最近こうしたテーマの本や雑誌あるいは番組が目につきます。
あれこれ拾い読みしメモをしましたが、ひとまず反芻してみました。
ブームの引き金はCERNのLHCでヒッグス粒子が発見されて科学への一般の関心が高まったことがあるかも知れません。
ヒッグス粒子そのものはテーマに直接関係ないようです。
しかし加速器の中で小さなビッグバンがたくさん生成し消滅すると考えられようになり、宇宙誕生期の過程に類似するとして関心を呼んでいるのではないかと思われます。
子どもの頃から「宇宙の果て」がどうなっているか、不可思議でした。
西遊記に、孫悟空が觔斗雲に乗って世界の果てを目指して飛び5本の柱を見つけて到着の徴を書き残して帰ると、それが観音の指であったと諭される話があります。彼はどうしてその先へ行こうとしなかったのか、勿体ないことをしたものだと思ったものです。
宇宙の果ては、もしそこが固い壁であれば更に穴を掘って進んだらどうだろう、また空間へ出たなら更に進むとかして、もしかして元へ戻ったりするのだろうか、などと空想しました。
人類が見つけた一番遠い銀河は孫悟空が見つけた5本の柱のようなもので、宇宙の果てではなさそうです。その先に何も見えないことは共通しています。
観音は一瞬にして掌を巨大化したのか、あるいは悟空を縮めたのか。それも今日の宇宙問題に通じるものがあるようです。
相対性理論によれば宇宙の遠くに観測されるのは現在の事象でなく遠い過去の姿ですが、そこに何も見えないということが何を意味するか、一番の難問です。
膨張している宇宙の過去へ遡ると宇宙はどんどん縮み、最後は大きさが0にまで潰れることになります。そのとき、超新星がそうであったように、宇宙の物質密度と温度は無限大になります。
無限小の大きさのところに無限大の密度が含まれるのはブラックホールの奥底にも似ています。
相対性理論では説明できない部分を量子力学ならどのように解明できるのか。
かつて「進歩の終焉」というようなことが科学と技術のいろいろな領域について言われ、革命的発見は20世紀の初頭になされ、後はその延長でしかないような議論が行われたこともありました。
実際には20世紀の後期に重要な進歩が有り、その結果として相対性理論や量子力学に対する理解が深まり、ようやく学校教育で学ばなかったわれわれにも馴染みやすいものになってきたと思います。
最近、21世紀が20世紀と違うらしいことを感じるようになりましたが、この宇宙がどのように誕生したのかという問題への取り組みは21世紀のランドマークになるのではないでしょうか。
手品師が何もない空間からハトを取り出せば観客はビックリして手を叩きます。
「無からはいかなる有も生まれない」というのが従来最も堅固な仮説でした。
仮説があるからこそ、さまざまな計算が可能になり、予測が行われ、実験と検証が成果を上げてきました。
こうした仮説を否定することには大きな驚きと抵抗がありますが、一旦納得できれば新しい発展が興ります。
われわれのこの宇宙が「無」から生じたと聞けば、改めて「無」とは何だと考えます。
信仰はなくても仏教が説く「無」について兎角考えた経験は誰でもあるでしょう。
しかし物理学が説く「無」は宗教の「無」と違って誰にでも通じる一定の定義が必要です。
宇宙を生成した「無」には時間も空間もなかった、というのが最低限の定義ではないかと思われます。
時間も空間もないところから、どのようにして時間と空間が生じ、宇宙が現れ、今日の状態にまで進化したのか。そして、この後どうなるか。
クラウスの「宇宙が始まる前には何があったのか?」(訳:青木 文芸春秋 2013)は、われわれの知りたいこと、疑問に思っていることにちょうど応えてくれて面白い本でした。
そしてまた新しい疑問も持たせてくれます。
原題はA Universe from Nothing.
