賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私はなぜパリサイ人の道を歩んでいたのでしょうか

2019-11-01 21:46:02 | 聖書の言葉

   私は傲慢で、うぬぼれた人間です。地位は常に私の最大の弱点でした。何年もの間、私は評判と地位に縛られ、自分を解放する事ができない状態にありました。昇格されては、異動させられるという事を何度も繰り返してきました。自分の地位を担う中、何度も挫折を経験し、これまで多くの難関を乗り越えてきました。何年にも渡って取り扱われ、精錬された後、私は自分の地位に重きを置かなくなったと感じました。リーダーの地位を維持してさえいれば、神に完全にしていただける、リーダーでなければ、もう希望がない、と考えていた昔の自分には戻りたくありませんでした。どんな本分を尽くしていようとも、真理を求めてさえいれば神に完全にしていただける、評判と地位を追い求めるのはキリストの敵のあり方であると理解しました。現在、私は、どの本分を尽くしているかに関係なく、地位を与えられなくても構わないと感じています。神の創造物がそれぞれの役割を果たす事は天地の律法です。どこに配置されるかは関係ありません。神の采配を受け入れるべきです。名声と地位を取り巻く堕落が現れたら、真理を求めて解決する事ができます。私は、自分の本分を尽くす中でどのような事態に遭遇しようとも、真理を理解できてさえいれば喜んでその代償を払うでしょう。この点から見ても、私は既に真理を求める道を歩んでいたと思っていました。私は人間性と理性を取り戻せていたと思っていました。神は心を探り、精神をつぶさに調べます。神は、私が不純な動機で真理を求めていた事、真理を求める道を歩んでいなかった事を知っていました。そして神は、私を清め、救うための手段も分かっていました。


   

   2013年の6月末に、ここのリーダーが異動となりました。その後、私は兄弟姉妹達から新リーダーに抜擢されました。神の家族は私が昇格し、新しい働きを担う事を許可しました。このような重大な責任を負う事になると聞いて、真理の現実性を知らぬ私はそのような働きはこなせないと感じました。働きの範囲はとても広く、兄弟姉妹も沢山いました。どうやって私が皆の先頭に立てるというのでしょうか。異動となった人の中には私よりも素質のある人が大勢いました。私がどうやってこの人達よりも優れた働きができるというのでしょうか。私の現状が露見してしまうのではないでしょうか。私は苦労するのが嫌だったのです。私は、自分の本分を尽くす事ができる限り、仕事がどこで必要となろうと最善を尽くします。結局、私は、「いいえ、私はこの働きに適任ではありません。……」と言ってその場で辞退ました。私はありとあらゆる理由と言い訳を見つけました。このように判断した自分は理にかなっていて、自分の話した事も真実だと完全に信じていました。後ほど、私は、兄弟姉妹達の交流によって、赤い大きな竜の毒、すなわち、「高く上がれば上がるほど落ちた時の衝撃が強くなる」や「上に上がれば上がるほど寒くなる」といった姿勢が自分の内にあった事に気が付きました。私は高い地位を持つ事でまた辛い経験をするのが嫌だったのです。私は、先程言った人達が異動となった理由は、真理を追い求めていなかっただけでなく、本性が悪質過ぎ、ありとあらゆる悪事を働いていたからだと理論的には分かっていましたが、私は心の奥底で、自分が偉大なリーダーでなければ、悪事を働く機会すらないはずだと信じていたのです。私はこうして自分を守ろうとしていたのです。そして、現在の家族と私の将来性を失い、大きな赤い竜に追われる事について考えました。もし偉大なリーダーになったとしても、最終的に神の性質を害するような事をして、真理を抱いていなかった事を理由に除名されるような事になったら、私は生きていけなくなってしまいます。こういった観念と毒に縛られていた私は、暗闇の中で苦しみながら生きていました。痛みの中で私はこう神に助けを求めました。「ああ、神様。この責任に直面し、私は、あなたが私を引き上げてくださったのだと分かっております。この責任を拒む事は、神様を裏切る事になると分かっております。そんな事はしたくありません。私は神様の怒りをかう事を畏れています。しかし、私は今、サタンの毒に縛られながら生きていて、抜け出す事ができません。私はこの大きな責任を担う事が心配でなりません。私の本性は危険でないか、真理を抱けていないのではないか、重大な悪事を働いて罰を受けるのではないかと心配です。ああ、神様、私は痛みを感じながら、困惑しています。神様の御救いとは何か、神様にどう服従すればよいのかも分かりません。神様どうか、私を御助けください、どうかお救いください。」私が祈りを捧げていると、神様は私に次の御言葉を啓示してくれました。『どのように地上の神を知るか』の一節を読みました。「このような誤解だけなどではない。神の霊への冒とくや天に対する悪口、それらがあなた方のわたしに対する見識だ。だからわたしは、あなた方の信仰はわたしから遠ざかり、わたしに強く反発するだけだと言うのだ。何年もの間、あなた方は多くの真理を見てきたが、わたしの耳に何が聞こえたのか分かるだろうか。あなた方の中で真理を受け入れる意思がある人はどれくらいいるだろうか。あなた方は真理のためにはどんな代償でも払うと信じているが、真理のために本当に苦しんだ人はどれだけいるだろうか。あなた方の心の中にあるものはすべて不義であるため、誰でもみな狡猾でねじ曲がった者だと思い込んでいる。……」神の裁きの御言葉はまるで突き刺さる雷のようで、私の困惑と痛みは畏れと化し、身震いがしました。特に、「神の霊への冒とくや天に対する悪口」と「あなた方の心の中にあるものはすべて不義であるため」といった言葉はまるで心に刺さる剣のようで、神の性質の義、威厳、怒りを感じました。私は、現在、まさに神に抵抗し、神を冒涜し、とても痛ましい状態にある事が分かりました。これにより私の反抗的な心は好転を遂げ、私は神の前に平伏し神に服従しようと求めました。私は明らかになった自分の部分をよく検討してみました。長年の間、神の裁きと刑罰を何回受けたかは分かりませんが、私は神を知らなかっただけでなく、神を誤解し、警戒までして状況をさらに悪化させていました。私は、まるで神の働きが人にとって煩わし過ぎると言わんばかりに、理にかなわない事を全てを神のせいにしていました。神の働きを長年受けていたにもかかわらず、私の神との関係は距離が縮まっても、普通になってもいませんでした。むしろ、私は神をますます敬遠し、遠ざかっていたのです。神と私の間には、私が超えられない隔たりがありました。これだけの年月が過ぎ去った後、私はこんなものしか得られていなかったのでしょうか。この時私は、自分の利己的で哀れな本性が自分の良心を裏切るように仕向けていた事に気が付きました。神が私のために払ってくださった犠牲を忘れていました。私は、神からの御救いと御教化を忘れていました。この時、私は再度神に祈りを捧げました。「ああ、神様、私は今後、サタンの毒に従って生きる事を止め、二度とあなたの御心を傷つけたりはいたしません。神様の裁きと刑罰を受けて、自分の誤った観点を変えてみせます。」その後、私は兄弟の交わりから6月15日に発行された次の説教を読みました。「神を愛さない者は全員キリストの敵の道を歩んでおり、最終的には暴かれ、除外されます。世の終わりにおける神の働きは人々を救い、完全にする事で、救われない邪悪な人々は全員が暴かれ、除外されるのです。したがい、人はそれぞれが同類の行く道を歩む事になるのです。地位と権力を乱用して悪事を働き、それを暴露される人がなぜこれほど多くいるのでしょうか。それは、その者達の地位が問題なのではありません。根本的な問題は人の本性の本質にあります。地位は間違いなく人の中身を明らかにします。しかし、親切な人が高い地位にいたとしても、さまざまな悪事を働く事はありません。地位が高くない人の中にも悪事を働かない人はいます。表面的には善良な人に見えても、地位を得たとたんに様々な悪事を働きます……」(『いのちの供給ための説教集』の「あなた達は神に完全にしていただくために神の御言葉の真理の現実性に入る必要がある」より)。私は、この交流を通じて、自分の心の中にあった観念がどれだけ不合理で非常識であったのかが分かりました。人が皆真理を求める道を歩んでいけるかどうかという事は、高い地位に就いているかどうかは関係がありません。高い地位に就いているがために真理を求める道を歩む事が難しくなる訳でもありません。大切な事は、人が本質的に真理を好んでいるかどうかや、人が神を愛しているかどうかにあります。私は、「自分自身を抑制して」過ごした長い年月において、私は自分の地位に重きをおかず、まるで大きな木に育つ事を求められずにいる雑草のようだと思いながら、真理を求め、本分を尽くす事に対して正直に向かい合えていると思っていました。神の家族が自分の代わりに他の人を昇格させていても、以前のように辛さや弱さを感じたり、否定的になったり、絶望する事はありませんでした。こういった考えを持てているからこそ、私は、自分の性質がある程度は変化を遂げ、自分は既にペテロの道を歩んでいるのだと信じていました。今日、私は、事実と真理を踏まえて自分の本性をはっきりと見る事ができました。私は自分の地位を手放そうとせず、むしろずる賢く、悪知恵を働かせていました。何度もこれを経験しているにもかかわらず、私は依然として自分の心を神に捧げておらず、正直に神を愛そうともしていませんでした。むしろ私は自分を守ろうとしていました。将来性といったものが常に心の重荷となっていました。私は「高い地位に就くのは危険だ」という不合理な観念を心の中に植え付けていたのです。私が神に愛を示し、ペテロの道を歩めていた訳がないのです。

