賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

カトリック信者の証し:教会の荒廃の原因を尋ねる

2019-08-15 22:36:57 | 神に帰す証

   【編集者メモ】カトリックの家庭に生まれた彼女は、子供の頃、両親と一緒にミサに出席していました。大人になり、荒廃し混乱するカトリック教会を目の当たりにし、もはや聖霊の働きを感じることができなくなり非常に困惑しました。ある偶然の出会いから、彼女は主がずっと以前にお戻りになられていることを知ります。そして調べていくうちに、教会が荒廃した根本的な原因をついに突き止めたのでした。

寄稿家:ファンシア(アメリカ)

昔の教会は熱気にあふれていた

   私たちの家族は何世代にもわたってカトリック教徒で、私は生まれてわずか数ヶ月で洗礼を受けました。いつもアラームのけたたましい音に起こされ、両親にベッドから引きずり出されて、急いで顔を洗って着替え、夜のミサに出席するため教会に急行していたことを覚えています。

   両親によると、中国で主を信じる人は迫害され、司祭や信者たちは逮捕、拘留されることがよくあるため、私たちにとっては夜間にミサに出席するのが安全だということでした。とても危険でしたが、それでも教会の信者仲間は非常に熱心で献身的でした。天候がどうであれ、ミサの開催場所がどこであれ、皆が詳細をそれぞれに伝え合い、お年寄りや若者が出席するように我先にと助けていました。皆が、まるで新年のように興奮して聖歌を歌い、一晩中起きていたにもかかわらず多くの信者が意気揚々としていました。

今や教会は荒廃してしまった

   あっという間に私は大人になりましたが、教会も大きく変化しました。ミサに出席する人はどんどん少なくなり、出席者の多くはお年寄りで、若者の顔はほとんど見られなくなりました。教会の折々の行事のさいには、ミサは活気があふれ賑やかになりましたが、出席者の中にはマルチ商法や直接販売に関わっている人、保険外交員、スーパーマーケットやレストランを開く人などがいて、まるで野外の食品市場のように混乱としていました。皆がミサに出席するふりをしながら、実際は客を探すためにそこにいたのです。信者が集まった場合でも、どのように主を礼拝するべきかや神の御言葉を実践するべきかについて話さず、どうでもいいような家庭の事柄について話したり、家族が作った農作物の売り込みをしたりするだけで、心から主を礼拝しようとしていた人は誰もいませんでした。こうした教会の状況は、時間が経つにつれてますます悪化していきました。神父様の説教は啓きを与えてくれないばかりか、不当に他の教派を非難し、信徒に向かって用心するよう釘を刺すこともよくありました。さらに神父様たちは派閥で分裂し、他の聖職者と袂を分かつようになりました。時に見解の違いから議論が生じて内輪もめが起きることもあり、信者もいずれかの側について互いに批判し合い、言葉で攻撃し合うようになりました。以前には見られた思いやりや寛容さは、もう跡形もありません。教会でのこうした状況を目の当たりにした時、どうしてこんな風になったのか理解できず、言葉にならない悲しみを感じました。



   2009年、日本に留学していた私はミサに出席するために教会に行きましたが、日本の教会も中国と同じように混乱としていることが分かりました。神父様も信者たちも非信心者のような話し方や振る舞いをし、世俗的な流行を追い、誰もが人を出し抜こうとして互いに人を見下すような態度を取っていました。神父様はお金を持っている人たちには喜色満面の笑顔を振りまく一方で、お金がない人たちには冷たい態度を取り、ぶっきらぼうな口調で話していました。外国でこんなことが起きているのを見て、私は非常に落胆し混乱してしまい、もはや以前ほどには主を身近に感じなくなってしまいました。毎日、朝晩出席していた礼拝は負担になり、ミサに出席するため教会に行くのがどうしてもいやになった日もあったくらいです。しかし、主から地獄行きを宣告されるのが恐ろしくて、行くのをやめる勇気はありませんでした。その後も無理をして教会に行ってはいましたが、私の霊は満たされず、心は空になりました。時々、私はこう思いました。

   「どうして教会はこんな風になったのだろう。以前は信者も少なく、中国共産党は私たちを迫害していたけど、真夜中のミサには皆が熱心に出席していた。でも最近では、環境がもっと快適で楽になるにつれて逆に、人は怠惰になっていく。これは、前より多くの人が主を信じるようになったからだろうか。それともあまりに多くの説教を聞いたので、神秘的なものを何も感じなくなったからだろうか。」私はとても困惑しました。

   2018年5月、私は夫とまだ1歳に満たない娘と一緒にアメリカに移住しました。私たちは落ち着くと、近所の教会のミサに出席するようになりました。信じられないことに、この豪奢で巨大な教会にはほとんど人はいませんでした。神父様は上に立って説教をしていましたが、下方に座っていたほとんどの人は眠たげで、居眠りしている人もいました。人がまばらで空席の多い巨大な教会を眺め、そこに座っている人の無表情でうつろな顔を見ながら、私は自分の感情を言い表すことさえできませんでした。

   私はネット上で良さそうな教会を見つけたかったのですが、それで分かったのは多くのカトリック教会が死者を追悼する銘板であふれて、人々はただ香をたいて供え物をするだけだということです。また、一部の教会では司祭が修道士を呼んでお経を唱えさせたり、さらには司祭や司教が絡んだ多くのスキャンダルもありました。こうした状況を目にした私は、聖書の中で主イエスが話されている御言葉を思いました。

   「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(マタイによる福音書21:13)

   中国でも日本でもアメリカでも、そして地上でもインターネット上でも、すべてのカトリック教会はまったく同じでした。私は現代のカトリック教会は完全に駄目になってしまったとはたと感じたのです。見た目はとても立派に見えますが、もはやそこは神聖な場所ではありません。私は途方に暮れました。教会は非常に混乱とし停滞しているのに、なぜ聖霊はそれを何とかなさらないのでしょうか。

当惑する中、偶然の出会いが教会の荒廃の根本原因を暴く

   その年の7月のある日、ミサに出席するために娘を連れて教会に行った私は、そこでケリー姉妹に会いました。会った瞬間、まるで昔からの友人のように感じました。帰る道すがら、ケリー姉妹は聖書の中の物語を私にたくさん話してくれました。例えば、主イエスが話すのを聴き、その権威ある力強い言葉からその方が来るべきメシアだと気づいたサマリア人の女の話などです。そしてケリー姉妹はこうも言いました。主イエスが語られた賢いおとめは、聖書を読んだり欠かさず集会に出席したりといった外向きに熱心であることだけではなく、さらに重要なことに、主の声を判別できることを指しており、それは、主が再来された時に、そうすることによってのみ、お迎えすることができるからだと言うのです。彼女の話は新鮮で刺激的でした。長い間ずっとカトリック教会の集会に出席していましたが、そのような新鮮な話はそれまで誰もしてくれたことがありません。私は啓かれたと感じ、私の心は大いにそれを享受しました。その後、ケリー姉妹が彼女たちの聖書勉強会に私を誘ってくれたので、私は喜んで行くことにしました。

   聖書の勉強会では、たくさんの新しいカトリック信者の他、数多くのクリスチャンの兄弟姉妹や伝道師の劉兄弟に会いました。これらの兄弟姉妹に会ったおかげで、私はとても温かい気持ちになりました。皆がそれぞれの経験を交換し合う中、とても解放された気分がしたのです。そこで、私も自分自身が感じた困惑について皆に心を打ち明けました。

   私は言いました。「私はいくつかの国のカトリック教会に行ったことがありますが、どの教会でも主の愛や聖霊の働きを感じたことがありません。一部の教会の神父様には、信者に遺族の銘板を教会の中に設置させ、それを礼拝させる人もいます。私は教会がますます混乱とし、もはや主の栄光に満たされていないことを目の当たりにしたのです。私自身の信仰は徐々に冷めています。どうしてこんな風になったのか分かりません」

