賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

永遠の命に至る道はあなたが見つけたのか

2019-11-04 22:16:09 | 聖書の言葉

   主を信じる人は誰でも、神だけが永遠のいのちの道を持っていることを知っています。主イエスはこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハ14:6)。ヨハネの黙示録第22章1節から5節にこう記されています。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」。わたしたちが知っているように、ここの「世々限りなく」は、「永遠の命」を意味し、永遠に生きて、死を味わわないことを意味します。神だけが永遠の命があります。神だけが人の命の源です。神だけが永遠の命に至る道があります。わたしたちが神を見つけたら、命の源を見つけたことになります。本当にこのとこしえの「永遠の命に至る道」を得たら、死の脅威を恐れなくなります。では、わたしたちはどうすれば永遠の命に至る道を得られますか。



   聖書を読んだことのある人はみなこのことを知っています。神があの時人を造ったのは、人が地上で彼を表現し、彼の栄光を現し、万物の主人になるためです。神は人の寿命を定めていませんでした。神はただアダム、エバに「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました(創2:17を参照)。これで分かりますが、あの時人が神の言葉を聞いて善悪の知識の木の果実を食べなかったなら、死ななかったのです。しかし、アダム、エバはサタン(蛇)に誘惑されたので、神の言葉に違反して善悪の知識の木の果実を食べました。そのため、彼らは神に呪われました。神はアダムにこう言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。……お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(創3:17、19)。わたしたち人類は罪を犯したため、永遠の命を失ってしまいました。こうして、死がこの世に臨みました。それは、ロマ6章23節に「罪が支払う報酬は死です」と書かれているとおりです。アダム、エバは神の言葉に違反して罪を犯した後、神にエデンの園から追い出されました。こうして、彼らは死を恐れるようになりました。つまり、わたしたちはサタンに堕落させられた後、神の栄光を失ってしまい、サタンの権威の下に生きるようになり、サタンの姿を生かし出しました。このままでいけば、わたしたちは最終的に罪の束縛のゆえに死にます。神は自らの手で造られた人類が罪の中に死ぬのを見るに忍びなくて、人類を救うという計画を始められました。それは、わたしたちが最終的に徹底的にサタンの権威から逃れてきよくなり、神が人に与えられる約束――永遠の命――を受け継ぐ資格を得るためです。これで分かるように、最初の人は永遠の命があったが、ただ罪を犯したため、永遠の命を失いました。

   わたしたちが罪を逃れて永遠の命を再び得るためには、神は人類を救う仕事を始められました。神はまず、律法を発布して人の生活を導くという仕事をなさいました。彼はモーセを通して戒め、定め、規定を発布して人に守らせました。それは、当時の人類がどのように地上で生活するかを学び、罪とは何か、どのようにヤーウェ神を礼拝すべきか、どのように安息日を守るべきか、何かの罪を犯せばどんないけにえをささげるべきかを知るためです。これは、神の人類を救う手始めの仕事です。神の律法の時代の仕事は人に罪とは何かを分からせましたが、人類はサタンに極めて深く堕落させられたので、全然罪悪から抜け出すことができませんでした。律法の時代の末期に、人類は律法を守ることができなくなって、絶体絶命の窮地に陥りました。なぜなら、律法を守ることができなくなったら、石で打ち殺され、天から下される火によって焼き殺されるからです。そういうわけで、神は律法の時代の仕事の基礎の上で恵みの時代の仕事をなさいました。恵みの時代で、自ら受肉した神の、罪のないきよい肉体は十字架につけられて、人の罪を担い、人の永遠の罪祭になりました。わたしたちが主イエスを信じ、主に悔い改め、罪を告白すれば、罪の赦しを得ることができ、律法を犯すため死に処せられるという危険を脱することもできます。これは、主イエスのなさった贖いの仕事によってもたらされる効果です。主イエスが「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3:16)と言われましたが、それはただ神が人に与えられる約束です。なぜなら、わたしたちの中にやはり堕落した性質があり、わたしたちがまだ罪の束縛を逃れていなくて、わたしたちが昼間に罪を犯し、夜に罪を告白するという状態がまだ続いているからです。もしわたしたちがそのような状態にとどまるなら、依然として神からの永遠の命を得られません。だから、わたしたちは続けて神の働きについて行き、続けて神の働きを経験する必要があります。わたしたちの中の堕落したサタン的性質がきよめられて、変わる時こそ、わたしたちは永遠の命を得られます。こうして、わたしたちは聖書に預言されている「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」(黙22:1を参照)を得ました。ここの「命の水の川」は小羊の玉座から流れ出るのです。それは、神が世の終わりに人に命の道を与えること、すなわち、神が世の終わりに、わたしたちを罪の束縛から徹底的に救い出すという仕事をすることを、示しています。わたしたちが小羊の玉座から流れ出る生ける命の水を得てこそ、本当に永遠の命を得ることができます。

   ヨハネの黙示録にこう預言されています。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙21:6)。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙7:17)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:29)。主イエスはこう言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)。以上の聖書の言葉から分かるように、神は世の終わりに来られる時、よりよくわたしたちを救い、きよめるためにまた声を発し、言葉を言われます。神は初めであり、終わりです。世の終わりに、聖霊は諸教会に語って神の民を牧し、供給されます。わたしたちが神から供給される生ける命の水を求め、受け入れることができれば、新しい命、永遠の命を得られます。なぜなら、神は真理、道、命であり、神こそが人に命を供給できるからです。これで分かりますが、神が世の終わりに言葉を言い、働くのは、神の、永遠の命に至る道をわたしたち人類に与えるためであり、わたしたち人類に真理の道、命の道を得させるためです。真理がわたしたちの命となったら、わたしたちは永遠の命を得ました。永遠の命を得た人が死を恐れることがあるだろうか。さまざまな災難が臨む時、このような人は神に守られています。それは聖書に「あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩91:7)と書かれているとおりです。どんな災いも命を得た人に臨みません。だから、真理、命を得た人は永遠の命を得た人です。