記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

飛鳥・奈良時代の女帝たち

2009年10月02日 12時16分15秒 | Weblog
1 書店で立ち読みしたら、日本書紀は乗っ取りに成功した社長が書かせた社史のようなものだと説いている本があった。
天智天皇の死(671年)と天武天皇の即位(673年)の間、皇位は空白だとされているが、実際には大友皇子が即位していた筈だ、と。
皇位継承を争って勝った大海人皇子が天武天皇になったのでなく、既に継承し即位している天皇を殺し、その即位が無かったことにしたのだ、と。
壬申の乱を先に仕掛けたのは大友皇子で、皇子は自害し、乱は天皇に対する謀反とは違うということになった。
やがて、皇位継承を争った壬申の乱すら無かったかのように歴史が書き換えられてきた、と。

2 壬申の乱については高校で詳しく教えてもらい、興味を持って学んだつもりだったか、随分忘れてしまったらしい。
どっちが先に仕掛けたのか。大友皇子の即位はあったのか。
どうでも良いようなことかも知れないが、最近になって明らかにされるようになったことも多いのではないだろうか。
Wikipediaで検索したら、大友皇子は明治3年に弘文天皇という諡号で皇統に加えられている。
また、東国に逃げ延びたという俗説があり、神奈川県伊勢原市に墓がある、とか。

3 皇室典範を改定しようとなったとき、選ばれた委員達は「万世一系、男系の男子だけが天皇になる」という伝統を曲げてはならないと主張し、結局うやむやの内に改訂の話は飛んでしまった。
皇統は何度も途絶えたし、謀反や不倫は何度も起きたし、女性の天皇が現に有ったことは誰でも知っているのに、何故無理な議論が通るのか。
おかしなことだった思う。
女性天皇反対論を批判していて、立ち読みしたら面白そうだった本が有る。
持ち合わせが無くて買わないまま忘れていたが、買い求めて読んでみた。
集英社の新書で「日本の女帝の物語」、橋本治著、2009年。
飛鳥・奈良時代の6人の女帝:推古、皇極(=斉明)、持統、元明、元正、孝謙(=称徳)の6天皇についてである。
詳しい系図が沢山あり、軽い語り口が気になり、途中から飽きたりしたが、なんとか一応読み通した。
6人はそれぞれに個性があり、中継ぎのための天皇であったかのように見なすのは間違いだ、と言う。
「双調平家物語」という長い小説を書いていて、そこからスピンオフした本だと後書きで述べている。

4 この6人の女性天皇たちは皆、天皇の娘か孫であり、最後の孝謙天皇を別として天皇の后になり、天皇の母になっている。
後の院政とは対照的である。
今日では考えられない近親結婚でこそ可能だが、それより驚くのは皇子たちに優るとも劣らない覇権志向である。
高校で日本史や古文の授業時間に教わったことだが、大和朝廷は百済を応援して朝鮮半島に派兵し、白村江の戦いで大敗している。
そのとき、斉明天皇、持統天皇、額田王など、天皇家の多くの女性が軍船に乗って博多へ行き前線基地を作っている。
万葉集の、そんな関連の歌も教わったが、よく分かっていなかったのだと、今になって思う。
その本には「あまりに現代的な古代の六人の女帝達」という副題が付いているが、現代の女権運動あるいはフェミニズムまたは男女共同参画主義の女性像とは全く異質なものがあるように思われる。

5 結局、飛鳥・奈良はどういう時代だったのか、何か割り切れないものが残る。
厩戸皇子は推古天皇の摂政になったままで、何故天皇にはならなかったのか。
子供の頃からの疑問だが、これを読んでも解けない。
聖徳太子はいなかったという説を立てても、強ち無茶苦茶と言えない程度の資料と推論で成り立っている歴史なのだろうか。
われわれも勝手に推論するなら、日本の古代はずっと女系だったが、飛鳥・奈良の時代になって男が少しずつ力をつけはじめたというのが実情だったのではないか。
その歴史を、もっと早くから男系で有ったかのように書き換えてしまったのでは無かろうか、と。

最新の画像もっと見る