   「あなたが挙げた問題はとても現実的で、今日の大部分の信者もそのことについて戸惑っています。カトリック信者は皆、カトリック信仰がキリスト教の根源であると考えていますが、それならどうして教会は主の栄光を失い、今日のような荒れ果てた状態へと悪化したのでしょうか。実際のところ、教会の現在の荒廃の理由を知りたければ、まずは数千年前に起こった神殿の荒廃の理由を振り返らなければなりません。律法の時代の初期には、神殿は主の栄光で満たされており、聖霊の前では誰もが畏敬と敬意を表らなければなりませんでした。聖霊は神に背いた者を撃たれるため、祭司でさえ神殿で聖霊に仕え、細心の注意を払っていたほどです。例えば、旧約聖書には、ウジヤという名前の王がいたことが記録されています。彼は戦いで大勝利を収めて大きな権力を得た後、尊大で傲慢になりました。祭司の警告に耳を傾けることなく、良くない事と知りつつ神殿に入って神への供え物として香をたこうとしたのです。こうして神に背いた彼の額には瞬く間にらい病が発生し、死を迎えるその日までらい病人となりました(歴代志下、第26章16-21参照)。このことから、聖霊が神殿に存在するとき、誰も律法を破ろうとしなかったこと、そしてすべての国民の王でさえも例外ではなかったことが分かります。なぜなら聖霊は聖いものであり、汚れたものを容認されないからです。汚れたものを目にされると、否応なく撃つことになります。しかし律法の時代が終わりに達すると、民衆はもはや律法を守らなくなり、祭司は偶像を崇拝して足なえのものを犠牲に捧げ、人々は神殿内で公然と両替業を営み、家畜や家禽を売買しました。こうして神殿を泥棒の巣窟へと変えたのです。それでも聖霊は彼らを懲らしめたり、懲罰を与えたりしませんでした。それはなぜでしょうか。もし聖霊が神殿におられたならば、神殿が泥棒の巣窟になることを許されたでしょうか。明らかに許されなかったでしょう。つまり、神殿が泥棒の巣窟になるずっと以前に、聖霊はそこから離れられていたのです。では、なぜ聖霊は神殿から離れられたのでしょうか。それはおもにユダヤ人の指導者たちがもはや神の律法に従わなくなり、神を畏敬する心を持たなくなったからです。彼らが受け継ぎ守ったのは人間の伝統だけで、神の戒めは捨てました。完全に神の道から外れ、聖霊の働きを失ったのです。それに加え、聖霊が神殿を後にされたのは、恵みの時代に人類を贖う働きをされるため神がすでに肉となられており、聖霊の働きが他の場所へと移ったからでもあります。律法の時代の終わり頃、律法を守れなかったユダヤ人が投石で殺されたり、神聖な火で焼かれたりしたことを私たちは皆知っています。もし、聖霊が神殿を後にせず、律法の時代を終わらせず、磔の働きと人類の贖いを行わなかったならば、人類は律法の下で滅びていたでしょう。聖霊が神殿を離れられたのは人類にとっても神の働きにとっても必要だったというのは明らかです。聖霊の働きは絶えず前に進み、一つの時代に止まることはできません。律法の時代の成果が得られた後、聖霊は次の段階の働きを始められました。聖霊は古い働きを終わらせ、古い働きの場を去り、新たな働きに着手し、新たな時代へと人を案内し導かれたのです。新たな時代の人々がそれについていくことができなければ、聖霊の働きを受けられず、聖霊の糧を得られません。時と共に人々は飢えや渇きのために罪を犯すようになりましたが、懲らしめられることなく、ますます堕落しました。そしてオアシスは不毛の砂漠に変わり、カナンの地は飢饉に見舞われ、教会は荒廃したのです。ちょうど神がおっしゃったとおりです。


『見よ、わたしがききんをこの国に送る日がくる、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』(アモス書8:11)

   同様に今日のカトリック教会は市場や泥棒の巣窟と化しています。ではなぜ神は教会を懲らしめ懲罰を与えられないのでしょうか。「愛といつくしみのあるところ神はそこにおられる」(「愛といつくしみのあるところ」)という聖歌があります。教会は今、わずかな寛容さも忍耐も失い、論争や内輪もめを繰り広げています。では、神はどこにおられるのでしょうか」

神はどこに行かれたのか

   私はうなずきました。その有名な聖歌を劉兄弟が歌うのを聞いたとき、私の心は温まりましたが、同時に少し悲しくもなりました。私は言いました。「納得のいくお話です。教会で何の愛も感じることができないのは、主がもはやおられないからなのですね。もし教会に聖霊がおられたなら、誰も神を軽蔑するはずがありません」

   劉兄弟は言いました。「そうですね。では、神がもはや今の教会におられないのだとしたら、神はどこに行かれたのでしょうか」劉兄弟から質問されて、私はそのことについて深く考えました。「確かにその通り」と思いました。「律法の時代の終わり頃、人類を贖う新たな働きを行なうために聖霊が離れられたことで神殿は荒廃した。今では教会も荒廃している。では、神はどこに行かれたの」 神を信じ始めてからのことを考えてみると、私は所定の秩序に従い、聖書を読みミサに出席してきました。教会がどれほど混乱としているかに気づいたとき、多くの疑問が生まれました。しかしそれまで、神がどこに行かれたかについて考えたことはほとんどありませんでした。私はこの質問を心から理解したいと思い、劉兄弟の答えを待ちました。

   聖書を開くと、劉兄は私に読むように言いました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた』(アモス書4:7)読み終わると、彼は次のような話を始めました。

   「神の預言から分かるのは、私たちの教会に雨が降らないのはそこに聖霊の働きがないときだということです。それは、聖霊がすでに別の場所で新たな働きを始められていることを示しています。実のところ、主はすでに受肉されて戻られており、御言葉を語られ、新時代の到来を告げる新たな働きを始められています。『この畑は雨をえ』という言葉は、終わりの日に主が戻られたとき、その働きを受け入れて従う教会を意味しています。そうした教会は主の現在の御言葉を受け入れているので、主によって与えられるいのちの水と潤しを享受します。『かの畑は雨をえないで枯れた』という言葉では、聖霊の働きが他の場所に移っていることから、聖霊はすでに恵みの時代に種をまく働きを終えられ、今では神の国の時代の収穫の働きを始められたことを意味しています。聖霊の働きは恵みの時代の教会から完全に離れ、代わりに主の新たな働きに従う人々に向けられているのです。聖霊の働きの守りがなくなったことで、恵みの時代の教会の司祭や司教たちは枯れ、ミサで価値のある説教ができなくなり、信者に規則に従い典礼を守るようにと導くことができるだけになってしまいました。教会が荒廃した理由はもう一つあります。それは、司祭や司教たちが主の御言葉を実践せず、戒めを守らないことです。誰かが主の再来の福音を宣べ伝えているのを耳にしても、それを探し求めたり調べたりすることはありません。彼らはただ戻られた主の働きを拒否し、抵抗し、非難するだけで、これが教会に対する主の嫌悪と拒絶につながり、聖霊の働きを完全に失うことになるのです。聖霊からいのちの水が与えられ潤されることはなくなり、荒廃への道をたどることになります。そのため信者たちは偶像を崇拝したり内輪もめしたりするようになり、罪を犯しても懲らしめられず、説教中に居眠りする者もいて、そして教会は売買や取引の場となりました」

   劉兄弟の話を聞き、私は驚きました。新たな働きをされるために主がすでに戻られており、私たちがついていっていないがために、教会が荒廃したということがあるのでしょうか。その時私は、新たな働きをされるため主が戻られたと誰かが説いていて、その人物を神父様がミサの時に非難し中傷したことを思い出さずにはいられませんでした。今になってやっと、教会が荒れ果て混乱とした理由が分かりました。それは司祭や司教が再来された主の働きに信者たちの目を向けさせ学ぶようを導かいておらず、その代わりに抵抗し非難したからです。主の戒めと使徒たちの教えに背いたことで、彼らは聖霊に嫌われて拒絶され、主の働きから見捨てられて除外されたのでした。

