賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのか

2019-11-22 22:19:49 | 聖書の言葉

   聖書にこう書かれています。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます』。イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』。シモン・ペテロが、『あなたはメシヤ、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」(マタ16:13-19)。毎回この数節を見る時、わたしはこう思います。「同様に主イエスの弟子ですが、主イエスに『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と聞かれる時、彼らはそれぞれ異なった答えを出しました。ペテロだけが主イエスはキリスト、生ける神の子だと言い、主イエスの本来の本質と身分を見極めました。ペテロの答えは最も正しく、しかも主イエスの心にかないます。彼だけが神に対して最も認識があるから、主は天の国の鍵をペテロに授けられました。十二人の弟子が同様に主の追随者ですが、なぜペテロだけが主イエスがキリストだと分かったのですか」と。



   その後、わたしは聖書を読み、一部の兄弟姉妹たちと交流し、またこれらの問題において祈り、真理を求めることによって、神の啓きを得て、ペテロが主イエスがキリストだと知ったのは決して偶然ではなく、それは彼がふだんイエスのすることなすこと、イエスの所有しているもの、イエスの所是を注意深く観察することと密接な関係があると分かりました。主イエスが働いている間、ペテロは主イエスと共に食事をし、住みました。彼は現実生活の中で、主イエスの一挙一動、一言一行を観察することを重んじ、またこれらのディテールを通して、主イエスの中から流露される神の性質、神の喜怒哀楽をじっくりと味わいました。彼は特に主イエスのすべての言葉を重んじ、いつも主イエスの言葉の中で真理を求め、神の意志を探りました。彼は主イエスの一言一言は真理であって、人に真理、命を供給することができ、いかなる人も言い出せないことを見ました。しかも、主イエスの言葉、働きの中から、次第に神の性質、神の所有しているもの、神であるものを認識するようになりました。ペテロは次のことを見ました。主イエスは正常な人の外見をしています。人が想像しているように、彼は外見が非凡で、気品があり堂々としていて、王宮、貴族の家に生まれた、というのではありません。でも、主イエスが発表されるのはいかなる腐敗した人類も持っていない真理です。主イエスの中にあるのは完全に神の所有しているもの、神であるものです。主イエスの度量は非常に大きく、人類に対する彼の寛容さ、憐れみは無限です。彼はまたへりくだり、控え目に振る舞い、罪人と共に食卓に着きます。主イエスは傲慢ではなく、利己的ではありません。腐敗した人類のすべての腐敗した性質は主イエスの中に全然存在しません。主イエスの中から流露されるものはすべて、きよさ、義、人に対する無私の愛です。彼の喜怒哀楽は自分のためではありません。彼は彼の発表される真理が人類に光をもたらすために喜び、この腐敗した人類が罪の中に生きてサタンに苦しめられるために悲しみ憂えます。主イエスの発表される真理はすべての積極的な事物の実際です。このような本質と所是は神だけが持っておられます。ペテロは主イエスと付き合っている間のあらゆるディテールのゆえに、主イエスがキリスト、生ける神の子だと分かりました。最終的に、ペテロは神に対する認識のゆえに主に良しとされ、主は天の国の鍵と、羊の群れを牧するという任務とを彼に与えられました。

   ペテロが主イエスを認識する過程のゆえに、わたしはペテロを羨ましがり、また彼にあこがれています。ペテロの賞賛すべきところは、外見によらずに主イエスを認識し、主イエスのこの時点の言葉、働きを通して次第に経験し、注意深く体験し、神に対する認識、神の本質、神の性質と神の所有しているもの、神であるものに対する認識を追い求めることです。最終的に、彼は主イエスが受肉した神だと分かりました。ペテロが主イエスを認識したということで、わたしは少しの啓発を得ました。神を信じる過程の中で神に対する本当の認識を得ることを望むなら、神の言葉を認識することを重んじなければなりません。なぜなら、神の所有しているもの、神であるもの、神の性質、神の意志、神の人に対する要求などは神の言葉によってこそ認識することができ、人は神の言葉を心にとめてこそ、少しずつ神を認識することができるからです。これからは、わたしもペテロのように、神の言葉の中で多く真理を求め、神の意志を探り、神の働きを経験し、神の性質を認識し、神に対して認識を持つ人になることを追い求めます。