二十九日 最終日
※見出し画像は学生の撮ったもの。ほかにも数点あります。
「えっー行かないのか?」
「お土産も買いたいし・・・」と直子。
「では国際通りだな」
「うん、そうする。。。。エリーさんも今日はダイビングに行かないって」
「ふーん。ではチェックアウトを済ませて三人でダイビングサービスへ行こう。荷物を預けて、それから国際通りだ」
「えっー。一緒に行ってくれるの?」
「俺も土産の一つや二つ買わなければいけないからね・・・」
チェックアウト迄時間があった。
船員会館から徒歩五分で海岸へ。
マリンバスがウェーキーを残して走って行く。
海面はチョッピーな波。だが砂辺でのダイビングには支障が無いだろう。
また胃が痛み始めた。
自動販売機で烏龍茶を買って胃に流し込んだ。暫くして胃痛は治まった。
タクシー。早々とダイビングサービスへ到着。
二人とは異なり私にはすべきことがあった。
メッシュバッグから機材を取り出した。
重量を抑さえるためには僅かでも乾燥させたかった。
店の裏に広げた。幸い天候は回復して雨の降る虞は無い。
「ビデオでも視ますか?」慶良間、西表のテープを勝手に引っ張り出してセットした。
二人が画面を視ている。ベンチに横になった。
疲労が溜まっていた。睡魔が襲って来た。
・・・・・・
「ねえ、国際通りに行こうよ」
「・・・二人で行け。俺は疲れた」
「どうやって行くの?」
「表でタクシーをつかまえろ」
「バスもあるわよ」とK田。
・・・・・・
目を醒ましたら正午だった。胃痛が始まっていた。
「この辺に飯を喰うところはありますか?」
「たいしたお店は無いけど・・・」
表に出た。本当にたいした店は無い。
喫茶店。ランチの看板。何でもよかった。胃に納められれば。
一時半。そろそろみんなが帰って来る頃だろう。
混みあわないうちにパッキング。
毎度のことでなれてはいるが・・・『荷物を減らすことを考えないと』
矢野嬢が顔を出した。パッキングを始めた。
「あなたも今日お帰りですか?」
「そう思ったんですけどチケットが取れなかったんです」
矢野嬢は友人と一緒に来て一人残ってダイビングを楽しんでいたのだった。
「いつか、また一緒に潜ってください」と言われたが・・・たぶん無いだろうな。
※砂辺では米軍機がこの状態で ↑ 視られます。
一行が砂辺から帰って来た。急ににぎやか煩くなった。
「どうだった?」
「透明度がよくありませんでしたが・・・良かったです」
「ふーん」
「ぽーさんは何をしていたのですか?」
「寝てた」
MGも顔を出した。我々よりも早い便で帰るそうだ。
「では、機会があったらまた一緒に潜りましょう」
「よろしくお願いいたします」
ファンダイブ組がロギングを始めた。
「では、昨日のラストダイブページにコメントを書きあうか・・・」
一人ずつ短いコメントを記した。
「俺のにも一言ずつどうぞ」
「なんて書こうかな・・・」
「簡単だろう。『この次は招待しますので是非一緒に潜りましょう』と書けばいいんだ」
「・・・二十年待ってください」
「アホ!。二十年経ったら死んじまっていねえや」
※二十年以上経っているがいまだに招待状は来ない。
以下は私のログブックに記されたコメントである。
『今年も沖縄は最高でした、又潜りに行きたいですね』N村
『また機会があったらダイビングに連れていって下さい。沖縄はやっぱりよかった』W辺。
『三年間一緒につれてきてくださってありがとうございました。またいつか行きたいです』T村。
『大変お世話になりましたこれからもお世話になると思います』S谷。
『ファンダイブ一本目からご迷惑をかけまして大変申し訳ありませんでした。
また十一月中にでも機会があれば、御宿まで潜りに行きたいと思いますのでそのときはよろしくお願いします。
そしてまた来年沖縄に一緒にいきましょう。あと自分もハンコ作りたいので、よろしくお願いします』M山。
「最終便でしたら充分余裕がありますね。国際通りに行きたい人がいれば送りますよ」
他に客がいない所為か今年はサービスがいい。
「では、適当に捨てて来てください」
「俺達も行こうか?」T村が仲間を誘っている。
「行くのは構わないが、お前たちは連中と違って器材のパッキングがあるだろう。その時間を考慮しろよ」
私と四年生の四人と直子が残った。
ダイビングサービスの壁には百を超える写真が貼ってあった。
その大部分が水中写真なのだが・・・?。
ピント及び露光が合っているものが殆ど無い。
客が郵送して来た物だと言うが・・・?。
