「泥多ければ仏大なり」という言葉がある。
仏をつくる材料は泥なのである。
泥は多い方がよい。
悲しみや苦しみや迷いは多い方がよい。
凡夫はゆきづまらなければ、苦しくなければ求めようという心をおこさないから。
苦しみに導かれて門をたたくことができるのであるから。
しかし苦労は多い方がよいとはいっても、苦労に負けてしまっては駄目である。
苦労や悲しみが全身ににじみ出て、見るからに気の毒な人生だったんだなと思わせる人がいる。
泥のにおいや色をベッタリとつけたまま、花を咲かせているようなもので、誰も振り返りはしない。
泥は仏をつくる素材ではあるが、泥がそのまま仏なのではない。
泥はあくまでも泥なのであって、そこに大きな転換がなければ、美しい花とはならない。
底深き淵の
澄みて
静かなるごとく
心あるものは
道をききて
こころ
安泰なり
(82番)
俊董師
仏をつくる材料は泥なのである。
泥は多い方がよい。
悲しみや苦しみや迷いは多い方がよい。
凡夫はゆきづまらなければ、苦しくなければ求めようという心をおこさないから。
苦しみに導かれて門をたたくことができるのであるから。
しかし苦労は多い方がよいとはいっても、苦労に負けてしまっては駄目である。
苦労や悲しみが全身ににじみ出て、見るからに気の毒な人生だったんだなと思わせる人がいる。
泥のにおいや色をベッタリとつけたまま、花を咲かせているようなもので、誰も振り返りはしない。
泥は仏をつくる素材ではあるが、泥がそのまま仏なのではない。
泥はあくまでも泥なのであって、そこに大きな転換がなければ、美しい花とはならない。
底深き淵の
澄みて
静かなるごとく
心あるものは
道をききて
こころ
安泰なり
(82番)
俊董師
意味深き経文を
いくそたび口に誦すとも
身にもしこれを行わず
心、放逸にふけらば
沙門 とよばん
そのあたえはあらず
まこと、むなしく
他人の牛をかぞうる
かの牧牛者にたとうべし
(19番)
経文を口にそらんずる
まこと少分なりとも
身に行うこと法にかない
貧と怒りと癡とをすて
智慧は正しく
心よくほどけとき
この世にも著せず
かの世にも執せざるもの
彼こそ沙門の列に入らん
(20番)
いくそたび口に誦すとも
身にもしこれを行わず
心、放逸にふけらば
沙門 とよばん
そのあたえはあらず
まこと、むなしく
他人の牛をかぞうる
かの牧牛者にたとうべし
(19番)
経文を口にそらんずる
まこと少分なりとも
身に行うこと法にかない
貧と怒りと癡とをすて
智慧は正しく
心よくほどけとき
この世にも著せず
かの世にも執せざるもの
彼こそ沙門の列に入らん
(20番)
言葉で喋る人には
耳で聞け
心で喋る人には
心で聞け
耳で聞け
心で喋る人には
心で聞け
まだまだ簡単に区別できないから 一生懸命心で聞く
見返りを求めることはないけれど
自分の都合のいい時ばかりでは 私の心の行き場がなくて
繰り返されるたびに 冷えていく心
賢治の寂しそうな背中が 自分の姿と重なる
とってもお喋りだった少女は
限り無く無口な大人になってしまった
私って つくづく 馬鹿だなぁ… と 思う
忘己利他 ……
今回の出来事も
御仏にお任せするのみ
傷つくことなく
パヴァロッティ(Pavarotti)が亡くなった
数年前から死亡説が流れてはいたが 今回はガセではないらしい
三大テノール
私のご贔屓はやはりパヴァロッティだった
全盛期の頃のパヴァロッティは正に神が君臨したかのように神々しい声で オーラがもの凄かった
歌声は人々を魅了し時を超越し そして酔わせた
本物の芸術とは 時に食事以上の満足感を人に与える
グルメなどに興味のない私などは特に 日々上質な芸術を喰って生きてるようなもの
ハートを震撼させる芸術と出逢った時は 静寂のなかで相反するような 深い深いエクスタシーを得る事が出来るのだから……
パヴァロッティがご贔屓だったのにはもう一つ理由がある
それは私の声楽の恩師にどことなく風貌が似てたから
あれだけのお髭はたくわえてはなかったが つぶらな瞳や太鼓腹 それ程大柄でない体格がそっくりで(笑)
何より 歌ってる姿が似ていた
だからなんとなく親近感がわいていた
私が敬愛するあるオペレッタは
「いつかはこの声を神にお返しする時がくるでしょう それまでは精一杯歌い続けます」
そう言っていた
昨年 パヴァロッティの歌う姿を見たとき まだまだ枯れてはいなかった彼の声に「腐っても鯛だな」と思っていた
まさかこんなに呆気なく逝ってしまうとは……
彼は 神から賜った歌声を返すことなく 自らも神のもとへと帰っていったのだな… と思う
この世の宝をまたひとつ無くしたような 寂しい気持ちでいっぱいの私である
数年前から死亡説が流れてはいたが 今回はガセではないらしい
三大テノール
私のご贔屓はやはりパヴァロッティだった
全盛期の頃のパヴァロッティは正に神が君臨したかのように神々しい声で オーラがもの凄かった
歌声は人々を魅了し時を超越し そして酔わせた
本物の芸術とは 時に食事以上の満足感を人に与える
グルメなどに興味のない私などは特に 日々上質な芸術を喰って生きてるようなもの
ハートを震撼させる芸術と出逢った時は 静寂のなかで相反するような 深い深いエクスタシーを得る事が出来るのだから……
パヴァロッティがご贔屓だったのにはもう一つ理由がある
それは私の声楽の恩師にどことなく風貌が似てたから
あれだけのお髭はたくわえてはなかったが つぶらな瞳や太鼓腹 それ程大柄でない体格がそっくりで(笑)
何より 歌ってる姿が似ていた
だからなんとなく親近感がわいていた
私が敬愛するあるオペレッタは
「いつかはこの声を神にお返しする時がくるでしょう それまでは精一杯歌い続けます」
そう言っていた
昨年 パヴァロッティの歌う姿を見たとき まだまだ枯れてはいなかった彼の声に「腐っても鯛だな」と思っていた
まさかこんなに呆気なく逝ってしまうとは……
彼は 神から賜った歌声を返すことなく 自らも神のもとへと帰っていったのだな… と思う
この世の宝をまたひとつ無くしたような 寂しい気持ちでいっぱいの私である
友達からのメールが入った時の携帯の着音は
「弥七 良い処へ来た」
と言う黄門さまの声である
相棒と一緒の時その音が聞こえると決まって笑われてしまうのだが 設定した私としてはかなり気に入ってる
私にメールを送ってくる友人は様々な職種の人が多く 美容師・デパガ・陶芸家や役所職員もいたし そして坊主(和尚)も数人いる
そして昨日の夜の外出中にも弥七さんがおいでになった
「今日は誰?」
と相棒に促されながら携帯を開くと お世話になってるあるショップのオーナーからだ
地元で開催されるイベントの紹介メールを回してほしいとある
で 「○○のHさんからだ」
と相棒に言ったら
「なんだ モンモン仲間かい」
って
モ‥モンモン仲間って(苦笑)
ま そーなんだけどさ もーちょっと他の言い方ないのかしら?
で そのメールには
「当店でチケット発売中」とも書いてある
あ‥ メール 回すのはいいんだけど
ショップ名を私の名前で知らせるのはちょっと…… ねぇ~(汗)
何せ「モンモン仲間」ですから(笑)
一般人はかなり退くんじゃないかと……(いえ 私もれっきとした一般人ですがw)
オーナーとしてはそんな引け目は全然ないらしいんですけどね(笑)
正々堂々 自分の仕事に誇りがもてるのは素敵なことです
ちなみに 毒舌のわが相棒からのメールの着音は「梵鐘」です(爆)
[追記]
その後 知人にしっかりとメール送りましたw なんと思われようが 「だからどーよ?」の心境でしたから(苦笑)