竹内薫(著) 2005 アバウト アインシュタイン:アインシュタインをめぐる70のミステリー (秀和システム)
これは見開き2頁毎にタイトルが付けられ、大きな挿絵があって特に読み易く、分かり易い。
大人のための絵本という感じ。
たとえば・・・
Q24:宇宙の中で「本当に止まっている」ものってあるんだろうか。
A:ありません。
Q28:光速で走りながら鏡を見たら、顔は消えてしまうのだろうか。
A:光はどんな運動状態で測定しても光速のままなので、静止して見えることは有りません。
この本の最も肝心な部分は
Q27:相対性理論のおおまかな枠組み。
A:光の速度は一定らしいことがわかってきました。そこでアインシュタインは、次の2つの前提から出発することにしたのです。
1 相対性原理
2 光速度一定の原理
アインシュタインは、エーテルという絶対基準の存在を否定し、それを「光速は一定」という原理に代えたのだ、と。
ニュートリノの速度を測ったら光速を超える値を得たというニュースが有り、この本が改めて関心を呼んでいる所以。
われわれが直観できる範囲では、「光速は速度が無限大だ」というに等しい。
無限大より少し大きい無限大は意味がない。
光速を超える速度が無いということは、そんな風に捉えられる。
日常の世界では、時間と空間とは独立した概念であって、独立に測定された測定値の間で四則演算が認められ、速度が算出される。
従来の測定理論は、その認識のままに時間と距離の測度は基本的尺度で、速度は派生的尺度だとしてきたが、20世紀初頭のゲシュタルト心理学は仮現運動の実験的研究から「速度こそ基本的だ」としている。
測定理論は、そのことを知らないでか、どうか、無視してきた。
ようやく、光速の運動が生じている世界では、時間・空間は混沌としていて、時間と距離の単純な四則演算は通用しないことが広く知られるようになったと言って良さそう。
奇跡の年から100年を経て、エーテルが無くなった真空の宇宙を、実はダーク・マターやダーク・エネルギーが満たしていることが知られるようになり、物理学は更に大きなパラダイム・シフトを迎えている。
こうなると、別に新しい天才の出現が期待されるが、今度は天才一人ぐらいでは足りないかも知れない。
それはそれとして、俗に「天才と狂気は紙一重」という。
伝記は得てして天才がどのように精神を病んでいたか、病理学的な記述をすることが少なくない。
それは伝記ライターの劣等感の所為だと見做されるのが落ちだが、更に劣等な読者としては気になることを隠せない。
相対性理論は最初の妻ミレーヴァに負うところが大きく、病の息子の世話を妻に任せたままで離婚になり、以後アインシュタインは何も業績を挙げていない、とか。
こうした俗説に対して本書は至って公平で、アインシュタインを貶めるような俗説は退けている。
死後に私的な書簡なども公開され、幾つか新らたな伝記が刊行されているようである。
翻訳されて有名なのは
アイザックソンによる「アインシュタイン その生涯と宇宙」の上下2巻。
下巻は機械翻訳のまま刊行したとか。文章が意味不明だと悪評。
今でも機械翻訳はそんなに低能なのだろうか。
編集して再刊したものも段落間の繋がりが悪いとかの酷評。
編集人の知恵が加わることで歪められているのではないだろうか。
伝記に何かを期待する方が間違いなのだろう。
これは見開き2頁毎にタイトルが付けられ、大きな挿絵があって特に読み易く、分かり易い。
大人のための絵本という感じ。
たとえば・・・
Q24:宇宙の中で「本当に止まっている」ものってあるんだろうか。
A:ありません。
Q28:光速で走りながら鏡を見たら、顔は消えてしまうのだろうか。
A:光はどんな運動状態で測定しても光速のままなので、静止して見えることは有りません。
この本の最も肝心な部分は
Q27:相対性理論のおおまかな枠組み。
A:光の速度は一定らしいことがわかってきました。そこでアインシュタインは、次の2つの前提から出発することにしたのです。
1 相対性原理
2 光速度一定の原理
アインシュタインは、エーテルという絶対基準の存在を否定し、それを「光速は一定」という原理に代えたのだ、と。
ニュートリノの速度を測ったら光速を超える値を得たというニュースが有り、この本が改めて関心を呼んでいる所以。
われわれが直観できる範囲では、「光速は速度が無限大だ」というに等しい。
無限大より少し大きい無限大は意味がない。
光速を超える速度が無いということは、そんな風に捉えられる。
日常の世界では、時間と空間とは独立した概念であって、独立に測定された測定値の間で四則演算が認められ、速度が算出される。
従来の測定理論は、その認識のままに時間と距離の測度は基本的尺度で、速度は派生的尺度だとしてきたが、20世紀初頭のゲシュタルト心理学は仮現運動の実験的研究から「速度こそ基本的だ」としている。
測定理論は、そのことを知らないでか、どうか、無視してきた。
ようやく、光速の運動が生じている世界では、時間・空間は混沌としていて、時間と距離の単純な四則演算は通用しないことが広く知られるようになったと言って良さそう。
奇跡の年から100年を経て、エーテルが無くなった真空の宇宙を、実はダーク・マターやダーク・エネルギーが満たしていることが知られるようになり、物理学は更に大きなパラダイム・シフトを迎えている。
こうなると、別に新しい天才の出現が期待されるが、今度は天才一人ぐらいでは足りないかも知れない。
それはそれとして、俗に「天才と狂気は紙一重」という。
伝記は得てして天才がどのように精神を病んでいたか、病理学的な記述をすることが少なくない。
それは伝記ライターの劣等感の所為だと見做されるのが落ちだが、更に劣等な読者としては気になることを隠せない。
相対性理論は最初の妻ミレーヴァに負うところが大きく、病の息子の世話を妻に任せたままで離婚になり、以後アインシュタインは何も業績を挙げていない、とか。
こうした俗説に対して本書は至って公平で、アインシュタインを貶めるような俗説は退けている。
死後に私的な書簡なども公開され、幾つか新らたな伝記が刊行されているようである。
翻訳されて有名なのは
アイザックソンによる「アインシュタイン その生涯と宇宙」の上下2巻。
下巻は機械翻訳のまま刊行したとか。文章が意味不明だと悪評。
今でも機械翻訳はそんなに低能なのだろうか。
編集して再刊したものも段落間の繋がりが悪いとかの酷評。
編集人の知恵が加わることで歪められているのではないだろうか。
伝記に何かを期待する方が間違いなのだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます