私は時々 オヤジ になりたいと思う
しがないリーマンのオヤジに
木枯らしが吹き荒む街を くたびれたコートの衿を立てながら
屋台のおでん屋に行く
”オヤジさん がんもと玉子 それと 日向燗ね”
”へい 少々お待ちください”
”どうだい? 景気は”
”いや どこも同じですよ 最近はお宅で呑む人が多いですよ”
そんな 他愛もない会話をしてみたい
今の自分でも 屋台には行けるかもしれないけれど
ミソは ”しがないリーマンな オヤジ”
そこが譲れない
しんみりだけど 暗くはなくて
オヤジさんの人柄が滲みこんだような 温かいおでんを つつきながら
ポツリポツリ と話がしてみたい
寂しそうな背中のオヤジは なんとなくいい気分になって
家路へとつく
そんな オヤジ になってみたい
そんな日常を 経験してみたい
いのちの日記
2006-01-31 18:20:10 | 遠い日の海(過去エントリー)
柳澤桂子さんが画面の中で静かに語っている。
奇跡が起きたのだと思った。
激痛に顔を歪め,苦しそうにベッドに横たわる姿の彼女しか見た事がないのに,椅子に腰掛け話している。
そう。彼女には奇跡が起きていた。
「なんて事なの?」
涙が溢れる。
── 余りにも理不尽で容赦のない運命。
私はその後を知るのがずっと怖かった。
痛みの辛さは本人にしかわからない。
わかってもらえないから,余計に辛い。
いつ始まるのかわからない痛み。
いつ治まるのかわからない痛み。
幾重にも続くと,人は,自分を責める。
「何故?・・・・・」と。
身体の苦しさ,心の葛藤,孤独・・・・・・・。
逃れようのない泥沼。
生きる事は時として,死ぬ事よりも苦しい。
・・・・・ そして人は信仰を求める。
分かりすぎるほどわかる彼女の心情。
『 神の前に,神とともに,神なしに生きる 』
彼女のこれからの人生が,実り多き幸せな物であるよう,切に切に祈ります。
整理をしていたら たまたま目に付いた 丁度二年ほど前のentry
彼女はヒトゲノムを解読した有名な科学者
私もこの頃 痛みに苦しめられていた(今よりも一層辛い)
術後であるのに 思った様に改善せず 鎮痛剤も効かない
Dr.も それ程の痛みに首を傾げるばかり
私は いつの頃からか 彼女と重ねていたのかもしれない
柳澤さんは 著書の中で
「長い時間をかけて己の運命を受け入れたとは書いたものの 事実としては 私はボロボロに精根尽きていた
苦しみの床で堪え忍ぶときの一秒が いかに長いことか
私の周囲だけ時間が歩みを止め 明日のことなどは考えることも出来なかった
そのとき私はあまりに理不尽で容赦の無い運命の前に立ちすくみ 絶え間のない苦しみに押し潰され 家族にも語るすべのない惨めな思いで 死と向かい合っていたのだろうか・・・・・」
そう綴っている
同じだった
そして彼女はこうも言う
私たちは一次元の世界に生きていながら 頭の中では二元的な見方にとらわれヴァーチャルリアリティを生きているので 存在のあり方が根底から自己分裂してしまい 認識そのものに我執の苦しみを胚胎しているのだと
そしてそれから脱却するには「三次過程」にまで到達するべきで その三次過程こそが「悟り」だと
あぁ そうだ
それは 「自我」さえなければ 苦しみも悲しみも存在しないということ
「ワタクシ」 を滅することなくば 野の花のように生きられるリアリティーは取り戻せないと私は解釈した
宗教とは一元的な世界に戻ることを説いているものだけれど 二次過程をも超越し よりスピりチュアルな三次過程まで進化させるべき
それが 「神の前に 神とともに 神なしに生きる」 ということなのだろうと
胸に ストンと収まった
それからの私は 以前にもまして 我執の無い日々を送ろうと心がけている
ただ 有難いことに 霞を食べて生きているわけではないから
肉体が悲鳴をあげ どうにもやりきれない日もある
でもそれは 同じように 苦しむ人たちを理解するための恩寵なんだと思っている
そんなことを 少し考えたりしていた
スピリチュアルな次元を求めるのならば 祈りは届くはずだと
信じてる
そして 心から祈ってる .........