「お」と「を」の日に、
お知らせしていました~!
はい~そうです。
6月12日は、【恋人の日】
・・ブラジル・サンパウロ地方では、縁結びの聖人アントニウスが歿した前日の6月12日を「恋人の日」として、恋人同士が写真立てに写真を入れ交換しあう風習があることから。
メイストームになんて、ふきとばされてないかい?~わかものたち!
聖アントニウス (1195年8月15日 - 1231年6月13日) って、
こんな方です。
↓
元の名をフェルナンド・マルティンス・デ・ブルハオンといい、リスボンの非常に裕福な貴族の家系に生まれました。家族はフェルナンドが貴族の身分を継ぐことを望みましたが、フェルナンドはこれを拒み、リスボン郊外のアウグスティノ修道会に入ります。アウグスティノ会に所属する司祭たちは学術研究によって知られていて、アントニウスも聖書とラテン文学の研究に打ち込み、頻繁に訪ねてくる家族や友人が勉学の妨げにならないようにコインブラの修道院へ配転さえしてもらいました。
1219年に叙品(司祭に任命すること)されて、修道院の応接担当者となった頃、フェルナンドはモロッコへ向かう5人のフランシスコ会宣教師に出会い、彼らの福音的な生き方に強い感化を受けます。その5人のフランシスコ会宣教師が殉教したという知らせが 1220年2月に届くと、フェルナンドは全てを捨てて神に従うことを決意し、フランシスコ会に移ることを長上に願い出ました。
1220年の夏フェルナンドはフランシスコ会士となり、教父時代のエジプトの聖人、聖大アントニウス (c. 251 - 356) に倣って名前をアントニウスに改めました。アントニウスは時を措かずにモロッコ宣教に向かいましたが、現地に着いてすぐに重病になって、ポルトガルに送り返されることとなりました。しかし帰路に嵐に遭って船がシチリアのメッシーナに漂着し、アントニウスはそこからアッシジへと向かってイタリアの修道院にとどまる許可を得て、ロマーニャ地方フォルリで隠修士になりました。
ある司祭の叙品式で説教をして才能を認められたことがきっかけになり、アントニウスはロンバルディア全体の宣教を任され、1226年にはフランシスコ会総会からの特使として教皇グレゴリウス9世の前で行った説教が賞賛されて祝祭日の説教を任されました。
1231年、アントニウスは厳しい禁欲生活のために全身水腫に侵され、療養のため他の修道士2名と共にカンポザンピエーロ(パドヴァ)の森に入って、くるみの木の下に作った小屋に住みます。この年の6月13日、アントニウスはパドヴァへの帰路、聖クララ会修道院にて36歳で息を引き取りました。翌 1232年にはローマ教皇グレゴリウス9世によって列聖されています。
んんん~?
なんで、縁結びの聖人?なんでしょうね。
「恋」の字って
・・会意兼形声。戀の上部(音レン)は「絲+言(ことばでけじめをつける)」からなり、もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと。乱(もつれる)と同系のことば。戀はそれを音符とし、心を加えた字で、心がさまざまに乱れて思いわび、思い切りがつかないこと。
恋は、もともと、せつない・・のだ。
素敵な写真たて、準備OK?
恋人たちに、さちあれぇ。