記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

長じて呆けない条件

2007年10月19日 15時22分51秒 | Weblog
日本画の老大家がご飯を食べないで飲んだという酒の銘柄を見かけたが、裏話では水で何倍にも薄めて呑んでいた、と。ストレスを抑え食事の間も惜しんで描くことに専念したことが、長じても大作を残した秘訣だったかもしれない。
大学を退官して直ぐに呆けて奇行が知られた先生もあるが、政治家に転身して更に頭脳の冴えが伝えられた先生もある。
門下生たちが尊敬する先生のために尽くすのに任せていて、いきなり周囲の崇拝者がいなくなれば呆けもするだろう。
反対に政治家はマスコミからよく悪口を言われるが、人をよく憶えていて現役を退いても面倒見がよいという例は少なくない。
知能の起源は生物が家族や群れをつくることにあり、人とかかわらなくなれば知能は不要になる。
昔は隠居したら書物が友になるというが、今はテレビの中に沢山の人が登場する。最近テレビのドラマを見ていて誰が誰だったか分からなくなり心細くて思うのかもしれないが、登場人物の顔をよく識別し、関心を持って話の展開を捉えられるかどうか、それがボケ具合を推測する身近な目安になりそうである。

指をよく使う人がボケないならピアニストやパソコンのキーボードを早打ちする人はボケないことになる。
ピアニストの指使いにはいつも驚かされる。しかし過酷な習練のためだろうか、音楽家には変わった人が多く、早くから退行した人も少なくないようである。もしかしたら、指の巧みさより、音をよく聴き分ける人が呆けないということがあるかも知れない。
パソコン歴こそ長いが、ついに早打ちできないまま一生を終わるものの僻みではないと思うが、大概の場合に多くの人はマウスを滑らせて時々クリックするだけ済む。近い将来にはマウスも要らなくなりそうである。
コンピュータは知能の一部を代行してくれて、人工知能への依存が益々大きくなるだろうということは否定できない。しかし器具としてのそれが自然知能の減退を遅らせるために貢献するとは期待できそうにない。

脳と神経は使っていれば機能が衰えないと言うが、ただ使っていれば良いとは俄かに信じられない。老人ホームでひたすら単純な計算練習を反復させているTVの映像を見たことがあるが、あのような被験者になるのは勘弁してもらいたいと思ったものである。
兎角、老人ホームは幼稚園のように飾り立て、担当者は優しく幼児語を使って誘いかける。それを嫌がっているだけなのに、計算の成績を0とカウントして済ませていて、理論の実証性を疑わせるに十分だった。
若い被験者に課題を与え脳磁図を記録する実験に立ち会ったことがある。実験室から出てきた被験者は顔を真っ赤にして汗をかいている人も有り、涼しい顔で出てきた人もある。
同じだけ課題をこなしても使用する脳部位の広さや時間は人によって異なる。課題の成績と脳の活動部位や活動量との対応付けの難しさは画像で見るデモでは伺えない。

指先をいつも器用に使っていたり、あるいは計算していたりしても、それだけで脳の活動が盛んだとは限らないし、盛んならそれで良いとも言えない。大事なのはどれだけ沢山の脳を動員するかではないだろうか。
身体はいつも何処か少し故障していて不思議でない。偶々、脳の一部が円滑に機能していなくても、沢山の細胞が同時に働いていて、遅れをとっている細胞の活動をカバーしいてくれるだろう。
より沢山の細胞を動員する脳は「度忘れ」が少なく、「回転が速い」。どれだけ沢山動員するかは簡単に測れないし、生まれつきで決まっているのか、乳幼児期の体験によるものかも分からない。しかし手遅れだと決まったわけでもない。
絵の好きな人なら画家でなくても一瞥で情景から沢山のことを読み取り憶えている。画家はそれをカンバスに移しているだけだとも言えるだろう。過去の出来事の後先を辿って次々に思い出す人がある。理路整然と話が出来るための条件である。付け焼刃で真似できることでないが、そうしたことが沢山の脳を働かせるということだと思う。

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