DEEP SEAα

ココロの軌跡

Beautiful Colors

師 

2006-03-28 | 遠い日の海(過去エントリー)
祈るということは,自分を生まれたての赤ん坊のように無心にし,ひれ伏し,身を投げだすことです。


たとえひれ伏している真上から刀を降り下ろされても悔いないという絶対の信を得るために,人は祈るのです。



《瀬戸内寂聴師》




南無大聖不動明王


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師 

2006-03-28 | 遠い日の海(過去エントリー)
人間とは,いいえ,わたしとは何と情けない生きものでしょうか。

自分の身に体験しなければ,人の苦しさも悲しさも,実感となって身にも心にもしみてこないのです。

わたしは姉の死を通して,人がこの世で受けるすべての不幸せは,味わったほうが味わわない人よりいいのだと気づかされました。

心に苦しみを感じ,身に苦痛の記憶を数多く受けた者が,人の苦しみ,悲しみを思いやれるという恩寵がいただけるのです。



《瀬戸内寂聴師》


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師 

2006-03-28 | 遠い日の海(過去エントリー)
逢う,ということの大切さ,きびしさ,うれしさ,悲しさ。

しょせん人生とは逢って別れることの永遠の繰り返しのように思われます。

すべてめぐり逢うものは偶然ではなく,他人には無縁にすぎぬ一つの出逢いが,その一生を塗りかえていくことが多いのです。



《瀬戸内寂聴師》


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師 

2006-03-27 | 遠い日の海(過去エントリー)
いつも「一日が一生だ」と心がけ,どんなことがあっても動じない気持ちになるために,私には修行というものがあります。

行には,人間にとって必要なものすべてが含まれています。
それは「約束する」「責任を果たす」「持続する」といったことです。
たとえ何かあっても,途中でやる気をなくすことなく,根気強く,頑張り通して音を上げないといった,今の人達に必要なもの全部を含んでいるんですよ。

(中略)

山を歩いている時は,生きている時です。
一方,帰ってきて草履を脱いで家にいる時は,死の世界に入っている時なのです。

では,ここでいう死の世界は何のためにあるのかといえば,それは明日生まれ変わるための準備なのだということです。




《酒井雄哉大阿闍梨》



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師 

2006-03-27 | 遠い日の海(過去エントリー)
伝教大師は,「お前たち弟子たちは,天井からずっと部屋中を明るく照らすような偉い人間にはなれそうもない。あかんたれや。がしんたれや。だからしゃあない,部屋の片隅だけでも照らす人間になれ」とおっしゃった。今東光の頭のようにピカピカ光れとは言わん。光っても四隅は照らさん。それでも,まあ片隅でも照らせば国にとって大事な人間になれる。だから,一隅を照らせ。これは国の宝だ。努力して一隅を照らせ。ホタルぐらいには光るようになれと仰せられた。
これには全く痛み入ります。折角頭を光らせても,ちっとも四隅が光らないようでは,私などこんな衣を着ているのが恥ずかしい。
「その通りだ」と皆さんが言われるなら,私は勿体無いからこの衣を脱いで,褌一つになってストリップ説法したるわい…と言いたくなる位のもんです。
本当に恥ずかしい。袈裟を着けているに恥じない,一隅を照らせるだけの人間にならないといかん。



《今春聴師》


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする