性として許されている。
彼の画が彫像的であることの根拠を、絵画技術的に述べることは素人の僕にはできない。ただ彼はもともと彫刻家を目指していて、健康上の理由からそれを断念したことを指摘しておこう。
「創世記」
さて閑話休題、僕の拙い詩をはさむ。
断言
死ぬから愛するのだ
ということは本当だ
断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ
堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ
アダムがイブのために
イブがアダムのために