「ぽーさんも良かったら貼ってくださいよ」とKAZU。
「そうですね。何枚か送りましょうか」
「お願いします」
オーナーのS氏を交えてスタッフと水中写真の話。
この分野になると私の独壇場。
主客転倒して水中写真のスペシャリティ講座の如し。
熱心なのはやはりKAZU。
「ですからね。ハウジングに入れたカメラの機能の大部分は制限されてしまう。
オートフォーカスとマニュアルフォーカスの切り替えは出来ない。その他の諸々の機能も充分には使えないと思った方がいい」
「・・・・・・」
「だからF4を使おうがF90、F801だろうが撮れる画には差は無い。では何故F4を使うのかと言うとファインダーなんだよね」
左 アクションファインダー 右 通常のファインダー
アクションファインダーを着けたF4を取り出してKAZUに渡した。
「覗いてみてください。・・・このファインダーだと目をピッタリくっつけなくても全視野が視えるでしょう。
他のカメラだとハウジングに入れてマスク越だと中央しか視えない。一眼レフの最大のメリットが生かされないんだよね
「・・・・・・」
「ぽーさん、先に空港へ送ってもらいましょうか」
「そうですね。一度に全員は乗り切れないしね」
Dラスが車を表に廻した。スタッフ全員でお見送りだ。
「お世話になりました」学生が唱和。
「ありがとうございました。お元気で」
荷物を団体受付の前に置いた。
「土産の一つも買わないとな・・・交代で荷物版をするか?」
「いいよ、私がしてあげる。もう国際通りで買っちゃたし」と直子。
「そうか、では頼むか」
「でも座るところが無いんだよね」
「プロテックスに腰掛けていいよ」
本来、土産はかわない主義なのだが、数日間家を空けるとどうしても義理が生じる。必要数を手早く購入。
後は胃痛のために何かを喰うことだ。
三階。展望フロアー。ここまで来ると人は疎らである。
レストランが三つあったがどこも閑散としている。
その一つに入って軽い食事。どうにか羽田まで胃痛を抑えられるだろう。
「全員揃ったか?」
「はい」
「ではボーディングパスを配る。窓際が欲しい者?」
何人かが手を挙げた。暗くて殆ど何も視えないのだが。
「荷物を預けたらそこの階段を昇ってボディチェック。上でもう一枚集合写真を撮るからあまり遅くなるな。土産と食い物は上にもある」
「はい」
「SC、全員上がって来たか?」
「と、思いますが?」
「では集めろ。混まないうちに撮っちゃおう」
ミニ三脚にF4を装着。今回出番が無かったスピードフラッシュ(陸上用)をセット。
「後ろの飛行機写りますか?」
「駄目だな。暗すぎる」
撮影。
「どうもありがとうございました。とっても楽しかったです」
「天候に恵まれなかったのが心残りだな」
「でも良かったです。海の中も綺麗だったし」
「本当の沖縄はこんなものじゃないんだ。だが今回の様な条件の悪いときに講習を受けて合格したのだから自信を持っていいぞ。過信は禁物だがな」
「あー、まだ帰りたくなーい」
「いいよ、オザ。残っても。止めないよ」
「んー。出来たらそうしたいです」
・・・・・・
乱気流。機体が激しく揺れる。
「どうしたヒナプ。顔色が悪いぞ」
「大丈夫ですよね?」
「俺の経験の中では三本の指に入るな」
「でも大丈夫ですよね?」
「保証はできない。だがベルトだけはしっかり絞めておいた方がいい。エアポケットにはいったりすると天井まで飛びあがることがあるからな」
「本当ですか?」
「俺は経験は無いが、知人がハワイからの帰りに天井にぶつかってる」
ヒナプの顔色が更に蒼くなった。
・・・・・・
着陸
羽田は雨だった。
※病院での診察結果は胃潰瘍であった。
「もう少し来るのが遅かったら胃に孔が空くところでしたよ」と医師の言葉。
暫くは療養である。
数日して新しいCカードが届いた。
※ 昨年も15名でした。
タイトルは『今回も大勢での沖縄 1994 秋』とすべしでした。
※
沖縄(それ以外も)での画像はまだ十数年分あるのですが残念なことにテキストデーターがありません。
二、三年分が・・・フロッピーディスクに保存。しかし印刷しておりませんでした。
ドライブも有りませんし、有ってもひらけるかどうか?。
と、言うことで、以後のダイビング紀行は写真を視て、記憶だけで記すことにいたします。
’91のボラカイ島・’92の小笠原が記憶を蘇らせての掲載でした。
ボケ防止に良さそうなので飽きる迄タイピングしてみます。
※掲載順位がランダムなのでダイビング記事の目次を作りました。
年代順となってます。
ダイビング編目次