
開業から今年で56年の盛岡バスセンター。
解体の計画は都度延期され今に至る。
今日も現役。
ほとんどは無くなってしまった美味しいお店も
数件だけは残っている。
券売機、長椅子などそれらも全てレトロ。
古き良き昭和の香り。

盛岡バスセンター
曹洞宗大本山永平寺の宮崎奕保(みやざき・えきほ)貫首が五日午前五時四十三分、札幌市内の入院先の病院で、老衰のため死去した。百六歳だった。
兵庫県加西市出身。自宅は永平寺町志比五の一五の永平寺。
仮通夜は宮崎貫首の遺体が永平寺に到着した後の八日夕から九日にわたって行われ、一般の人も参列できる通夜は十日午後五時から、密葬は十一日午前十時から、いずれも永平寺で営まれる。
喪主は永平寺監院(かんにん)の森嶺雄(もり・れいゆう)氏。
本葬の日取りは未定。
一九〇一(明治三十四)年に生まれ、十一歳で兵庫県加古川市の福田寺に弟子入りし、一九一五(大正四)年に得度。駒沢大学専門部を卒業した。
専門僧堂で修行し、七六(昭和五十一)年、札幌市の中央寺住職に就任。
八一年、永平寺監院、八五年、副貫首に就いた。
九三年九月、丹羽廉芳前貫首の死去に伴い、九十一歳で七十八世貫首に就任。曹洞宗管長も務めた。
著書に「若い仏たちへ」「髪を断ずるは」がある。
昨年十一月二十五日に百六歳の誕生日を迎えたが、十二月六日に発熱のため札幌市内の病院に入院していた。
永平寺によると、宮崎貫首は歴代貫首の中では最高齢で、日本の現役の宗教指導者としても最長老だった。十四年余りにわたり永平寺のトップとして、二〇〇二年の道元禅師七百五十回大遠忌などを執り行い、全国各地で道元禅師の教えを広めた。
仏教では吾々人間を指して「生死の凡夫」と呼ぶ。
生きる意味も死ぬ覚悟もなく煩悩に明け暮れてかけがいの無い人生を無為徒食にうち過ぎている浅ましさを叱った祖師たちのお言葉である。
それではならぬと人生の目的に目覚め、一途に邁進することを仏道では修行といい、一般社会では修業と呼ぶ。
人生の目的とは言うまでもなく社会有為な人材となることである。
ただ仏道の修行は迷い悩む人びとの道案内役を勤めなければならぬから生半可なことではない。
故に修行者は日日の生活を一日一生と覚悟し、生涯修行の心で祈りに明け暮れするのである。
比叡山の修行の中でよく知られているのが回峰行である。
相応和尚(865)が、比叡山の一木一葦を諸仏諸菩薩としてあがめて祈り歩いたその昔から平成の今日まで途絶えることなく受け継がれてきた極めて厳しい修行である。
回峰行は、一期を千日と定め、厳しい規則にのっとって七年間で満行する。
毎日三十キロ、比叡の山道を礼拝しつつ歩み、七百日を満じて回峰行中もっとも苦行とされる、「堂入り」九日間に入る。
断食・断水・不眠・不臥。
その間、不動明王のご真言十万反を唱える。
世界中で最も厳しい捨身行とも言われる。
去る十月二十一日、星野圓道大乗院住職がこの修行を成し遂げ、「當行満阿闍梨」となった。
まことに慶ばしい限りである。
この堂入りの行を満じて修行者は正式に化他門に入る。
人びとの為に国家社会の為に、そして世界平和の為に修行し、かつ祈ることを専らとする。
その出発点こそが当行満なのである。
この堂入りを行者の「再生の行」とも言う。
九日間で死線を越えて再びこの世に生まれる。
これからが本格的な化他行の修業なのである。
赤山苦行、京都大廻り、これはそのまま実社会の人びとへの救済化導の旅である。
この千日行を満じた先輩大行満たちは今日も悩める人びとの心の支えとなって日夜を精進に明け暮れておられる。
有難いことである。
[比叡山時報]
香は、仏教と共にわが国に伝来しました。
日本書紀には、595年に大きな沈香木が淡路島に漂着したと記されています。
また、奈良時代中頃に渡来された鑑真和上によって、様々な香料の配合が教えられました。
10世紀になると高度な唐様文化を営む貴族社会に転機が訪れました。
わが国の風土に即した懐かしさや柔らかさこそが心に響くという実感が深まります。
古今集が編まれ遣唐使を廃止し熊野詣が始まりました。
和洋化がいよいよ開花する中で、貴重な香料の配合にも独自の工夫が施され、貴族達にとって欠かすことの出来ない生活の香りとして「薫物」が愛用されることとなりました。
源氏物語や枕草子などの王朝文学には、「追い風」 「誰ヶ袖」 「伏籠」など、香りを意味する美しい表現が伝えられています。
大陸では宋・元・明と多様に文化が発展し、わが国では鎌倉から室町へ武家の時代が推移しました。
天竜寺船など積極的な交易による様々な文物は、都に集る活力ある人々の耳目を魅了し、禅宗の影響と相まって新しい価値観の具現が次々と行われました。
婆娑羅と呼ばれる気風が三代将軍足利義満による北山文化として開花し、香においては、沈香木を直接に焚香することが流行します。
15世紀には応仁の乱が起こり、都は灰燼と化し人々は精神的に限界まで追い詰められました。
激動の社会環境の中、緑豊かな東山の閑静な地に義政による山荘が営まれ、同胞衆による文化のサロンが形成されました。
連歌の宗祇、茶の湯の珠光、立花の池ノ坊、古今伝授の三条西実降、佐庭の阿弥、そして聞香の志野宗信などが義政を囲んだと伝えられます。
北山文化では観阿弥と世阿弥が義満と出会い能楽を大成しました。
東山文化に源を発する多くの文化的潮流の一つとして香も知られ、実隆と宗信が聞香の始祖として名を残してます。
徳川家康による江戸開幕で太平の世を迎え、琉球貿易から発展した南蛮交易が大きく展開されました。
アジアの各地に日本人町が形成されたのはこの時代です。多様な文物と共に香木もたくさん舶載され、立花や茶の湯と共に聞香も堂上公家社会の興味を集めました。
寛永の文芸復興に大きく寄与した香は、高度な王朝教養文化と融合し、今日、香道と呼ばれる芸道文化を奥深い世界へと熟成させたのでした。
江戸時代を通じて、大名社会における女人の教養文化として認知され、豪商などを通じて徐々に町衆などにも知られるものとはなりましたが、鎖国の続く中ほとんど実際に手にすることは叶わず、「伽羅」 「栴檀」など貴重な香を意味する言葉が形容詞としてもてあそばれる様にもなりました。
江戸時代初期には、細く線状に作る線香の製造技術が伝来し、時を同じくして施行された檀家制度と相まって線香は広く生活の具として利用されるようになりましたが、香料の希少性が高まり、廉価なものとして普及してしまいました。
明治維新以降の西欧化の中、古典的な香の文化をいとおしむ人々は細々とその美しさを伝承してきました。
今改めて、わが国の文化が再評価される中、香の伝統も現代的な工夫と共に新たな愛好家を得ています。
[松榮堂社長・畑 正高氏]