聖霊の働きをどうやって探すのか

   ちょうどその時、私は突然目が覚めたかのように感じました。劉兄弟の明快で簡潔な話を聞くうち、主イエスが新たな働きをされるために別の場所へと移られたことを心から確信したのです。しかし、聖霊の働きがある教会をどうしたら見つけることができるのでしょうか。これを言葉に出し、質問してみました。

   兄弟は真剣に言いました。「神に感謝します。このようにあなたが理解してくれたというのは、完全に聖霊の啓きと導きによってです。聖霊の働きがある教会を見つけたのなら、まずは再来された主がどのような働きをされたいのかを突き止める必要があります。主イエスはその方法をずっと以前に聖書のなかに示してくださっています。ですから、今、聖書の数節を詳しく見てみましょう。

   『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)

   主イエスは、私たちに語るべきことがまだ多くあると言われています。なぜなら当時の人々の霊的背丈はとても小さく、これらのことを伝えても彼らには理解できなかったであろうからです。ですから主イエスが終わりの日に戻られたとき、私たちにさらに多くのことお伝えになるのです。主は私たちのいのちに必要なすべての真理を告げられるでしょう。これらの真理は、聖書に『真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言は真理であります』(ヨハネ福音書17:17)と書かれているとおり、私たちの罪を除き清める真理です。また、ヨハネの黙示録にはこうあります。

   『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう』(黙示録2:17)

   主の再来の時にもっと私たちに伝えてくださることがあること、そして隠されているマナを与えてくださることを、主は私たちに気づかせてくださいます。私たちが聖霊の御言葉を見つけるとき、主を見つけるのです。

   「別の神の御言葉も読んでみましょう。『イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から墮落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの支配から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本當に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。』



   神の御言葉によって語られているのは、人を救うための主の働きは動きが止まった状態のままであるわけではなく、むしろ常に人を前に導くものであるということです。律法の時代には、当時の初期の人類はどのように生きるべきかを知らなかったため、聖霊は当時の人々の必要性を考慮し、モーセによる律法の布告を通じて、じきじきにお働きになり人々の生活を導かれました。そして彼らに律法と戒めを守らせ、神の恩恵の中で生活させたのです。しかし律法の時代の終わり頃には、人々は律法を守れなくなり、あまりにも多くの罪を犯していたので、彼らは皆、律法によって断罪され処刑されるという危険に直面しました。神は人類を救うために主イエスとして受肉され、恵みの時代の働きをされました。そして人間の罪を背負い生け贄となって十字架にかけられたのです。主に告白し悔い改める限り、私たちの罪は赦されるようになり、過ちや罪を犯しても律法によって呪われ断罪されることはなくなりました。主は私たちを罪深いと見なしているわけではありませんが、それは私たちには罪がないということを意味しているわけではありません。サタンの罪深い本性は私たちの中に深く根ざしているからです。善い行いをしているように見えても、実は自分の利益のために行っており、嘘をついて人をだますこともよくあります。自分の都合に合わない状況になるとすぐに思い違いをし、主を責めることもよくあるでしょう。たとえ自分の考えを声に出して話さなくても、心の中では否定的で反抗的な感情をやはり感じます。自然災害や人災が起きれば、主を裏切ることさえいつでもやってのけます。私たちが罪の中で生きているというのは、こうした振る舞いが十分に証明しています。それゆえに、私たちを完全に清め救うために主は再び終わりの日に受肉され、御言葉を語り、恵みの時代の頃よりも新しく高次な働き、すなわち神の家から始まる裁きの働きを始められたのです。主を受け入れて従う者すべて、そして神の国の時代の御言葉の働きを受け入れる者はすべて小羊の婚宴に出席し、神によって人に授けられるすべての真理を得て、主と向き合いながら、神の国の時代で暮らす人々の生活を始めるのです。これはちょうどヨハネの黙示録で預言されている通りです。すなわち、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして』(ヨハネの黙示録21:3)のことです。」

   劉兄弟の話を聞いた後、私は心が光で満たされるのを感じました。主の働きは前進し、聖霊は恵みの時代の教会から離れ、すでに新たな働きを行なっていらっしゃったのです。つまり、神の国の時代の新たな働きを始められたということです。それなのに、主が新たな働きをされるために戻られたと誰かが説いているのを聞いたとき、神父様のあからさまな嘘を信じました。そして、その話は聞かず、近づこうとせず、それを求めたり勉強しようともしませんでした。私たちはただ教会に固執し、主の歩みについていかず、それゆえに主に見捨てられたのです。今や、主の歩みについていくことによってのみ、聖霊の働きを得た教会を探し出せるということができ、主による神の国の時代の新たな働きを受け入れることによってのみ、聖霊の働きと導きを得ることができ、主と向き合って生きることができるのです。

主はすでに戻られている

   それから数日の間、劉兄弟は私に六千年に及ぶ主の人類を救う経営(救い)計画の三つの段階について、また各時代に主が行われる働きの内幕と本質について詳細に話してくれました。彼はまた、救われたことと完全な救いが達成されたことの違いや受肉とは何か、偽キリストをどのように見分けるか、神の名前の奥義などについても私に話してくれました。私の渇いた心はいのちの水で潤され、私の霊は大いに満たされました。

   全能神の働きを受け入れた後、私はついに光を見ました。中国で説教され大きな物議をかもし、カトリック司祭が非難している東方閃電は、主の現われと働きであることが分かり、私は感極まって言いました。

   「このようにして最初から最後まで聞けて本当に良かったです。さもなければ、私は気づかないままずっと主に抵抗しているところでした。それは本当に危険なことでした!」

   その後、私は全能神の御言葉を熱心に読み、積極的に集会に出席し、福音映画を視聴して賛美歌も学ぶようになり、すぐに終わりの日の全能神の働きについて確信しました。全能神教会では、聖霊の働きを受けていることから来る安らぎと喜びを心から味わうことができ、この一大家族の温かさも感じています。

   ほどなくして、私は姉妹の一人と共に終わりの日の神の働きの証しを私の夫にしました。今では夫も終わりの日の全能神の働きについていっています。毎日、神のいのちの水によって潤され、養われる日々を楽しんでおり、私たちのいのちは絶えず進歩するようになりました。全能神の御言葉は、すべての奥義を明らかにし、私たちに優れた識別力を与えてくれます。私たちは二度と偽の羊飼いの後にぼんやりとついて、神に抵抗する道を歩んだりしません。私たちはやっと神の子羊の歩みについて進んでいるたのです。


謙そんして真理を求める人は祝福される人です

2019-08-14 21:39:05 | 神に帰す証

   2002年、私の叔母は私に主イエス様の福音を話してくれました。私は、主イエス様が人類の罪を贖うために十字架に釘付けにされたことを知って深く心を打たれ、主の私たちへの愛はとても素晴らしいものだと感じました。従って、私と叔母は一緒に主に祈りを捧げ、人生を通して主に従い、そして主を頼りにしていく決意を伝えました。その後、私は頻繁に聖書を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、心から主と話し、私はまるで喧騒のない世界に入り込んだかのように心の中がとても穏やかになりました。

   2008年、私は集会に参加するため日本の教会を訪れました。同時に、私は名古屋で牧師と説教師が教会を設立するのを手伝い、その教会の働き手にもなりました。当時、その牧師は教会全体を統轄し、皆は彼をとても尊敬していました。しかし、私は説教師をもっと尊敬していました。なぜなら、彼女は聖書にとても精通しており、主のためにいつも熱心に働き、霊的にも深みのある人だったからです。その一年後、私は仕事の都合で他の市に異動となりました。その後すぐ、私は、その牧師が本部の牧師ならびに説教師とも意見が食い違い、それが原因で教会は分裂したと聞きました。その理由は、牧師の悪事が暴露され、教会の資金を横領したことが報告されたため、本部の牧師が彼を教会から除名したというものでした。私は熱心に福音を説いていましたが、教会はついに彼らが権力と利益をめぐって争い合う場と化してしまったため、自分は彼らに道具として上手く利用されている気分になりました。これが理由で、私はしばらくの間とても悲しくなり、落胆しました。最終的に、私はこの悲惨な教会を去る決断をしたのです。