   自分の誤った観点について、私は『あなた達が原則を持って物事に対応するために入る必要のある真理の現実』に記載された原則131「自分の本分と地位を実証する原則」および原則155「神のために費やす原則」を読みました。これらの原則の中にこのペテロが捧げた祈りの言葉がありました。「あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」そして「人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の関係もない。本分は人間が全うすべきことだ。それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえるのだ。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。」神の御言葉から、ペテロは彼の人生を通じて心から神を愛せるようになろうと求めた事や、全てにおいて神の采配に従っていた事が分かります。彼は自分で物を選択したり、要件を課したりしませんでした。彼は神がどのような采配をされようとも常にそれに従ったのです。最終的に、彼は創造物としての自分の本分を尽くし、神に自分のいのちと極めて深い愛情を捧げました。ペテロが神を信仰する事に成功したのは、高い地位を持っていたからではありません。彼は使徒であり、主イエスが彼に教会を引率する重要な任務をお与えになりました。しかし彼は使徒としての立場で働いていたのではありません。彼は無名で知られてすらいない者だったのです。しかし、彼は創造物としての自分の本分を尽くすため、神を心から愛するため、そして神に服従するために勤勉、かつ誠実に取んだのです。彼は自分の本分を尽くす事に最善を尽くす事で神を満足させる事ができたのです。これが彼の成功に隠された秘訣です。私は、自分をペテロの祈りと神の御言葉による裁きおよび刑罰と対比して、とても恥ずかしくなりました。神の御言葉は私の心に響き、私は神に対し不従順で、反抗していた事を知りました。神を信じるにあたり、私は常に希望と計画を維持したのです。長年の間、私は、自分の終着点、将来性、名声、利益に地位を手にしようと走り回っていました。私は、自分の本分を幾分か尽くした時点で神と取引をし、自分が救われる事を確実にしようと神から承認を得ようとしたのです。神に対してこんな要件を課した事で、自分の中にいたサタンの本性が利己的過ぎる、嘆かわし過ぎる、そして邪悪過ぎる事を明らかにしました。私には神の創造物が持つべき知性と良心が全くありませんでした。人間らしい本性などは微塵もありませんでした。私は自分の不誠実な本性により任務を断ったのです。私は自分を守るために神からの御召命を断ったのです。そればかりではなく、私は非常識な根拠を用いて言い訳を見つけようとしました。私は、まるでこれが理性的な事であるかのように神と話をしていたのです。私は、まぎれもなくサタンの共犯者で、神の敵でした。この時、私は神の次の御言葉を読みました。「人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。」私は、自分の良心に深い自責を感じました。私は、自分の持っていたものは全て神がくださったものであり、自分が行う事ができたもの、経験したものは全て神が御用意してくださったものであったのだと、あらためて考えました。私が自分の理性と良心を取り戻せるように、創造物としての本分を真の形で尽くす事ができるように、神の裁きと刑罰が幾度となく私に降りかかってきました。神が私に何を必要とされようと、私は自分を神に捧げ、神の愛にお応えするべきでした。そうしなければ、それは神に対する裏切りであり、私は罰を受けるべきです。神の御言葉による裁きと刑罰はついに私の誤った観念を改め、私の良心を呼び覚ましてくださいました。今日、問題は、神からの任務は誰かが取り決めたかどうかという事ではありません。むしろ、長い年月に渡って私が歩んできた道と、その過程で私が何を求めてきたのかを神が試しているという事です。現在、私は真理の現実を知らず、霊的背丈も低い状態です。神が私にこの責任を与えたのは、私が現在、適任であるからではありません。むしろ、神は、真理を求める事、訓練を受け入れる事において、私を成長させようとしています。これは私が自分自身を神に捧げ、私の心と魂、力そして精神の全てをもって、神を愛する実際に入る事を余儀なくさせます。私は以前、不合理な観念を持って生きていました。自分の本分と地位をよく確かめていたつもりでしたが、このような態度と経緯の中で自分の本分を尽くしていた時、私は大した精錬を受けてもいなければ、大したプレッシャーも感じていませんでした。しかし、現状に満足する私の姿が自分の堕落した性質を明らかにしました。それは私の利己的で嘆かわしい観点を明らかにしました。私は神を信じながら自分の本分を尽くそうとしていましたが、神の御心を満たしておらず、神を愛するために最善も尽くしてはいませんでした。この時、私は我に返る事ができました。これ程の年月が過ぎた今、私は既にペテロの歩んだ道を歩みながら真理を求めていると思っていました。しかし、今日、私は自分の将来性を最も重視していたという事が事実として明らかになりました。私は神を全く愛しておらず、重い負担に耐える気もなく、神に自分の全てを捧げる気もありませんでした。こんな事がペテロの求めていた事に一致している訳がありません。