これをキイワードにしてネットで検索すると、例えば
http://www.youtube.com/watch?v=vwzbU0bGOdc
などYouTubeのサイトが沢山ヒットします。
この本がアメリカでベストセラーになったのは「神の一撃」を信じたり進化論を拒否したりする形而上学的あるいは宗教的背景が有ったからかも知れません。
「初めに神があった」という考え方を墨守する人々を論破する語り口は、そうした背景を持たないわれわれにも鮮やかに感じられます。
クラウスは空っぽの空間がエネルギーを持つことを最初に提唱した研究者の一人です。
量子の世界の時空では、マクロの世界における時間と空間では考えられないことも起こります。
時間が逆行するような現象はその例です。
電子が異なる軌道レベルの間で突然ジャンプすることが知られていますが、ある軌道から消える直前に他の軌道に現れるということのようです。
運動する物質がなく極低温で空っぽの空間であってもエネルギーがあり、そこから仮想的な粒子と反粒子のペアが沸騰する泡のように現れ、消えます。
そこがブラックホールの縁であれば、ペアの中には片方が奈落の底に落ちて消え、他方は事象の地平線の此方側に出て現実の粒子になる可能性も有ります。
ニュートン別冊「宇宙、無からの創生」(ニュートンプレス 2014)では、宇宙が誕生する瞬間に関する仮説の一つとして、この真空から極々小さな宇宙の卵が沢山生まれ、その中から凄まじい勢いで膨張するものが現れ、それがわれわれの宇宙になったと云う説を紹介しています。
宇宙誕生から10^(-43)秒間はプランク時代と呼ばれていますが、まだ超ひも理論による研究を待っている段階のようです。
その後の10^(-36)~10^(-34)秒が急膨張するインフレーション期です。
その膨張速度はビッグバン期の比ではなく、喩えるならウイルスが一瞬にして天の川銀河より大きくなるようなものだとか。
いろいろ面白い仮説ばかりですが、疑問に残るのは現在の宇宙は加速度的に膨張しており、やがて膨張速度が光速を超えることです。
物質の運動速度は光速を超えることが有り得ないのに、空間の膨張速度にはその制限が課されないのはどうしてか。
愚考するに、宇宙の膨張速度が光速を超えるとき、少なくともその宇宙の中では時空の定義は通用しなくなる、言い換えればそこは時間も空間も無い「無」の世界になる。
超高速で膨張したインフレーション時代も、宇宙の誕生が始まる前と同じように時空が定義できない世界だったのではないか。
因みに初期宇宙の時間は虚数時間だったという説があるようです。
それはそれで興味深いのですが、感覚的にとらえられるものだけが実数だという根拠はないのであって、われわれの現在の時間こそ虚数時間かも知れません。
あるいは、この実世界の時間は元々複素時間なのだと考えた方が都合好いのではないでしょうか。
あれこれ拾い読みしメモをしましたが、ひとまず反芻してみました。
ブームの引き金はCERNのLHCでヒッグス粒子が発見されて科学への一般の関心が高まったことがあるかも知れません。
ヒッグス粒子そのものはテーマに直接関係ないようです。
しかし加速器の中で小さなビッグバンがたくさん生成し消滅すると考えられようになり、宇宙誕生期の過程に類似するとして関心を呼んでいるのではないかと思われます。
子どもの頃から「宇宙の果て」がどうなっているか、不可思議でした。
西遊記に、孫悟空が觔斗雲に乗って世界の果てを目指して飛び5本の柱を見つけて到着の徴を書き残して帰ると、それが観音の指であったと諭される話があります。彼はどうしてその先へ行こうとしなかったのか、勿体ないことをしたものだと思ったものです。
宇宙の果ては、もしそこが固い壁であれば更に穴を掘って進んだらどうだろう、また空間へ出たなら更に進むとかして、もしかして元へ戻ったりするのだろうか、などと空想しました。
人類が見つけた一番遠い銀河は孫悟空が見つけた5本の柱のようなもので、宇宙の果てではなさそうです。その先に何も見えないことは共通しています。
観音は一瞬にして掌を巨大化したのか、あるいは悟空を縮めたのか。それも今日の宇宙問題に通じるものがあるようです。
相対性理論によれば宇宙の遠くに観測されるのは現在の事象でなく遠い過去の姿ですが、そこに何も見えないということが何を意味するか、一番の難問です。
膨張している宇宙の過去へ遡ると宇宙はどんどん縮み、最後は大きさが0にまで潰れることになります。そのとき、超新星がそうであったように、宇宙の物質密度と温度は無限大になります。
無限小の大きさのところに無限大の密度が含まれるのはブラックホールの奥底にも似ています。
相対性理論では説明できない部分を量子力学ならどのように解明できるのか。
