ダイビング話と異なり記述した文がありません。
劣化したフィルムをスキャン。それを視ながら、
色褪せたおぼろげな記憶を掘り起こして記すことにいたします。
なにしろ30年前の話ですので、ところどころ怪しいところがあります・・・。
(記憶が甦ると、その都度加筆訂正等をいたします)
平成4年 (1992) 2月18日 (火)
浜松町駅から竹芝桟橋 へ向かって歩き出した。
距離は1kmにも満たない。バッグを担いだ者が何人か同方向を目指している。
竹芝桟橋、小笠原海運、待合室、到着時間が早かった。がらんとしていた。
TVを抱えている者がいた。ビデオ用?。(小笠原でTV放映が始まったのは1996年)
乗船手続き。天候の所為で出航時間が遅れるとのこと・・・どうにも手持無沙汰であった。
結局、二時間ほど遅れました。
パーティは、私、妹、妹の同僚の四品川小百合、そしてヨットのメンバーであるN岡の母親の四名である。
N母は息子と同居。
「そのうちヨットで小笠原まで行こう。とりあえず俺が下見をしてくる」などと話していたときに
「私も行ってみたい」と急遽参加することとなった。
妹たちはダイビングのCカードを取得して漸く10本に達したところ。近場ではなく何処かへ行ってみたかったのだろう。
二月の小笠原は鯨ウォッチングのメッカで数種類の鯨・海豚が視られます。
(※鯨と イルカ は実は一緒。マサイ族とピグミー族みたいなもの?)
それもあって二月半ばに1000kmの船旅をすることとなったのである。
就航している船は『初代おがさわら丸』
※1979年に就航 ~ 1997年まで運航された。
現在は三代目だそうでこの時の船とはだいぶ違うのでしょうね。
その後はフィリピンのスルピシオラインズ(英語版)に売却され、
『Princess of the Caribbean』となり、セブ島などに就航した。
小笠原までの標準航海時間は28時間30分とされていたが、
往路は海流や天候などによって29時間程度かかることが多く、
復路は東京港の混雑によっては30時間近くかかることもあった。
この航路は、年間約60往復が運航された。
二等船室のうち、ゆれやすい船体下部の船室は、閑散期は娯楽室として使用されていた。
多少遅れましたが欠航することなくいよいよ出航。
我々は最も安い二等船室である。畳敷き(だったような)の大部屋。寝具は無し。
A4の藁半紙に乗船券の番号が記して置かれていた。
番号の並びがおかしい。近くの団体が自分たちの都合の良いように置き換えている。
ちらりとこちらを視たがすぐに目をそらした。
『まあいい、私は何処でも』
離岸・・・・・・
東京湾を出ると波高が上がった。外海なので当然だが・・・。
↑ 船尾左舷から
揺れがひどい。が、30フィートのセールボートの揺れとは大きな違いがある。
船舶の揺れは大きく二種類に分けられる。ローリング(横揺れ)とピッチング(縦揺れ)である。
※面白い文字がありました。
『八の字を二つに分けた 丿乀 これで ヘツホツ・ヘツポツなどと読ませて、
船などが左右に揺れるさま』を表すそうです。
大型船はセールボートとは異なり大きな横揺れは無かったが波を乗り越えて行くので縦揺れはやはりかなりありました。
速度の遅いジェットコースターを想像していただければ宜しいかと。
船酔いには個人差があります。大型船の乗員でも小型船では酔ったりする者がいる。
荒天のヨットでも大丈夫だが大型船の揺れは別。これは私。
小型艇でもモーターボートとヨットの揺れはかなり異なる。
すべて問題ない者もおりますが。どれもアウトと言う者はかなりおります。
嘔吐こそはしなかったが私も多少胃から上って來る物が。
高齢で心配していたN岡母は大丈夫だった。むしろ一番元気であったかもしれない。
妹は?せっかくの夕食を太平洋の魚へフーディングしたらしい。四品川は夕食も撮らずに寝たきりでした。
↑ 船尾右舷から
船内。
ドリンクの自動販売機が数か所にありました。
食堂。テーブルは当たり前だろうが固定されていた。椅子も鎖で半固定。妙に納得。
カレーうどんを食したような憶えがある。
寝付けないので娯楽室で映画鑑賞
何が投影されていたかは記憶に無かったが妹が憶えていた。
ダイハードだったと。
そう言われれば洋物のアクション映画だったと。
※この時はいつもは持ち歩かないVHSのビデオカメラを携帯。
残っていたテープを再生してみたが一部分しか視られなかった。
残念。
つ づ く
後のために ダイビング編目次 へLINKを貼ることにいたします。