賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

「新たに生まれる」とはどういうことか

2019-11-25 19:00:57 | 聖書の言葉

   「新たに生まれる」という言葉は、主にある兄弟姉妹がみな知っていると、わたしは信じています。「新たに生まれる」というと、兄弟姉妹は聖書に記されている主イエスとニコデモの次の対話を思い出します。「イエスは答えて言われた、『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』。イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない』」(ヨハ3:3-7)。主イエスはわたしたちに、新たに生まれてこそ神の国に入ることができ、新たに生まれなければ神に淘汰されてしまうことを教えられました。これで分かりますが、主イエスのこの要求は神を信じ、神につき従うわたしたちにとって極めて重要です。

   わたしたちが知っているように、新たに生まれるとは、母の胎内からもう一度生まれるという意味だという、ニコデモの理解は絶対に間違っています。では、新たに生まれるとは、どういう意味ですか。ある兄弟姉妹たちは「主イエスがすでにわたしたちの罪を担われました。主を信じるわたしたちはもう主に贖われました。だから、わたしたちは生きることができ、もう新たに生まれました」と思っています。またある兄弟姉妹たちは「わたしたちが主の前で自分の犯したすべての罪のために激しく泣き涙を流し、しかも悔い改め、罪を告白し、洗礼を受けるなら、主はわたしたちの罪を赦し、わたしたちに新しい命を与えられます。そうなれば、わたしたちは新たに生まれることができます」と思っています。

   以前、わたしもこのように理解していました。でも、わたしの気持ちはどうしても落ち着きません。わたしはいつもこう考えています。「わたしが主に悔い改め、罪を告白したら、新たに生まれることになります。ことは本当にそんなに簡単でしょうか」。そうであれば、なぜ聖書に「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)と書かれていますか。この節から分かるように、主イエスはわたしたちに罪を告白させるだけでなく、またわたしたちに、きよめられることを追い求めるように要求されました。では、全教会の信徒を見てみましょう。多数の人は毎日主に罪を告白します。しかし彼らの罪は減るどころか、かえって日一日と増えます。牧師、長老、同労者たちでさえ、名声と利益を争い、互いに腹を探り合って暗闘し、異分子を排斥し、いけにえを盗み食いします。兄弟姉妹たちは嫉妬したり、論争したり、勝手に人を裁き、罪定めしたり、邪悪な潮流を追い求めたり、マモンに仕えたりします。わたしたちがこれらは主の教えにかなわないとよく知っているのに、なぜ真理を実行できないのですか。わたしたちのような、罪に縛られている古い人は新たに生まれる人だと言えるでしょうか。


   

 

   わたしは聖書にこう書かれているのを思い出します。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリ二5:17)。この節から分かるように、本当に「新たに生まれる」というのは、人が罪を犯す古い命から解放し、キリストの新しい命に従うということです。これらの聖書の言葉は、今の信徒がまだ新たに生まれていないことを十分に証明しています。では、どうすれば新たに生まれることができますか、新たに生まれるに至る道は何ですか。

   このために、わたしは絶えず聖書を調べます。すると、次の聖書の言葉を見ました。ヨハネによる福音書第8章32節では、主イエスは彼を信じるユダヤ人に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:12-13)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペテ一4:17)。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。これらの聖書の言葉をかみしめることによって、わたしは永遠の命を得たいなら、世の終わりのキリストがもたらしてくださった、永遠の命に至らせる真理を得なければならないと分かりました。これらの聖書の言葉からは、次のことを知ることもできます。主イエスが世の終わりに再来される時、もう一段階の仕事をなさるはずです。この段階の仕事が真理によってなさる裁きの仕事、すなわち、人をきよめる仕事である可能性が非常に高いです。わたしたちは神の世の終わりの働きについていき、主イエスの再臨を迎えなければならず、神の新しい仕事の中で神の言葉によってきよめられなければなりません。そうすれば、わたしたちの腐敗した本性が変わることができ、物事を見る観点も変わることができます。これこそが、新たに生まれることの表れです。今までの、わたしたちの生きていく術がいろいろあります。例えば、「人が生きていくには、メンツが欠かせない。木が生きていくには、皮が欠かせない」とか、「唯我独尊」とか、「自分のためを考えてくれない人には、天地の罰が当たる」とか、「金は万能ではないが、金がなければ絶対にだめだ」とか、「人は金銭のために身を滅ぼし、鳥はえさのために滅ぶ」などです。生きていく上でのこれらの観点が神の裁き、刑罰の言葉によって取り除かれたら、わたしたちはもはやこれらの観点によって生きなくなり、神の人に対する要求、神の言葉によって生きるようになります。そうなったら、わたしたちが新たに生まれることになります。主の啓きに感謝します。主の啓きによって、わたしは「新たに生まれる」とはどういうことか分かりました。栄光が主にありますように! アーメン!