   その後、私は説教師について大阪へ行き、新しい教会を建てました。その説教師はこの教会を他の説教師に託しました。しかし、この新しい説教師の説教は私たちを教化することも、私たちの生活における問題を解決することもできず、私たちは皆弱く、否定的になり、私たちの信仰はどんどん冷めて行きました。兄弟姉妹たちがその教会に来て集会に参加していたのは結婚相手になりうる人を自分の子供たちに紹介したり、仕事を探すためであり、中には人にたかる目的で来ている人すらいました。当時、私はこの教会が律法の時代末期の神殿と同じように、商売の場と化してしまったような気がしました。いのちの備えを受けられず、途方に暮れた私はこの教会を去ることを余儀なくされました。しかし、どのような問題に直面しても、私は依然と変わらず前の教会の説教師に直接相談していました。その後、私はその他多数の教会にも行きましたが、荒廃した状態はどこも同じでした。こういった状況全てを前に、私は内心とても悲しくなり、心の中で頻繁に主に向って声を上げて叫びました、「ああ、主よ!あなたは何処におられるのですか?」



   2015年クリスマスの日、私は自分の子供と親子イベントに参加した際、主を信仰するケチウ姉妹と知り合いになりました。その後、私たちはいつもお互いに主を信仰してきた経験について語り合うようになりました。彼女の話しを聞いていると、私はそれがとても啓発的だと感じ、多くを学びました。彼女は私が困難や問題に遭遇する度に、辛抱強く私と交流して私が実際に抱える問題を解決してくれました。私は彼女と一緒に交流し、共有し合えることをとても嬉しく思いました。後に、私たちは教会の状況について話し合いました。彼女はこう言いました、「律法の時代末期に、元々は栄光で輝いていた神殿は盗人の巣と化しました。これは、主に、ユダヤ教の指導者たちがヤ―ウェ神の律法に従わず、心の中で神を恐れなかったことが原因でした。彼らは人間の言い伝えに従い、神の戒律を排斥していたのです。彼らは神の道から完全に離れてしまったので、聖霊の働きを失いました。しかし、もう1つの原因は恵みの時代に、神が人類の罪を贖う働きをするために受肉されたことでした。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者はその全員が聖霊の働きを受けましたが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きから排除され、暗い荒廃状態に陥ってしまったのです。宗教界の牧師と長老たちに目を向けてみましょう。彼らは好き勝手をして、神の戒律に従っていません。彼らは主として聖書の内容を頻繁に解釈してはいますが、聖書に関する知識と神学理論に注目し、人々を聖書神学に没頭させ、彼らを神から離し、教会を宗教儀式の場と変えているだけなのです。さらに、彼らはそれぞれの本分を地位と収入を得るための術として扱っています。この牧師と長老たちが勝手なことをして、神の道に従うことを止めてしまっているがために、聖霊の働きは離れてしまい、信仰の場も見捨てられてしまったのです。しかし、また、それは主イエス様が肉に戻られ、終わりの日に教会を起点にして裁きの働きに着手されたことにも起因していました。全能神は終わりの日の神の働きを受け入れる者全てを清めるために、人類を救うことの真理の全てを話され、聖霊の働きも終わりの日の神の働きに移行します。終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れる者は聖霊の働きを受け、いのちの生ける水の備えと注ぎを受けますが、終わりの日の神の働きを受け入れない者は暗い荒廃の中に残されてしまいます。これは聖書にあるこの預言の内容を裏付けているのです:「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」(アモス書 4:7-8)

   彼女の交流を聞いて、教会が荒廃していた理由は聖霊の働きが移行し、全能神が御言葉を話され、教会を起点に裁きの働きをなされたことが理由であったと私は理解しました。その瞬間、私は主が再臨されたことにとても興奮しました。その後、彼女は神の人類を救う経営計画と神の三段階の働きにおける幕内と本質について交流してくれました。彼女はこうとも言いました、「神がなされる各段階の働きは全て、私たち堕落した人類の必要性に基づいており、それは前の働きを土台にして作られたより深く、より高いレベルの働きです。この3段階の働きで神の経営の働き全体が成り立っています。」私は聞けば聞くほど、彼女の言ったことに増々賛成しました。集会が終わると、彼女は私にこう言いました、「神は新しい働きをしに来られる時は、いつもサタンの勢力から妨害を受けます。主イエス様が働きをしに来られた時、ユダヤのパリサイ人たちがローマ政府と手を組んで主を十字架に釘付けにした時と同じです。今日、全能神は終わりの日の裁きの働きをしに来臨されましたが、全能神も同じように無神論を信じる中国共産党政府と宗教界からの非難と抵抗を受け、今の時代から排斥されているのです。実に、無神論を信じる中国共産党政権と宗教界の指導者の大多数は神と真理を嫌うサタンの勢力であり、それは主イエス様が十字架に張り付けられたことより分かることです。従い、それが真の道である限り、それは無神論政権と宗教界の拒絶と非難を確実に受けてしまうのです。私たちはこの世界にはびこる闇と悪を見抜き、神の働きを知る必要があります。これができないと、私たちも彼らに合わせて神を非難し、神に抵抗し、神の性質を害してしまうことになります。」これを聞いて、私は自分も同じ考えであることを示しました。

   彼女の交流は完全に反論の余地がない内容でしたが、私は突然主が再臨なさっておられることを聞いたとたん、一瞬少しだけ疑念を持ちました。私は自分が前の教会の説教師ほどは聖書に精通していないと考えて、彼女と連絡を取りました。彼女は私に起こったことを知ってこう言いました、「彼女は東方閃電を信仰しているんだわ。これ以上彼女の言うことを信じたり、彼女と連絡を取ってはいけません。つい最近、東方閃電は私たちの教会から善良な羊たちを全員奪っていったのです。私たちの教会の信者たちは皆、私たちが骨身を惜しまずに説教し、引率しているのに。彼女たちは私たちの羊たちを奪いにやって来たのです。」電話で不安そうな説教師の声を聞いた私は心の中で怖くなりました:「私の信仰が間違っていたらどうしよう?主は私をお嫌いになるかしら?」私はとても困惑し、心が悲しくなり、あっと言う間に板挟み状態に陥ってしまいました。私は心の中でこう考えました:「説教師は長年に渡って主に仕えておられるし、聖書を良くご存知で、聖書の知識を私より良く理解しておられるわ。だから、彼女は私よりも知識が豊富なはず。でも、ケチウ姉妹の交流も合理的でもっともらしい内容だし、それに主の再臨はとても重大な出来事だわ。私はこの地上で誰の言うことを信じればいいのかしら?」主イエス様のこの御言葉が頭に浮かびました、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)。 これを受けて、私は、神に祈って私を導いてくださるように、そして私が正確に何をすべきかをお啓きくださるようお願いすることにしました。私は祈りを捧げている時、突然、東方閃電から来た人たちが教会の善良な羊を全員奪った行ったと説教師が言っていたことを思い出し、とても困惑しました:「どうして彼女は兄弟姉妹たちが彼女の羊だなどと言えるのかしら?明らかに、私たち信者は主の羊なのに。」その時、私は牧師と長老たちが以前行っていたことも思い出しました。本部の牧師は傲慢で、彼は自分の名前を讃え、自分自身の証言をしていました。私たちのような普通の信者でさえ、彼には聖霊の働きが宿っていないことが分かっていたというのに、説教師は彼を深く尊敬して、崇拝していました。これは一体どういうことでしょう?さらに、説教師は私よりも聖書の知識に精通していたにもかからわず、彼女の説教は聖霊の御啓示を欠き、その全ては私たちの抱える現実問題を全く解決できない陳腐な理論ばかりでした。しかし、ケチウ姉妹が話してくれた真理は私の聖書に対する疑問とそれに関する問題を解明してくれただけでなく、私が神の働きに関する理解を沢山得られるようにまでしてくれたのです。加えて、私は全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取った時、彼らが合理適に、かつ謙そんしながら喋り、集会では楽しみながら神の御言葉を読み、それぞれの神の御言葉における体験と知識、そして神の御言葉がどのようにして物事に関する彼らの観点を覆し、彼らの堕落した性質を変えてくださったかについて交流していたことを知りました。そして、こういった事柄の中で、私は全能神教会には聖霊の働きが宿っていることを知ったのです。その後、私は何度も祈り、探求した後、説教師の反対を押し切って全能神教会の調査を続行する決断をしました。

