記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

「零の発見」と「空」あるいは「無」

2009年08月05日 14時05分11秒 | Weblog
いつ、何がきっかけで読んだか憶えていないが、
吉田洋一の「零の発見―数学の生いたちー」(岩波新書)
は大変面白い本だった。

目次では「零の発見」の章に「―アラビア数字の由来-」という副題が付いている。
初版は昭和14年。改版が昭和31年。再改版は昭和53年。

最初にいろいろな記数法を紹介し、p20に
「かくて零の発見、単なる記号としてばかりでなく、数としての零の認識、つづいては、この新しい零という「数」を用いてする計算法の発明、これらの事業を成就するためには、けっきょくインド人の天才にまたなければならなかったのであった。」とある。

そしてp24~25に
「ギリシア時代に零が発見されなかったのはなぜであるか、・・・、とくにインドにおいて零の概念の発達を見たのはなぜであるか、・・・明快な答えを期待しうべくもないことは最初から明らかであろう。なかには、これを「空」というようなインドの哲学思想と結びつけて考えようとしている人もないではないが、これは、はたして、いかがなものであろうか。
「それよりも、問題の本質はもっと技術的な方面から眺めて初めて明らかになってくるのではなかろうか。」と。

改めてページを捲って、この本の一番の意義は「零が数である」という常識的なことの意味を明晰に述べていることだと思う。
われわれも古代インドの空の思想が零の概念の起源かどうかには特に関心無い。

しかし、古代の空の思想との関係は兎も角として、逆に零の概念を通して空間とか、無とかについての素朴な問いかけをしたいとは思う。
今日の数学にとって「空間」の概念は最も基本的であり、空間の中で零がどのように位置づけられるかをイメージしないで零の概念を捉えることは出来ない。

零の発見が物理学やその他の科学の発展に不可欠だったことは数記法や計算法の面から強調するのは当を得ていると思うが、拡がりの有る空間や、例えばその始点としての無の意味を明らかにすることは、既に数学の問題というより、今日の科学自身の問題でもある。

われわれの祖先たちは、宇宙あるいは世界の始まりを「混沌とした無の空間」だという神話を述べている。
しかし空間に何もない状況でも、空間それ自体は有るのか。それをどのようにイメージしたら良いのか。それがわれわれの素朴な疑問である。

それは、嘗ては哲学や宗教の問題だったようだが、現在は科学にとっての第一の問題だと思う。
実験的に解明できる性質の問題ではないかも知れない。
それでも科学的に解明するとなれば、空間も無も、改めて数としてのみ捉えるのが妥当なのかも知れない。

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