今日は、信州、信濃国分寺へ行った。
家を出る直前に調べたら雨。
雨にはたいていあたらないけど、
傘を持参で家を出た。
しなの鉄道、大屋駅よりひと駅で、
名前にもなっている、
信濃国分寺駅。
またしても、朝早いため、貸切。
連休中でも、この静けさ。
最寄りの公園は立ち寄らず、まっすぐ、寺に向かった。
信濃国分寺。
ここへ来て、
壮絶だなと感じたのは、
角大師(つのだいし)の由来。
平安時代の比叡山の高僧、良源師(りょうげんし)が70才の頃、世に渡病が流行し、人々が病魔に侵され大変に苦しんだ時、師は人々の難儀を救おうと坐禅を組み瞑想に入れた。
すると師の姿は、骨と皮の恐ろしい鬼の形相になり、一人の弟子がこのお姿をしっかり写しとり、その絵を見た良源師に版木にその姿を彫って刷るように手配し、刷り上がるお札を祈祷して開眼すると、民家に配布して戸口に貼りつけるように命じた。
このお札(良源師の影像)のあるところは、病魔は怖れて寄りつかず、人々は一切の厄から逃れられると言われるようになった。1000年以上も昔の話。
この角大師のお札は、疫病厄難除けや病気平癒にご利益があるとして今も信仰されているそうです。
実在した、祈り手の話。
蓮の花は、美しいですね。
花は遅くて見れませんでしたが、
「蓮華が泥水から生じて泥に汚されず花開くように、聖者はこの世間にありながら世俗に汚されることがない」
という言葉が痛いです。
「我々は、この泥沼のような
世俗と社会に生きざるを得ない。
世俗の尺度のみに囚われていると、
思考や感情は一方的になりやすい。
悩みや苦しみは絶望に、
絶望は自暴自棄につながり、
自殺や人を傷つける原因となる。
泥水の中から蓮の花を
生神岳のふもとにある塩田平の「別所温泉=聖地」
国土をご神体とする「生島足島神社=大地」
夏越しの祓えから始まった、レイラインを辿る旅の終着駅だった。
X(Twitter)で、
ぎんねずのアカウントで、
写真をあげていますので、
よろしかったら、見てくださいね。
むかしの、上田の人たちと、龍(雨)への祈りのかたちも、伝えたいと思っています。
家を出る直前に調べたら雨。
雨にはたいていあたらないけど、
傘を持参で家を出た。
しなの鉄道、大屋駅よりひと駅で、
名前にもなっている、
信濃国分寺駅。
またしても、朝早いため、貸切。
連休中でも、この静けさ。
最寄りの公園は立ち寄らず、まっすぐ、寺に向かった。
信濃国分寺。
ここへ来て、
壮絶だなと感じたのは、
角大師(つのだいし)の由来。
平安時代の比叡山の高僧、良源師(りょうげんし)が70才の頃、世に渡病が流行し、人々が病魔に侵され大変に苦しんだ時、師は人々の難儀を救おうと坐禅を組み瞑想に入れた。
すると師の姿は、骨と皮の恐ろしい鬼の形相になり、一人の弟子がこのお姿をしっかり写しとり、その絵を見た良源師に版木にその姿を彫って刷るように手配し、刷り上がるお札を祈祷して開眼すると、民家に配布して戸口に貼りつけるように命じた。
このお札(良源師の影像)のあるところは、病魔は怖れて寄りつかず、人々は一切の厄から逃れられると言われるようになった。1000年以上も昔の話。
この角大師のお札は、疫病厄難除けや病気平癒にご利益があるとして今も信仰されているそうです。
実在した、祈り手の話。
(お借りした写真)
蓮の花は、美しいですね。
花は遅くて見れませんでしたが、
「蓮華が泥水から生じて泥に汚されず花開くように、聖者はこの世間にありながら世俗に汚されることがない」
という言葉が痛いです。
「我々は、この泥沼のような
世俗と社会に生きざるを得ない。
世俗の尺度のみに囚われていると、
思考や感情は一方的になりやすい。
悩みや苦しみは絶望に、
絶望は自暴自棄につながり、
自殺や人を傷つける原因となる。
泥水の中から蓮の花を
見上げるがよい。
そこには別の物差しがある。
その尺度で測れば、
例えばいわゆる負け組が
勝ち組より劣っていると
いうことはない。
大きさや色こそ違っても、
誰もがそれぞれに美しい花を
咲かせることができる。
泥水を見ることも
忘れてはならない。
泥水がなければ花は咲かない。
むしろ泥が深く汚いほど
花は美しい。
そして蓮根はしっかり泥の中で
成長していく。
世俗の中にあってこその
人生でもあるのだ」
(信濃国分寺住職、塩入法道様のお言葉)
寺に着いてから降り出した雨が、
とても美しく感じられ、
花の終わった蓮を手入れする、
庭師さんたちが雨宿りする外陣で、
読経を聞きながら、
一緒に一時の雨を見ていた。
気持ちが落ち着く頃には雨が上がり、
青空が開いてきた。
そこには別の物差しがある。
その尺度で測れば、
例えばいわゆる負け組が
勝ち組より劣っていると
いうことはない。
大きさや色こそ違っても、
誰もがそれぞれに美しい花を
咲かせることができる。
泥水を見ることも
忘れてはならない。
泥水がなければ花は咲かない。
むしろ泥が深く汚いほど
花は美しい。
そして蓮根はしっかり泥の中で
成長していく。
世俗の中にあってこその
人生でもあるのだ」
(信濃国分寺住職、塩入法道様のお言葉)
寺に着いてから降り出した雨が、
とても美しく感じられ、
花の終わった蓮を手入れする、
庭師さんたちが雨宿りする外陣で、
読経を聞きながら、
一緒に一時の雨を見ていた。
気持ちが落ち着く頃には雨が上がり、
青空が開いてきた。
紅葉の季節もきれいでしょうね。
生神岳のふもとにある塩田平の「別所温泉=聖地」
国土をご神体とする「生島足島神社=大地」
大日如来を安置する「信濃国分寺=太陽」
が、一本の直線状に配され、レイライン(朝日が照らす光の線)を繋いでいる。
夏越しの祓えから始まった、レイラインを辿る旅の終着駅だった。
X(Twitter)で、
ぎんねずのアカウントで、
写真をあげていますので、
よろしかったら、見てくださいね。
むかしの、上田の人たちと、龍(雨)への祈りのかたちも、伝えたいと思っています。