かつて「進歩の終焉」というようなことが科学と技術のいろいろな領域について言われ、革命的発見は20世紀の初頭になされ、後はその延長でしかないような議論が行われたこともありました。
実際には20世紀の後期に重要な進歩が有り、その結果として相対性理論や量子力学に対する理解が深まり、ようやく学校教育で学ばなかったわれわれにも馴染みやすいものになってきたと思います。
最近、21世紀が20世紀と違うらしいことを感じるようになりましたが、この宇宙がどのように誕生したのかという問題への取り組みは21世紀のランドマークになるのではないでしょうか。
手品師が何もない空間からハトを取り出せば観客はビックリして手を叩きます。
「無からはいかなる有も生まれない」というのが従来最も堅固な仮説でした。
仮説があるからこそ、さまざまな計算が可能になり、予測が行われ、実験と検証が成果を上げてきました。
こうした仮説を否定することには大きな驚きと抵抗がありますが、一旦納得できれば新しい発展が興ります。
われわれのこの宇宙が「無」から生じたと聞けば、改めて「無」とは何だと考えます。
信仰はなくても仏教が説く「無」について兎角考えた経験は誰でもあるでしょう。
しかし物理学が説く「無」は宗教の「無」と違って誰にでも通じる一定の定義が必要です。
宇宙を生成した「無」には時間も空間もなかった、というのが最低限の定義ではないかと思われます。
時間も空間もないところから、どのようにして時間と空間が生じ、宇宙が現れ、今日の状態にまで進化したのか。そして、この後どうなるか。
クラウスの「宇宙が始まる前には何があったのか?」(訳:青木 文芸春秋 2013)は、われわれの知りたいこと、疑問に思っていることにちょうど応えてくれて面白い本でした。
そしてまた新しい疑問も持たせてくれます。
原題はA Universe from Nothing.
これをキイワードにしてネットで検索すると、例えば
http://www.youtube.com/watch?v=vwzbU0bGOdc
などYouTubeのサイトが沢山ヒットします。
この本がアメリカでベストセラーになったのは「神の一撃」を信じたり進化論を拒否したりする形而上学的あるいは宗教的背景が有ったからかも知れません。
「初めに神があった」という考え方を墨守する人々を論破する語り口は、そうした背景を持たないわれわれにも鮮やかに感じられます。
クラウスは空っぽの空間がエネルギーを持つことを最初に提唱した研究者の一人です。
量子の世界の時空では、マクロの世界における時間と空間では考えられないことも起こります。
時間が逆行するような現象はその例です。
電子が異なる軌道レベルの間で突然ジャンプすることが知られていますが、ある軌道から消える直前に他の軌道に現れるということのようです。
運動する物質がなく極低温で空っぽの空間であってもエネルギーがあり、そこから仮想的な粒子と反粒子のペアが沸騰する泡のように現れ、消えます。
そこがブラックホールの縁であれば、ペアの中には片方が奈落の底に落ちて消え、他方は事象の地平線の此方側に出て現実の粒子になる可能性も有ります。
ニュートン別冊「宇宙、無からの創生」(ニュートンプレス 2014)では、宇宙が誕生する瞬間に関する仮説の一つとして、この真空から極々小さな宇宙の卵が沢山生まれ、その中から凄まじい勢いで膨張するものが現れ、それがわれわれの宇宙になったと云う説を紹介しています。
宇宙誕生から10^(-43)秒間はプランク時代と呼ばれていますが、まだ超ひも理論による研究を待っている段階のようです。
その後の10^(-36)~10^(-34)秒が急膨張するインフレーション期です。
その膨張速度はビッグバン期の比ではなく、喩えるならウイルスが一瞬にして天の川銀河より大きくなるようなものだとか。
いろいろ面白い仮説ばかりですが、疑問に残るのは現在の宇宙は加速度的に膨張しており、やがて膨張速度が光速を超えることです。
物質の運動速度は光速を超えることが有り得ないのに、空間の膨張速度にはその制限が課されないのはどうしてか。
愚考するに、宇宙の膨張速度が光速を超えるとき、少なくともその宇宙の中では時空の定義は通用しなくなる、言い換えればそこは時間も空間も無い「無」の世界になる。
超高速で膨張したインフレーション時代も、宇宙の誕生が始まる前と同じように時空が定義できない世界だったのではないか。
因みに初期宇宙の時間は虚数時間だったという説があるようです。
それはそれで興味深いのですが、感覚的にとらえられるものだけが実数だという根拠はないのであって、われわれの現在の時間こそ虚数時間かも知れません。
あるいは、この実世界の時間は元々複素時間なのだと考えた方が都合好いのではないでしょうか。