   その後、調査を続けていると、説教師がまた電話をしてきました。彼女は私がまた全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取っているのかと聞いてきました。私は、「はい、私は全能神教会について調べています」、と言いました。すると彼女はこう言いました、「どうしてあなたはそんなに困惑しているんですか?東方閃電は女性のキリストを説き勧めているんですよ。そんなことがある訳ないでしょう。主イエス様は男性で、世の終わりにも間違いなく男性として再臨されるのです。あなたは聖書をあまり理解していませんね。あまり深入りし過ぎない方が無難です、さもないと主が再臨される時、言うに耐えないほど後悔しますよ。」彼女の言ったことを聞いて、私は又しても困惑してしまいした:「説教師の振る舞いが主の御心に適っていないとしても、彼女は私より聖書に精通している。それは事実だわ。私の信仰は本当に間違っているのかしら?」私の心が揺らいでいたその時、説教師は声を落とし、またこう言って説得してきました、「私が辛抱して優しくあなたにこう勧めているのは全てあなた自身のためなのよ。」そして、彼女は全能神教会を中傷する噂を多く口にして、「悪に貢献してはいけません」、と言って脅かしてもきました。電話を切った後、私はすぐに悩みこんでしまいました。彼女のいかにも善意そうな説得は、ポットの冷水を頭の上からかけられたかのように私をとても落胆させました。私はどうして良いのか分かりませんでした。しかし、主イエス様はこう仰っておられました、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)。この御言葉は私を励ましてくださり、探求し、調べ続ける意思を持たせてくださったのです。こうして、私はこの事態を解明する決意をしました。

   その後、私は全能神教会の兄弟姉妹と連絡をとり、神の性別に関する問題について質問しました。私の質問を聞いた後、ある兄弟がこう言いました、「神の本質は霊です。霊は性別分けされません。肉となられた神が男性であれ、女性であれ、その御方が神の霊が受肉された御方である限り、その御方はキリストであり、神御自身であります。さらに、神がなさることは全て意味があります。神は意味や価値のない事柄には決して関与されません。あなたの質問について、先ずは聖書の中の創世記に記された記録を読んでみましょう、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」( 創世記 1:27)。この節より、最初神は男と女を神御自身のかたちに創造されたことが分かります。すなわち、神は男のかたちにもなり得るし、女のかたちにもなり得るのです。」その後すぐ、彼は私に神の御言葉の節を2つ読ませてくれました、「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。」「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より

   「神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きを行い、それぞれの時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見せる。もし人々が新しい時代に、神の新しい性質の表れを見ないならば、人々は永遠に神を十字架に釘付けにするのではないであろうか。そうすることで神を定義するのではないであろうか。もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」「神の働きのビジョン(3)」より



   この兄弟は言いました、「神の御言葉から、神は霊であり、神は性別分けされないことが分かります。神が異なる時代に異なる性別を選ばれるのは、神の働きにおける必要性に基づいています。時代が変われば、働きも変わり、神の性別も変わります。神が恵みの時代に女として現れていたとしても、贖いの働きは全て変わらず成就されていたでしょう。そして、終わりの日の神のかたちは男となります。このように、神は今まで異なる性別で二度受肉されているのも、神が男と女を創造された意味を完全なるものにしています。それに、異なる性別を選ばれることには神の知恵が込められています。神が恵みの時代に男として働き、今回も男として御言葉を表していたら、神は男にしかなれないと私たちは信じるでしょう。同時に、私たちは神を男と限定するため、女を見下してしまうでしょう。そうなれば、女に対してとても不公平です。これは神の義をより明確に表しています。同時に、神はこうすることで、神は男としてしか受肉できないという私たちの誤った信念を一掃してくださり、神は全能であること、そして神の知恵は人間には計り知れないものであることを知らせてくださっているのです。さらに、私たちは神の本質は霊であること、そして性別は人類にのみ適用されるものであることも理解しておく必要があります。神の性別は神が受肉された時代にのみ依存するもので、受肉された神の働きが成就すれば、神はもはや性別分けされなくなります。従い、神の働きは私たちには全く想像もつかないものなのです。私たちが何かを不可能である思えば思うほど、それには神の善良な御心がより強く込められているのです。創造物として、私たちは自分の観念と想像によって神を定義することはできません、なぜならそれは神の性質を害してしまうからです。」

   兄弟は続けてこう言いました、「マタイ6:9にはこう記録されています:『だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。』 以前、主イエス様が弟子たちに天の神を私たちの天の父として祈るようお教えになったことを記した節に使われている ‘父’ という言葉を私たちはいつも使っていました。私たちは、神は天の父であるのだから、神は男にちがいないと考えがちです。実は、’父’ というのは受肉された神の人間の視点から見た天の神に対する敬称にすぎないのです。」彼の話しは私の心を完全に啓いてくれました。神がまた女として受肉されることは聖書の内容と一致しているのです。同時に、神は女になり得るし、男にもなり得るし、神には性別がないことも、私は理解しました。私は長年に渡り神を信仰していながら、神を知らず、いつも自分の観念と想像を頼りにしながら神を信仰していたことに気が付きました。さらに、私はやみくもに大衆に従ってもいました。牧師と説教師が何を言っても、私はそれを信じていたのです。私は東方閃電を調査することに全く専念していませんでした。私は本当に極めて愚かで、無知だったのです。主に感謝します。あの日の交流のおかげで、神が女として再臨されるということに関する私の観念は完全に取り除かれました。

