記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

2008年09月09日 18時04分53秒 | Weblog
京の町では朝早くにお坊さんたちが列をなし唱詠しながら往く。その声で目が覚めると京都だなと想う。何を唱えているのかは分からない。
これは般若心経の末尾にある唱文だが、もしかしたらこれだろうか。振り仮名を何度も読んだが、一向に覚えられない。いろいろな解説を読んだが、どういう意味かいまだによく分からない。
親鸞の血統で思慮も造詣も深い友人に尋ねたら「言葉の意味は分からなくて良い」と。

最近ようやく知ったのは、般若心経の心とは圧縮した精髄の意だと。そして、更にその精髄が最後にあるこの一行だと。
唱えるための呪文だからパーリ語から漢訳した際にこの部分だけは音のまま漢字にし、日本ではその漢字を音読するのだと。
英語に訳したのでは
Gone, Gone, Gone beyond, Gone thoroughly beyond, O what an awaking blessing.
があり、この方がずっと分かった気になるのは起源が同じ語族だからだろうか。

般若心経の原典・起源は諸説あり、そもそもこれは経典でなく、全体が唱えるための呪文だとか。
「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」のように一息で唱えるのが呪文だと思っている者には納得しかね、出来ることなら全体で何を言っているかを知りたいと思うが、「受・想・行・識、・・・」など沢山の見慣れない概念があって、その体系までは学ぶ気になれない。

「色即是空」は誰でも知っていて、これが般若心経の精髄だと。
子供のころは、色は色彩の意ではないらしい、色事の色で、男女のトラブルは空しいという意味らしい、と思い込んでいた。その刷り込みが今も正しい理解を妨げているようである。
色は「いろいろな物」「いろいろ有る」の「いろいろ」だと理解するのが良いのではないか。
平面の区画を色分けするために最低限何色必要かという問題はよく知られている。視覚が空間を図と地に切り出し、そこにあるものの様相を捉えるとき、沢山のものの違いを捉えるために色彩は最も有効である。

「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という誰でも知っている最初の一行こそが般若心経を最も圧縮した呪文だと解釈すれば、修行と諦観に縁遠い我々にも考え易いような気がする。

点を結ぶ線は描いてないが、複数の振り子運動の連鎖で生体が運動しているように見えるアニメがある。「バイオロジカル・モーション」と呼ばれるものの一つである。
「歩く人」という題のパソコン画面で動作するデモを接写し、YouTubeにアップロードしたので見てください。URLは

   http://jp.youtube.com/watch?v=zsnvig70HnU

です。

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