Penny Lane Music

福岡市中央区赤坂
ピアノ・ボーカル・ギターなど大人のためのポピュラー音楽教室

コードとの出会い

2010-05-19 17:58:12 | レッスンエピソード
 「コードを少し、覚えてみてください。」

 と、よくみなさんにお話しします。
それは私自身がそのコードとの出会いでピアノとの関係が
とてもとても大きく変わったからです(*^_^*)

 中学1年生の3学期、卒業式で歌の伴奏をすることになりました。
初めて聞く曲でしたが伴奏はわりとやさしいものでした。
「心さわぐ青春の歌」・・・これ「歌声喫茶」では有名な曲だそうです。

 私たちが中学生のころ、当時20代後半から30代の若い先生方は
所謂「団塊の世代」、フォークソングやロシア民謡を歌って
青春を謳歌していた世代、そういえば、岡林信康なんかもたくさん
教えていただきました^_^;

 話がそれましたが「心さわぐ青春の歌」の伴奏の楽譜は先生の手書きでした。
27,8くらいの若い女性の先生、長いストレートの髪をすっきり止めて
色の白いきれいな、背筋の伸びた先生でした。
Dmというコードが書いてありました。はじめてコードというものが
目に入った時でした。これは和音のこと、とだけ教えてもらいました。
ただそれだけ。だからまだ難しいも何もない、いつも弾いてる音のことを
こんな言い方するだけのこと、という感じでした。


 それからすぐ2年生になって音楽の授業は引き続きその先生が担当してくださいました。
ある授業の時、誰かが持っていた当時流行りのアイドルの下敷き、
忘れもしません「西城秀樹」でした^_^;
その下敷きに楽譜が載っていました。♪ブルースカイブルー♪だったかなぁ・・・

「あら、これどんな曲?」といいながら先生はすらすらと両手でピアノを
弾きはじめました。メロディしか書いてないのに・・・・!!

「先生、左手、どうして?書いてないのにどうして?」
「あ、これね、ほら、前話したじゃない、コードよ、だから弾けるの」
「あーコード・・・あのときの・・・」

 この日、先生は「ドレミファソラシド、がねCDEFGABなのよ」
「これをもとに和音にするのね」
と、一番シンプルなことだけ教えてくれました。
この時、難しいことを理屈どおりに言われたら、私、拒絶したかもしれません。
もともと、ピアノを弾く子なんだから、このくらい言えば自分で勝手に
弾くだろうって思ってくださったのだろうと、今ならよくわかります。
こうして私は無理なくすこしずつコードに近づいて行きました。

 松尾先生という先生でした。

 松尾先生が一番シンプルにコードのアルファベットの意味を教えてくださって
それから私は歌謡曲やニューミュージックの歌の本を買ってきては
ピアノで遊ぶようになりました。
受験の間、レッスンはいかなくなってもずっと、そうやって遊びました。

 私にとって、ピアノは遊び道具になりました。
楽譜を読むのは今でも苦手です^_^;でも遊び方を知れば、楽しみは増える・・
松尾先生との出会いが私の人生に大きく影響しました。
あれから間もなくご結婚なさって外国にいらしたとか聞いたような気がします。
担任の先生ではなかったので松尾先生との時間は音楽の授業だけでした。
もしも今、お会いできたら・・・
お話したいこといっぱいあるなぁ・・・・。

 とてもとてもお会いしたい方です。

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2 コメント

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私とコードネームと青春時代を駆け足で (林 知行)
2010-05-20 21:29:06
私がコードと遭遇したのはピアノでは無くてギターだった。私が通った広島市立宇品中学校はブラスバンドが有名。コンクールで中国地方大会優勝した位。ひと頃私もピアノを習った音楽のK先生はこのブラスバンドを指導した、というかしごいた。私は前歯が不ぞろいでトランペットをうまく吹けず、しごきは嫌いだったから、もう一人の音楽のM先生が顧問をしていた弦楽部に移った。バイオリンとギターとコントラバスのクラブだった。クラシックギターも独習したけれど時代はフォークソング!被爆都市広島にはジョーン・バエズやPPMが来た。フォークソングの楽譜はコードネーム付きメロディ譜。コードはまずギターで覚えた。ピアノはクラシックを学んだけれど遊びで色々弾いていた。ピアノ楽譜でコードが載っていたのはシャンソンの曲集、そこにはC9とかC13も書いてあった。フォークソングの楽譜とは違ってコードだけでは無くてピアノのアレンジも書いてある訳でコードネームとピアノアレンジの音の配置を対照して独学した。9や13はセブンスコード上のテンションらしいことがわかった。話は少し飛んで高校卒業後。政治に翻弄されて大学へ進学するのをやめてしまった。今思えばこれは間違った選択だったと思うが、一年浪人の後にネム音楽院に入った。それはネムジャズインがきっかけだった。そこに妙な専門学校があったのだ。三重県の田舎に最先端のポピュラー専門の学校があったのだ。この辺りからコードで弾けるっちゅうことが自己流だけではなく本格的に専門教師からも学ぶことで仕事に直結していった。一年で中退して東京へ出た。コードで弾けると当時のアーチストのツアー仕事がどんどこ入ってきた。音大のピアニストの多くはコードがわからない訳で、そこは僕の方が圧倒的に有利だったのです。上條恒彦、中村雅俊、ふきのとう・・・。以上、駆け足で、コードネームと私の青春でした。やや滅茶苦茶だけど。どこでコードに出会ったにしても、コードで歌の伴奏をすることは極めて重要だということがわかってきました。ジャズというよりはポップスでコードを必要とする方がより実用的みたいです。その上でジャズに興味が向くと自然かな。コードは伴奏のための和音記号なんですから。
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ありがとうございます (のび太)
2010-05-20 23:54:24
林先生、ミュージシャンならではの楽しいお話をありがとうございます。
当時のミュージシャンのみなさんのお話は、およそ学校より実践、
なかなか個性的なプロフィール、林先生もまさに!ですね。
返信する

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