   その後、あの説教師が以前中国にいた時、兄弟姉妹たちが彼女に全能神の福音を説きましたが、彼女は真理を求めることを拒否し、やみくもに自分の観念に固執したので神の救いを受ける機会を逃していたのだと私は理解しました。この事柄について、私はとても困惑したので全能神教会の姉妹に尋ねました、「表面的には宗教界の説教師と牧師の霊的生活は私たちのよりもスケールが多いいもののように見えます。なので、彼らは全能神の表す御言葉は全て真理であることを知り得るはずです。しかし、彼らはどうして終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしないだけでなく、全ての側面において私たちがそれを探求し、調べることを妨害するのですか?」私がこう言ったのを聞いた彼女は私のために神の御言葉のこの節を見つけてくれました:「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より。彼女はこう言いました、「宗教界の牧師たちは終わりの日の全能神の働きを探求することも、調べることもしません。1つの理由として、それは彼らの本性が傲慢であり、彼らが真理に従っていないことが挙げられます。彼らは、表面的には神を信仰していますが、実際には自分自身を信仰しているのです。神の働きが自分たちの観念と一致していなければ、彼らはそれを拒否してしまいます。彼らは神を自分たちの観念と想像の中で、聖書の字義どおりの意味で定義しています。神の宣教がどれだけ深く、正しいものであろうとも、また神の御言葉にどれだけの権威と力があろうとも、彼らは変わらずそれらを非難し、それらに抵抗し、これは彼らが神を恐れる心を全く持っていないことを示しています。彼らは真理を求めることもなく、神から御啓示を受けるのを待っているだけです。彼らは単に自らを買い被っているだけなのです。もう1つの理由として、彼らは自分たちの地位を過剰に大事にすることが挙げられます。自らの地位と生活を守るために、彼らは東方閃電が真の道であることを知っていながらも、東方閃電を拒否します。彼らはかつてのパリサイ人と同じです。彼らは主イエス様が働きをされた時、主が多くの真理を話されたこと、多くの奇跡をお見せになったこと、人々に沢山の恵みを与え、神の権威と御力を証明されたことを完全に知っていました。しかし、彼らは主イエス様の働きがユダヤ教に衝撃を与えていたことを知った時、主イエス様が働きをし続けたら、多くの人々が確実に相次いで主に従うようになり、そうなる頃にはユダヤ教は滅びてしてしまうと悟ったのです。なので、彼らは自分たちの地位と生活の糧を守るため、兵士たちに賄賂を払って嘘の証言をさせて、主イエス様は蘇っていないと言わせたのです。主の弟子と使徒たちが各地に散らばって主イエス様の福音の証言をした時、パリサイ人たちは狂信的に抵抗して彼らを迫害しました。パリサイ人たちは宗教界を永遠に操るという野心を実現するために、主イエス様が働きをするのを禁じようとしました。パリサイ人たちは神を名目上でしか信仰していなかったのです。実は、彼らは神に抵抗し、真理を嫌っていたのです。神に抵抗する傲慢さと主イエス様に対する嫌悪が彼らの野心と神を嫌う反キリスト的な本性を暴露しました。実際に、宗教指導者たちは全能神の御言葉をもっと読みさえすれば、全能神の御言葉と働きより、全能神は主イエス様の再臨であることに気が付くはずです。しかし、彼らは神を恐れる心を胸に終わりの日の神の働きを探求することも、調べることもないだけでなく、永遠に人々を操り束縛するという野心を叶えるために、人々が真の道を探求し調査するのを精一杯妨げようとするので、人々は永遠に神の救いが受けられなくなってしまうのです。彼らは魂を貪る悪魔で、その全員が終わりの日の神の働きによって暴露される反キリストなのです。」

   私は全能神の御言葉を読み、そしてこの姉妹の話を聞いて初めて牧師と説教師の本質を知りました。私が今までずっと比較的に信頼を置き、尊敬してきた説教師は神に抵抗する反キリストだったのです。彼女は私が終わりの日の全能神の働きを探求し、調査することを幾度となく邪魔し、出来る限りのことをして私を妨害し、私が神の前に行くことを好みませんでした。さらに、彼女は私のことを気にかけているふりもしましたが、私はそれを見破ることができず危うく彼女の策略に陥りそうになったのです。私はこれら宗教指導者たちは極めて陰険で狡猾であることを知りました。同時に、私は、神が好まれる人々は、謙遜して真理を求める人々であり、聖書の知識を理解していると勝手に信じ、傲慢に神の働きに批評を浴びせるような人々ではないことも理解しました。従い、私は自分を脇に置き、謙遜して探求することを学ぶ必要があり、傲慢で無知であることを理由に真の道への扉を閉ざしてはならないのです。その後、私は集会に参加し、神の御言葉を飲食し、兄弟姉妹たちがそれぞれの体験と証言を話すのを聞き、全能神の表す御言葉は全て真理であること、そして私たちの堕落した性質を取り除き永遠のいのちを手にするために歩む必要のある道であることを知りました。これ故に、私は子羊の足跡を密接に辿り、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。


霊的戦い:子供が病気にかかったが、私は神様の特別な恵みを見ました(I)

2019-08-13 22:01:45 | 霊的戦い

   (あらすじ)神の新たな働きを受け入れて間もなく、サタンからの試練が相次いで彼女に降りかかりました。彼女の娘二人は共に病に罹ってしまいましたが、彼女は神の御言葉と兄弟姉妹の交流を通じてサタンの害悪と卑劣さを見抜き、祝福を得ようとしていた自分自身の動機についてもある程度理解することができました。娘たちは病に罹ってしまったものの、彼女はこの体験を通じて神の違った種類の恵みを知ったと心から感じたのです。

寄稿家:Lian Yan(アメリカ)

   「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブの手紙1章12節)


 


   窓の外では、夜空に明るい月がかかり、夜の静けさの中には日中の喧騒と騒音はありませんでした。それはとても平安な夜でした。私の娘はベッドの中にいました。彼女はしばらくの間、ぐっすりと眠っていました。彼女の顔に浮かぶ愛らしい笑顔を見ながら、私は彼女が病と戦った様子を相次いで思い起こしました。すると、様々な感情が心にこみ上げてきました……

 幸運にも主の再臨をお迎えできました

   2018年4月、私は幸運にも主が再臨なさるという知らせを耳にして、しばらく探求し、調査した後、喜んで終わりの日の全能神の働きを受け入れました。私は世界中の人が読んで観賞できるようにインターネット上に掲載されている神の御言葉をたくさん読み、世の終わりの日の神の働きの証言をした様々な福音映画やその他の動画を見ました。私は終わりの日の神の裁きの働きが完結に近づいていることをその時初めて知りました。私は真理をもっと理解しようと、熱心に、渇望するように神の御言葉を読み、福音映画を見て、集会に参加しました。私は心がとても安らぎ、最高の気分がしました。

   ある時の集会の場で、兄弟姉妹たちはある説教を読み上げました、「終わりの日の神の働きの中で、更なる試練が人々に降りかかります。それはどうしてでしょう?それはサタンが人類を堕落させた上に、神の経営計画を妨害するために人間たちを神からもぎ取ることを企んでいるからです。これがサタンの目的です。神は人類を救うこと、そして人間をサタンの手から取り戻し、完全にし、神に立ち返らせることを望んでおられます。このため、霊的世界の戦いはとても凄まじいものであり、人類はその焦点となっているのです。人々が神の働きを通じて試練を受けるのがごく普通なことであるのはこのためです。神は人類を救おうとされますが、サタンは断固として人類を必ず堕落させるつもりでいます。サタンは簡単には諦めません。ならば、神はこの状況の中で人々を救うために何がおできになるのでしょうか?神はサタンの試練が人々に降りかかることを許す必要があり、それを通じて神はサタンの策略を暴露し、人々がそれを見抜き、それによって神の御言葉を受け入れ、神の側に立ち、神に立ち返り、神に従えるようにすることがおできになります。これは堕落した人類が本当に救いを受けるための唯一の手段です。このようにして神は人類を救ってくださるのです。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教 第十巻』の「御言葉『神の働き、神の性質、そして神自身 2』に関する説教(II)」より)。

   これを読んだ後、ジン・ヤン姉妹はこう話しました:「私たちが今、終わりの日の全能神の働きを受け入れることができるのは、神の特別なお引き上げと恵みのおかげです。終わりの日のキリスト、全能神は人々が救いを得ることができるように全ての真理を仰せられ、神の家を起点に裁きの働きをされました。神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、私たちの堕落した性質は変わり、清められることができます。これは私たちがサタンの影響を完全に脱却し、神に完全にしていただくことができる唯一の方法です。神は私たちの愛であり、救いであります。しかし、サタンは失敗を好みません。それ故に、サタンは私たちを攻撃し、試すためにありとあらゆる状況、人々、出来事、そして物事を引き起こしているのです。時には私たちの家族を通じて私たちの邪魔をし、時には牧師と長老の広める虚偽を使って私たちを困惑させ、または私たちの家庭に不幸をもたらして災いを引き起こします。これは私たちを全能神から引き離す試みであり、そうすることで私たちを続けて弄び、傷つけようとしているのです。しかし、神の知恵はサタンの策略を基に確立しています。神はサタンが私たちを試すことをお許しになり、それは神が私たちを試しているということでもあります。神はこれらを使って私たちの霊的背丈を成長させてくださると同時に人類を堕落させて飲み尽くすサタンの邪悪な性質を私たちが見抜けるようにしてくださり、そうすることで私たちが心の中でサタンに背き、神に従う私たちの信仰も更に固くなるようにしてくださるのです。これこそが、霊的戦いが神から私たちへの救いであり、愛である理由です!」

