O組ツアー報告 その1です。
『第7回 O組ツアー2012旅日程』
6月8日(金)高山
6月9日(土)白川郷
6月10日(日)なばなの里
(O組ツアーとは・・息子たちが通っていた幼稚園で顔なじみになったお母さんたちとの旅行。
O組のOは園長先生のイニシャル。)
愛知県、岐阜県、三重県、におじゃましました。
愛知県 岐阜県 三重県
レポは、
その1
≪あんきにはいってくれんさい編≫・・今日です。
その2≪世界遺産白川郷編≫
その3≪なばなの里編≫
その4≪ありがとう編≫
・・へと、続きます。
どうぞおつきあいくださいね~。
岐阜県高山市
福岡空港から名古屋国際空港セントレアへ。
そこから名鉄名古屋ミュースカイで名古屋へ。
O組メンバーとの集合場所は、名古屋駅。
神奈川から、滋賀から、大阪から、集まります。お久しぶり~♪
名古屋から、ワイドビューひだで、高山へ。
高山陣屋
「高山陣屋」とは、高山の郡代役所のことです。おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。
飛騨高山を6代にわたって治めた金森氏が1692年、出羽上山に転封となり
高山城は加賀前田藩の預かりとなった後、徹底的に破却されました。
幕府は、高山を天領とし、金森氏の下屋敷だったところに陣屋を構え支配しました。
郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山だけです。
「郡代役所」
中期以降4カ所に固定
・関東郡代・・江戸馬喰町
・美濃郡代・・美濃国(岐阜県南部)笠松
・西国郡代・・豊後国(大分県)日田
・飛騨郡代・・飛騨国(岐阜県北部)高山
◎序列順
なぜ、幕府が高山を直轄地にしたのかというと、豊富な木材資源と鉱産資源に目をつけたからだといわれています。
ネット画像
↑玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。
御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。かつて年貢米を保管した藏で天領時代の歴史を物語る資料が展示されています。
↑金森氏の下屋敷の面影として残る、釘隠し「ウサギの釘隠し」です。
↑郡代役宅から見る中庭です。向こうに見える建物が米蔵。
高山城からの移築で、当時のまま残っているのも珍しいそうです。
中に入りました。ひんやり、お米を保存するのにちょうどよい天然チルド温度。
驚きました。
ネット画像
↑左の畳が江戸から来た役人用⇒本庁からきたキャリア役人
右の畳が現地の役人用⇒地方の役人
キャリア役人の畳の縁の柄、可愛かったのですよ。
畳の柄で身分を分けていたのですね。
1774年、
大原騒動にて打ち首に処せられた本郷村の農民善九郎(19歳)が妻のかよ(17歳)に書いた遺書の要約です。
「聞くところによる、一揆の刑罰は厳しいものになるというので私も極刑に処せられるだろう。私は覚悟ができているので、あなたも私のことは諦めてください。この世ではもうお会いできませんが、死ぬ前に一度お会いできたので、心残りもなく死んでいけます。私が死んだ後は、ご両親を大切にしてください。おふり殿とも仲よく暮らしてください。そして、私たちの愛する息子松之亟を大切にしてください。又、私が獄につながれている間に随分とお見舞いの品をいただきましたので、お礼をよく言っておいてください。この間も鉈見村の与十郎殿や石神長十郎殿より柿を一ついただいたので、お礼をいっておいてください。
もし、お裁きが軽くすんで遠投や追放にでもなるのであればあなた様とお会いできる日が来るでしょうが、それは無理でしょう。なので此れにてお別れです。さようなら」
・・・なんと、19歳・・ですよ。
また、クレ葺屋根の門の扉に残るしみは、1869年の
梅村騒動で農民に殺された門番の血痕といわれています。
このような百姓一揆の取調べをした白州は、砂利が敷かれていて、座るのも痛そうでした。
なんだか、写真は撮れませんでした。
直轄地時代は、明治まで25代177年間続きました。
↑高山陣屋そばの郵便ポストです。
さんまち散策
「さんまち」とは高山の城下町 一之町、二之町、三之町の総称です。
それぞれの町は安川通りを境に上下に分かれています。
連子窓と出格子を持つ古い町家が軒を連ね、情緒豊かな景観が続きます。
飛騨高山といえば、やはり「からくり人形」
からくりミュージアムにおじゃまして、「からくり人形」の実演も見学してきましたよ。
↓日本で唯一の、棒からくりを使った「弁慶と牛若丸の乱杭渡り」の実演です。
↑こちらは、「大黒さま」です。
↑こちらは、「恵比寿さま」です。
はぶ・あ・ないすでー。
「幸福」の文字を書いていただきました。
↑当時の火消し[馬頭組]若衆の団結力・まちを守る気持ちを、本町会の心粋としてシンボル化したキャラクター「勇の丁次」さんです。
↓こちらは、「相応院」です。
明治35年、高山市街を一望する裏の弘法山に、弘法大師修行像、西国三十三観音、十三仏をお祀りした大悲閣が建立されました。
また飛騨で唯一、大聖歓喜天(聖天)浴油供養を修行しているお寺です。
階段の数175。お参りしてきました。
↑鍛冶橋の欄干に立つユニークな2つの銅像「手長足長」。
高い木の実や魚をとるため手や足が長くなった山海の神様です。
本日のタイトル「あんきにはいってくれんさい」は、
高山弁で「気軽におはいりください。」という意味だそうです。
てくてくとことこ、お土産屋さんに立ち寄りながら歩いた城下町。
佇まいは、どこか
同じ天領の町、九州の日田に似ていました。
O組ツアーレポその1≪あんきにはいってくれんさい編≫
ご精読~ありがとうございました。
愛知&岐阜&三重
6月8~10日訪問
今日はこの辺で。