   私は、検索した中から、「神に選ばれた人々が受け実践する必要がある神の言葉100節」の中から2節を読みました。「人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」「あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の考える真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)神の御言葉は真理であり、真の道であり、そして、いのちです。そして、この時私は、自分の現状を神の御言葉の2節ともう一度すり合わせて、神の御言葉が既にペテロの歩んだ成功への道についてだけでなく、成功への道とは何かという事まで明らかにされていた事に気付きました。ペテロが成功した理由を、高い地位を求めなかったためや、本分を選んだためとは記載していませんでした。単に否定的な部分を克服するという事ではなく、それよりも、神を愛する事を積極的に求め、創造物としての本分を尽くす事と記載されていました。さらに、正しい道を歩む事で、神をより深く知り、真理を求め実践する事でますます服従できるようになり、利己的な要件、希望、不純な動機を持たなくなる等、沢山の肯定的かつ真の結果を生み出す事ができます。あなたの性質は変化を遂げ、何よりも、人々はより好適な形で真理に入れるようになり、神をますます心から愛せるようになります。この結果、人々は自分自身を完全に神に捧げ、それ以外には何も求めずに、人生を通じて神を愛する事に努めるようになります。私は、自分が正しい道を歩んでおり、既にいくつかの真理の現実性に入っているとも思っていました。しかし、明らかにされた真実において、私が真理を得て性質の変化を遂げた事についてはどこで明らかにされていたでしょうか。私が神を心から愛している事についてはどこで明らかにされていたでしょうか。私が真理に入れていたのならば、神から試されても耐える事ができるはずです。神が何を用意しても、私はそれに服従できるはずです。真理に入れているのなら、自分の中にいるサタンの本性の本質を見抜き、真の形で神の御救いを目にする事ができるはずです。神に対してもっと自分を捧げ、神の愛に応えたくなるはずです。これらの事実と神の裁きおよび刑罰を目の当たりにし、私は間違った道を歩んでいたのだと分かりました。私は神の創造物としての本分を尽くす道も、神を愛するための道も歩んでいなかったのです。むしろ、私は自分の利己的な関心と個人的な希望を求める道を歩んでいました。それは、自分を守り、自分が確実に終着点に辿り着けるように、無理やり従い、わずかな代償を払いながら神を欺く道でした。私は常に肉の欲求を満たす事を求めていたのです。一時的な平安を満たすために、神の裁きや刑罰を受け、真理を得ようとしていませんでした。私は、神の裁きや刑罰、そして試練と精錬を通じて、神を愛そうと、神に全てを捧げようと、神のために全てを費やそうとしていませんでした。私は、心の奥底では、「本分を円満に尽くす事を求めて、神の性質に背かなければ良い。最終的には良い終着点に至るから、それで十分だ」という見方をしていました。神の御言葉は、パウロが失敗した根本原因は神と取引をしようとした事にあると、何度も示されています。彼は将来の報いと名誉のために働き、創造物の主に対する服従と愛を全く抱いていませんでした。最終的に、彼は失敗し、神の罰を受ける結果となりました。神の御言葉は私達に対してこのように明確に忠告しています。「自分の終着点のために努力する者は、最終的に失敗するであろう。なぜならば、神への信仰における人々の失敗は偽りに起因するからである。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より)このような投資は誠実な動機では行われません。それは見せかけで、欺きの行為です。私は実に頑固な態度で、自分自身の選んだ道を歩み、神の御言葉の裁きを受ける事を避けていました。自分の本性に支配されていた私は、常に失敗した人の道を歩んでいました。神の御救いの働きが私に向けられた時、良し悪しの区別がつかず、恩をあだで返していました。私がした事と言えば、神を誤解し、抵抗し、裏切る事のみでした。