   この姉妹の交流を聞いた私は、完全に理解してはいなかったものの、強く心を動かされました。私は自分の人生の中で主の再臨を受け入れることができたこと、そして神に清めていただき、完全にしていただける機会を得ていたことがどれだけ素晴らしい恵みであるかと考えました。今後、どのような状況に直面しても、信仰を持ち続け、サタンの支配下には戻らず、神の側に立ち、神に完全にしていただくことを受け入れると、心の中で誓いました。

娘たちの発病

 

   ある日、私の次女が突然病気になりました。彼女は高熱を出して咳をしていました。最初は薬を少し飲ませておけば大丈夫だろうと思っていたのですが、意外なことに、彼女の咳は夜になる前に悪化していたのです。私はサタンの試練が自分に降りかかってきて、神からも試されていることに気が付いたので、神に不平を言うことができませんでした。しかし、それでも私は少し弱気になってしまいました。私は心配と不安に駆られながらこう考えました。「ああ、神よ!どうして私を病気にしてくださらなかったんですか?私の娘はまだ1歳です。こんな高熱が出ていたら私の娘は重篤にならないでしょうか?このような酷い咳をしていたら肺炎になってしまうのではないでしょうか?私の夫は今ここにいません。何か起こったら私はどうすれば良いのでしょうか?」心配な気持が次から次へと頭の中に押し寄せてきました。丁度その時でした、海外にいる13歳の娘から電話があり、彼女は弱々しい声でこう言ったのです:「お母さん、私病気なの。気分がすごく悪くて、泣きそうだわ……」私の娘たちは同時に病気に罹っていたのです。私は非常に弱気になってしまいました。私は心の中で格闘し続けました:「どうして娘が二人共病気なの?薬は効かないし、一体何が起こっているの?」その時、心の中で僅かに残っていた信仰が崩れ去り、私は涙しながら娘たちを守ってくださらなかったと言って神を非難してしまったのです。

   私の娘たちの状況を知ったジン・ヤン姉妹は、すぐさま私の所にやって来て、娘たちのために祈りを捧げてくれました。彼女は神の御言葉のこの節を私に読んでもくれました。「神は業を行い、人間を慈しみ、見守るが、サタンは常に神の働きの邪魔をする。神が大事にする人間を、サタンも見ていてつけ回す。神がその人間を求めると、サタンは持てる力の全てでどんなことでもして神の行うことを阻もうとし、隠された目的を達成するため、あらゆる邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとする。サタンの目的は何であろうか。サタンは神が人間を得られなくなることを求めている。サタンは神が求める人間を求め、その者を自分のものとして支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせることを求めている。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないか。」(「唯一の神自身 4」より)「神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある──その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

   彼女はこう話しました。「神の御言葉からサタンは神の敵であり、神が働いて救おうとされる全ての人を邪魔して妨害するためにありとあらゆる策を試みるということが分かります。これはその邪悪な性質が決めていることなのです。今あなたの子供たちが病に侵されているのはサタンが私たちを試しているが故のことです。サタンは私たちが自分の子供たちに対して深い愛情を持っていることを知っているので、私たちが傷つきやすい所を攻撃してきているのです。サタンはあなたの子供たちを病気にして、私たちを妨害し、私たちが神を非難し、神への信仰を失い、神から離れ、神に背くように仕向けようとしているのです。これより、サタンがどれだけ卑劣で邪悪であるかということが分かります。姉妹、このような事態に遭遇するのは霊的戦いとの繋がりがあります。これはサタンからの試練なのです。私たちはサタンの策略を見抜いて神の証を立てなければなりません。同時に、これは神からの試練でもあり、神の御前に引き上げられる人全員が通らなければならない道でもあります。試練を通じてのみ、その人の信仰の真偽、そしてその人が太って豊かな実であるのか、それとも実のないもみがらであるのかが明らかにされます。困難な状況を強いられない限り、私たちは誰もが自分たちのことを神に最も献身的で、かつ忠実な人とみなしますが、本当の霊的背丈は試練に直面する中で明らかにされるのです。これにより、私たちは自分の短所と欠陥に気が付き、これを通じて霊的な成長を遂げます。これ故に、神はサタンが私たちを試すことをお許しになるのです。このような働きは私たちにとって非常に有意義なものなのです。姉妹、あなたの子供たちの運命は神の御手の中にあり、彼女たちの病も同じなのです。私たちは子供たちを神に託す必要があり、彼女たちの病がどういう結果になろうとも、神を非難してはならないのです。神の采配に服従してのみ、私たちはサタンを辱め、神を喜ばせることができるのです。」

   私はこう言いました。「姉妹、あなたの交流は、これがサタンによる妨害であること、そしてサタンは私の子供たちの病気を利用して私に神を疑わせ、神に背かせようとしていることに気付かせてくれました。サタンは本当に邪悪です!今日神の御言葉を読んでいなかったら、私は神を非難しながら生き、神に背き、サタンにのみ尽くされていたことでしょう。私は神の御導きに本当に感謝します!」

   ジン・ヤン姉妹は頷きながら嬉しそうにこう言いました:「神に感謝です!これによってあなたの子供たちの肉は苦しみ、私たちの心は悲しい思いをしましたが、このような状況を通じてこそ、私たちはサタンの邪悪で、卑劣な性質を見抜くことができるのです。これは実を得ているということです。姉妹、心配は無用です。あなたの子供たちは神の御手の中にあります。私たちが信仰を持ち続け、神のために前向きに証を立てようとしてさえいれば、サタンは恥じをかいて逃げて行くでしょう。」

   神の御言葉を読み、この姉妹と交流したことで、私はこの状況にどう対応すれば良いのかを理解しました。私は急いで神に祈りました:「ああ、神よ!この姉妹との交流を通じて真理をお伝えてくださり、ありがとうございます。私はサタンの邪悪さと卑劣さを知りました。ああ、神よ!真理を十分に理解していなかった私はサタンに騙されてしまい、あなたを非難する心を持つようになってしまいました。私はあなたに悔い改めます。神よ!あなたは私の子供たちの運命を握っておられます。私はあなたに2人の娘たちを託します。あなたの証を立てられるように、どうか私に力と信仰をお与えください。アーメン!」私はこう祈りを捧げた後、心が大分落ち着きました。

   その夜、急に次女の熱がまた上がりました。最初、私は軽くパニックになりましたが、神に祈って心を落ち着かせることができました。私が彼女に解熱剤をあげると、少し経った後に、彼女の熱は下がりました。その翌日、長女の熱も下がり、彼女の容態も少し改善しました。二人の容態が相次いで改善していくのを見た私は更に厚く神を信仰するようになりました。

   続く。


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(II)

2019-08-12 22:03:52 | 職場の人間関係

   その後、映画の主人公であるシャオイーがこのように語っている場面を観ました。「なぜ中国共産党は全能神教会を人間の組織だと言うの?なぜ受肉された神様には触れないの?『言葉は肉において現れる』のこともそうだ。中国共産党は全能神が表した真理を恐れているからさ。共産党は知ってるんだ。全能神の信者はみな『言葉は肉において現れる』を読んで全能神を受け入れたって。だから全能神教会が人の手によって創られた、人による組織だなんて言いふらすんだ。終わりの日のキリスト・全能神の出現と働きを隠して、この男性に注目を集めようとしてる。人々が神様を信じて従うのを止めさせるものだ。それが本当の目的だよ。事実を捻じ曲げ、神様が働きをなさる教会を人間の組織だと言う。そんなの神様の教会を弾圧するための言い訳さ。中国共産党はとことん狡くて邪悪だよ。」

   その瞬間になってようやく、中共政府がいつも「全能神教会は人間の組織である」と主張する理由がわかりました。これは、中共が全能神教会を抑圧するための口実であり、その悪しき動機が隠されていたのです。映画の抜粋シーンを観た後、リュウさんから3つの聖書の言葉が送られてきました、「そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。」(ヨハネの黙示録13:6)「この時代は邪悪な時代である」(ルカによる福音書11:29)「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙5:19)

