
だって大好きな人に逢えるんだもの

もぅ,何日も前からソワソワしてて身体をあちこちにぶつけたりしてる

何を話そうかとか,どこに行こうかとか,ランチはどぅしようかとか…。
大好きな人は,私の憧れの地からやってくる。
10年前その場所に訪れた時,独特の雰囲気と匂い,よそよそしくて他人行儀な人達,嘘だらけの輝き… 。
全てに魅力された。
その時の私が,身を置きたい条件の全部があったから。
その澱んだ雑踏の中に,埋没して生きてみたかった。
ひっそりと……,且つ華やかに…… 。
きっとここに戻ってこようと思って,帰路に着いたのを昨日の事のように覚えている。
その後,度重なるアクシデントの為に未だ実現できてはいないが…。
10年の月日が流れたその間に,あの頃覆い隠していた甘ったるい優しさという感情が,不本意にも顔を覗かせてしまったけど。
だけど,人間なんてそう簡単に変わるものじゃない。
それを言うなら,私は多重人格気味なのだから変わりようもなく,根本的に砂糖菓子の様な女ではない筈で…… 。
あの物騒な街が,今でも大好きなのだ

大好きな人はそんなあの地で,美しく強かに生きている。
決して薄汚れる事なしに…… 。
この胸のときめきは,幼い頃,海外から帰ってくるパパを待っていた気持ちに似ている。
遠い異国の風を孕んだ違う匂いのパパに,早く逢いたかった…… 。
そんな愛おしい気持ちで胸がいっぱい

姿を見たら,多分,泣いちゃうだろうな・・・

早く逢いたい・・・

色んな事に興味津々で,類に違わず耳年増だった十代の頃。
バイクが好きで好きで,バイクショップに入り浸ってた毎日。
ショップのおっちゃんも無類のバイク好きで,自慢のナナハンをいつも大事そうに磨いていた。
遊びに行くと必ず温かいコーヒーを入れてくれ,飲みながらたわいもない話をしたり,時にはバイクの整備の仕方を教わったり,店番を任されたりしていた。
そんなおっちゃんは,自慢のナナハンに何故か大事そうにコン○ームをしまっていて,
「もしもの為に入れてんだよ」
と言って,ニヤニヤしながら親しい人達に見せていた。
何故バイクにコン○ームなのか私には理解ができず,
「なんで?どこでヤんの?ア○カン?」
なんて恥ずかし気もなく聞いたりした。
おっちゃんの理屈はこうだった。
女はバイクに乗せるとその振動に感じるんだという。
おっちゃんのバイクはXJだったけど,ちょっといじった単発になんか乗せると,直ぐにイっちゃうんだとかw
それをおっちゃんは真剣に力説していた。
四発が大好きだった私には全く理解ができず,何より女の体がそれ程単純な構造だとも信じきれなかった。
その後私は,何度か単発のバイクに乗ったけど,イクどころか,やっぱ集合管の方がカンジるな…と思った程度だった。
大人になった今,あの真剣に話すおっちゃんの事を思い出して,なんだか可笑しくなってしまった。
おっちゃんは誰かに聞いた話を,本気で信じていたんだろう。
あのXJに積んでたコン○ームは,多分使われる事なく処分されてしまったと思う。
そんな単純な振動で,女が簡単に昇天するか否か・・・。
振動は別としても,案外単純かもしれないな‥と今更ながら思う。
耳元で囁かれただけで,イってしまう事もあるかもしれないから。。。。。
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
─── 身震いするほど大好きな一説。
深すぎて理解不能だった賢治の世界だったのに,この一説だけはすんなりと私に吸収されたのです。
『有機交流電燈のひとつの青い照明』
何者であるのか不確かであった私に,正しくこれだと懐に収まった瞬間でした。
私の賢治探しの旅は,ここから始まったのです。
その時の名残の木がまだ数本あるのです。
朝の林檎は金,昼の林檎は銀‥という喩えがあるように,林檎はとっても身体にいいそうですが,しばゎあまり好きではありませんでした。
それが‥
── 数年前,大きな手術をした時,吐き気と喉の炎症が酷くて,食事を全く受け付けませんでした。
その時,冷たく冷やした地元産の林檎ジュースが食事に出たんです。
唯一,口に入れられたのはその林檎ジュースでした。
高い熱とモルヒネで朦朧とした意識の中,冷たくて甘酸っぱい林檎ジュースが喉元を通り過ぎた瞬間,そう‥それは慈雨の滴。
新たな生を授けられた心地がしました。
あの時の林檎の美味しさは,生涯忘れる事はないと思います。
その時から私は,林檎に特別な想いを持っています。
赤く実った林檎を見る度に,
「ありがとう。」
と,心の中で呟くのです。
法をおもくして
我が身
我がいのちをかろくすべし
法のためには
身もいのちもをしまざるべし
─── 世ははかなく,人の命もいつどうなるか知れないということを,よくよく考えて,仏の教えを実践することを第一にするのがよい。
そのためには,我が身や,我が命をも惜しまず,願うことである。