27歳で画家になろうと決意し37歳でピストル自殺する10年間で
売れた絵は、わずか1枚だったそうです。
14歳
【フィンセント・ファン・ゴッホ】
・・フランスのパリやアルルに居を構え、印象派や浮世絵の影響を受けた作品を描いた。ポスト印象派の代表的画家である。現在でこそ高く評価をされているが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑(La Vigne rouge)』だった。1890年に銃で自殺。彼を終生援助した弟テオドルス(通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されている。
≪赤い葡萄畑≫1888年 プーシキン美術館
福岡県太宰府市にある九州国立博物館に『ゴッホ展』を見に行って来ました。
オランダ時代の抑えた色調の初期の作品から
いろいろな画家の影響を受け、鮮やかな色彩、力強い筆遣いの絵が登場するまで
ぎゅ~と、凝縮した空間がひろがっていました。
(1)伝統―ファン・ゴッホに対する最初期の影響
《秋のポプラ並木》1884年ゴッホ美術館
《曇り空の下の積み藁》1890年ミュラー美術館
この2枚の絵は初期の絵と最晩年の絵との比較だそうです。
ミレー、ルソーなどいろいろな人の影響を受けながらも、一貫したものが流れているゴッホを表すという意味ではじめに展示されていました。
(2)若き芸術家の誕生
《麦藁帽子のある静物》1881年 クレラー=ミュラー美術館
絵の先生だったアントン・モーヴ他の影響を受けながら成長していくゴッホの絵が展示されていました。この絵は、先生から褒められたのだそうです。
(3)色彩理論と人体の研究~ニューネン
《じゃがいもを食べる人々》 1885年 ファン・ゴッホ美術館
この頃人物を描くことに専念していました。農民を賛美しています。
(4)モダニズム~パリ
《マルメロ、レモン、梨、葡萄》1887年 ファン・ゴッホ美術館
黄色が強調された一枚です。額縁も黄色く塗られています。
パリに移ったゴッホはいろんな画家から技法を学び取り、日本の浮世絵版画からも強烈な色彩や大胆な構図などから、影響を受けています。
《ヒバリの飛び立つ麦畑》 1887年 ゴッホ美術館
雲、ヒバリ、そして、風がそよぎ麦の穂がたなびいてる様子。水平に書かれた対象が、無限の広がりを感じさせます。
また、この時期、たくさんの自画像を描きました。その数は23枚くらい。
2010年は、ゴッホが亡くなってから120年目にあたります。
「ぼくは100年後の人々にも生きているのかの如く見える肖像画を描いてみたい」
この言葉は、亡くなる一ヶ月前に、妹のウィレミーナに宛てた手紙の中のゴッホの言葉だそうです。
(5)真のモダン・アーティストの誕生~アルル
《アルルの寝室》1888年 ゴッホ美術館
会場の中にアルルの寝室が、再現してありました。黄色い家と呼ばれる家の内部です。画家のゴーギャンと、暮していました。
《アルルの寝室》の絵は、ゴッホ美術館、オルセー美術館、シカゴ美術館に、3パターンあります。
壁にかかっている絵がそれぞれ違っているそうですよ。
《ゴーギャンの椅子》 1888年 ゴッホ美術館
この寝室の右側のブルーのドアは、同居人、ゴーギャンの部屋です。
《種まく人》 1888年 ゴッホ美術館
ミレーの≪種まく人≫をたくさん模写しました。自然に囲まれいっしんに働く農民の後に神々しく輝く黄色い大きな太陽。この絵は、浮世絵の技法も取り入れてるそうです。
浮世絵も展示してありました。
歌川国芳《川を渡る女性》、歌川広重《五十三次名所図繪三十九岡崎》同じく《四十二宮》
豊原国周《隅田川夜ノ渡シ之図》、歌川国貞《花源氏夜俤》、作者不詳《新版子供遊び》以上
6点、ミュラー美術館からの出展です。どれも綺麗な色でした。
(6)更なる探求と様式の展開~サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ
《サン=レミの療養院の庭》 1889年 ミュラー美術館
精神を病んで、入院していた療養院の庭です。
《渓谷の小道》 1889年 ミュラー美術館
療養院からぬけ出して岩場に足をかけ写生したそうです。たてに伸びる筆のタッチが印象的です。
《アイリス》 1890年 ゴッホ美術館
黄色と紫。補色を用いたい力強い作品。右下の萎れた部分が惹きつけられます。
自ら命を絶つ直前の絵です。
絵を描くことが好きで好きでしかたなかったのでしょう。
そのことを深く認めていたのは、弟のテオ。
ひたむきに絵を描き続ける兄ゴッホに、仕送りを続けたといいます。
ゴッホの生涯クリックしてね。
テオが妻を迎え弟からの仕送りを遠慮する・・?悩む・・?死を選ぶ・・?
兄、ゴッホの死後、4か月で後を追ように、テオも亡くなります。
二人の死後、
ゴッホの手紙をまとめ、ゴッホの絵を世に出したのは、この
テオの奥さんヨハンナだそうです。
九州国立博物館『ゴッホ展』~1月19日訪問