   リュウさんはこのように話してくれました。「アダムとエバが神の御心に背いて善悪の知識の木の実を食べたため、人間は堕落してサタンの支配下で生きるようになり、サタンの邪悪な道を歩み、神に抵抗しています。全世界がサタンによって支配されてきたと言えます。ですから、この堕落した人類は、神の働きが到来してもいつも非難し、拒絶し、抵抗しています。主イエスが現れて働かれた時と同じです。この時もユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人がローマ政府と共謀して主イエスを十字架にはりつけにしました。終わりの日には、神の働きを為さって真理を伝えるために出現される全能神は宗教界からも中共からも非難と抵抗を受けられます。しかしサタンがいかに猛威を振るおうと、いかに神の働きを妨害して覆そうと、神の羊たちは皆神の御座の前に戻ります。これは神の権威によって決定されます。噂を流して神を非難し冒涜する人々は永遠に救われないのです。この点は疑いの余地がありません。神が世界を洪水で滅ぼし、ソドムを焼き尽くされた事実や、ユダヤ人がイスラエルから追放され、世界各地に離散した事実から、神の性質が聖く義にして、不可侵であることがわかります。神に抵抗する者は誰しも、神の義なる罰を受けなければなりません。一方、世界から拒絶され、非難されるほど、神の働きが為される可能性は高く、なお一層求めて吟味すべきものであることもわかります。真の道は古くから迫害を受けてきたためです。」刘さんの話はあまりにも反論の余地がなかったため、私は完全に納得しました。

   それからリュウさんは、『いのちの入りについての説教と交わり』の次の一節を送ってくれました、「真の道を吟味する際、特にウィキペディアに頼る人々がいます。彼らは『ウィキペディアに書かれていることは正確だ!』と言いますが、よく考えてみてください。ウィキペディアとは何でしょうか。この世のものに過ぎません。堕落した人間に書かれていないでしょうか。サタンの悪の力の一部ではありませんか。そこには真理があるでしょうか。そこに真理はありません。神に仕えるものではなく、神を畏れることは決してなく、神に証しされたグループではありません。どうしてそれを信じるのですか。嘘だらけのサイトです。嘘を広めています。サタンの政府が捏造する噂や嘘なら何でも、ウィキペディアは広めています。従って、嘘を広める組織ではありませんか。中国共産党が捏造する噂なら何でも、彼らが全能神教会の信用を傷つける手段なら何でも、ウィキペディアに掲載されます。つまり、ウィキペディアはサタンが嘘を広める道具で、サタンが人を欺く道具ではないでしょうか。それなのにどうして人々は真の道を調べるときウィキペディアを信じるのでしょう。この人々は何を血迷っているのか。この世が義であり公正であると信じているのでしょうか。政府や宗教界が『これが真の道だ』、『これが真の神だ』といった意見や主張を述べれば、この人々はその道と、その神を信じるでしょう。政府や宗教界が『これは真の道ではない』とか、『この神は本物ではない』と言えば、この人々はその道もその神も信じないでしょう。彼らは誰を信じるのかと言うと、政府を信じ、宗教界の言葉、宗教界の牧師や長老の言葉を信じています。ではこのような人は本当に神を信じているのでしょうか。彼らは神を信じていません。真理を認識しないため、神を信頼せず、神が本物であると信じず、神が真理であることを認めません。それ故に、そのような人が真の道を分析しようとすれば、サタンの嘘や噂を耳にするなり麻痺してしまうでしょう。この人は知的でしょうか。いいえ、違います。混乱しているのです。私の神への信仰には一つの原則があります。もし神であるならば、真理を伝え、人間を救うことができるはずです。それができれば私は信じます。私の神への信仰は揺らぎません。私たちが神を信じるのは真理を頂くためではないでしょうか。真理を得ることは、神を得ることです。真理を得なければ、あなたの信仰は失敗であり、何の役にも立ちません。真理を得て初めて、神を得ることができます。真理を得ずに、神を得ることはできません。」

   この話の一節を読んだ後、私は何だか恥ずかしくなりました。どの言葉も自分に向けられていたように感じて、こう思いました。「そうだ、ウィキペディアはこの世のものであり、その内容も堕落した人類によって書かれている。彼らは神を知らず、真理を持たず、神によって証しされた集団ではない。彼らが広めているものはあまりにも不純物だらけじゃないか。神への信仰と真の道の吟味において、俺はこの道に真理があるかどうかを確かめるべきだ。神のみが真理であり、道であり、いのちであり、神の働きのみが真理の表現なのだから。以前の私は、全能神の御言葉が真理であることは理解していたが、未だに中国共産党の噂や、権威があるとされるサイトに支配されていて、全能神の働きを吟味しようとしなかった。本当に愚かだった。中国共産党は全能神教会についての噂をたくさん捏造してきたし、ネットのプラットフォームは見境なく無分別にそれらを公開し、あちこちに転載している。それらが人々に及ぼす害は深刻だ。幸いにも、神が兄弟姉妹を通じて私を助け、導いてくださったおかげで私は惑わされていない。そうでなければ、主の再臨を迎えるチャンスを逃していただろうな。」

   私はリュウさんに尋ねました。「どうして神はこれらの噂が存在し、ネット上に溢れ、神の信仰者を欺いて害を及ぼすのを赦しておられるのでしょう。」

   リュウさんは、私が読むために神の御言葉の一節を送ってくれました。神の御言葉にはこうあります。「大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている『脱穀場』だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの『悪い者』が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。」

   リュウさんはこのように話してくれました。「全能神の御言葉から、神が働かれる間にこれらの噂の存在を許されているのは神のご厚意と知恵によることが分かります。神の国の時代の働きは、神の人類救済のための経営計画を完了させるためのものです。神は、神を心から信じている人々の集団を神の国に招き入れ、偽の信仰者や空腹を満たすためにパンを求めるだけの人々を暴き、排除されます。主の信仰者は数多くいます。真の信仰者か偽の信仰者であるか、毒麦か麦であるかはどのように証明できるでしょうか。これらの噂は、神が人々を暴く働きを為さる道具の役割を果たしてきました。これは、神の知恵と全能性を十分に示しています。ある人が真の信仰者か否か、麦か否かは、この噂の嵐の中で暴かれるでしょう。これは脱穀場をきれいにするという神の働きであり、神の終わりの日の働きを受けた人は皆、この試験に合格しなければなりません。ここから、神の働きはまさに本物であり、非常に実際的で賢いことがわかります。終いには、完全に確信させる、神の義を称えるようになります。」

   神の御言葉を読み、兄弟の話に耳を傾けたところ、私は急に目が覚めて、神への感謝の気持ちがこみ上げ、自分のそれまでの歩みを思い出しました。絶望のふちに沈んでいた私を困難から救い出し、希望に満ちた米国という地に足を踏み入れるチャンスを与えてくださったのは神でした。そうして私は真のキリスト教徒になり、自由に神を崇拝しています。神の終わりの日の働きが私のもとに到来したとき、ウィキペディアの記事を盲目的に信じたためにサタンの噂の犠牲になるところでしたが、神が慈悲と恵みをかけ、兄弟姉妹を通じて思い出させてくださったおかげで、神の働きを求め、吟味して、救いのチャンスを掴むことができました。今では毎日神の御言葉を読み、神の働きを経験しています。兄弟姉妹と協力して神の国の福音を広めています。神の国の福音を広めるという本分を尽くすことができ、大変光栄に思います。神に感謝します。全能神にすべての栄光あれ。


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私 ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

2019-08-11 22:55:46 | 霊的戦い

   【編集者注記】今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

   高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

   2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

   2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、リュウさんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。

   アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。

   その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ネジみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。リュウさんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時期、リュウさんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「リュウさん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

   このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。そこで、昔通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

   その後、ネット上でリュウさんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「リュウさん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

 

   

   それを聞いたリュウさんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹のシャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

   「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

   全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。