この時、私は自分の本性がどれだけ利己的で、嘆かわしく、悪質であったかが明確に分かりました。長年神を信仰し、神を喜びとしてきたにもかかわらず、私は神に対する計略を企み、神と取引をする機会を絶えず伺っていたのです。私は心の中で全く神を愛していませんでした。これこそが、私が間違った道を歩んでいた理由で、正に神が仰られていたことなのです。「人は、神にそのすべてを捧げることが得意でなく、創造主に対する本分を進んで尽くそうともせず、真理を知ったにも関わらずその道を避けて自分の道を行き、これまで失敗した人の道に沿って追い求め、常に天に背くことで常に失敗し、サタンの誘惑に負け、自らしかけた罠に落ちてしまうのである。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

   その後、私は兄弟の説教を読みました。「このような不安を必然的に抱えてしまう人達がいます。『私は自分の本分を尽くしていますが、キリストの敵の道を歩んでしまう事を恐れています。何か間違った事を犯して神に逆らってしまう事を恐れています。』このような不安を抱えている人は多くいるのでしょうか。特に、働き手やリーダーとして仕える人達は、真理をとても熱心に求め、才能があり、善良な精神を持っていたにもかかわらず、結局は堕落してしまう人を目のあたりにする事があります。これらの人は説教にとても長けており、詰まるところ、リーダーたちはこのような人も堕落してしまうとは予測しないでしょう。彼らはこう言います。『私がこれらの事をしたら、彼らと同じように堕落してしまうのでしょうか。』あなたが神を愛しているなら、それでもこのような事を恐れるでしょうか。神を心から愛しているのなら、それでもこのような不安にコントロールされるでしょうか。神を愛する人達は常に神の御心に配慮し、間違った事はしないものです。……キリストの敵の道を歩む事と、真理を求め完全にされる道を歩む事を区別できるのなら、なぜキリストの敵の道を歩む事を恐れるのですか。それを恐れているという事は、あなたが依然としてその道を歩みたがっており、そしてあなたが過ちの道を捨て去りたくないという事を証明しているのではないでしょうか。問題はそこにあるとは思いませんか。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教 第九巻』の「神の愛を求め、神の証言をする方法」より)兄弟の説教による私は、神を愛していない人達はキリストの敵の道を歩んでおり、神を愛していない事が失敗につながる原因なのだと、より明確に分かりました。さらに、自分の中に潜んでいたサタンから受けていた根拠や口実もよりはっきりと分かりました。サタンの策略を見抜く事ができたのです。大きな責任を負いたくなかった事と失敗につながる道を歩む事を恐れていたという事は、私の本性が利己的で、嘆かわしく、邪悪であった事を明らかにしていたのです。それは、私が自分自身とサタンを深く愛していた事、そして地位と名誉、および将来性と終着点を求めるという、キリストの敵が歩む道を嫌ってもいなかった事を明らかにしたのです。私は真理を大切にしてもいなければ、神を全く愛していませんでした。兄弟の説教の言っていた、長年に渡り神を信仰したけども神を全く愛していなかった人々は人間性を抱いていなかったという事もよく理解できました。彼らは皆、何らかの邪悪な本質を持っていたと言っても過言ではないでしょう。この者達は皆、利己的で、嘆かわしく、邪悪な人達でした。このようにして、私は自分の本性の本質について確かな認識を得ました。同時に、私がこれ以上、利己的に嘆かわしく生き続ける事がないように、私の間違った観点を改め、それから私を解放し、正しい方向と実践の道に仕向けてくれました。全ては神が御取決めるものであり、私はただ、自分の本分を尽くしながら、真理を真の形で求め、神への愛を実践していれば良いのです。

   私は、裁きと刑罰をもって私が求めていたものを改め、過ちの道から引き戻してくれた神を讃えます。おかげで、私は自分の中にいたサタンの持つ本性の本質を正確に見分け、自分の失敗を引き起こしていた根本原因を見い出す事ができました。私は長年に渡り神を信仰してきたにもかかわらず、決して神を愛してはいませんでした。私は恥と自責の念に駆られました。神を本当に失望させ、傷つけてしまいました。私は神に対する真の愛を育む事を心から渇望しています。ペテロは神を心から愛し、真理を求める意思と不屈の努力を持っていたからこそ、完全にされました。私はそこからかけ離れた状態にありますが、これからは、これまでのように、自分を守ろうと卑劣で醜悪な生き方はしません。神を愛する事をこの先の追求の目標とし、努力を惜しまず、自分の本分を尽くすために必要な犠牲を払っていきます。私は、自分の本分を尽くしながら誠実に自分に課された責任の重荷を背負い、真理を実践し、そして神を愛する現実に入っていきます。