みみかほう

こころの耳をすませて すてきな果報にであいたいとおもいます。

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✿強運かそうでないか

2018年04月16日 | ✿つぶやき

福岡は3月19日開花発表
3月27日満開宣言





いつも 大河ドラマ『西郷どん』楽しみに観ています。


幕末のあの頃、
のお話 第三弾、
近藤正慎
平野國臣

で・・・、
今日は、月形洗蔵です。



月形洗蔵は江戸末期の福岡藩士です。

そう、この人物こそ
薩長同盟の起草文の考案者なのです。

薩長同盟の功労者は、坂本龍馬ではありません。
福岡藩士の、月形洗蔵なのですよ!!!


大正時代の新国劇『月形半平太』のモデルの一人なんですって!
土佐の武市半平太と月形洗蔵を合体して、月形半平太。
へえ~そうだったんだあ。



このサイトサイト リンクさせていただきます。
ありがとうございます。







月形は文政11年(1828年)、福岡藩士・月形深蔵の子として生まれます。



西郷隆盛と同い年です。



万延元年(1860年)3月。桜田門外の変が発生。筑前勤王派のリーダーであった月形洗蔵は、藩主・黒田長溥に参勤見送りを訴え、勤王の方針と政治改革を断行するよう建白。8月、筑前勤王派に属する中村円太、江上英之進らは鹿児島に赴き、「薩長同盟」の画策に動きます。しかし、11月、藩主・黒田長溥は参勤を決定。反対の月形らを幽閉します。



この黒田長溥、島津からの養子です。
西郷どんで渡辺謙さん演ずる島津斉彬は、2歳年上の大甥にあたるのだとか。
黒田家は、官兵衛の血筋は、五代まで。
あとは十二代まで、養子で繋いでいます。



文久3年(1863年)、5月10日。幕府は攘夷決行を奏上。長州藩は外国船を砲撃。そして八月十八日の政変が発生。長州勢は京都から追放されます。そしてこの時、尊攘派の7人の公卿(のち5人)も亡命し、長州に保護されます。

元治元年(1864年)7月、禁門の変勃発、長州藩は幕府軍に大敗。第一次長州征討開始に加えて、四カ国連合艦隊が下関を占拠します。そこで幕府軍は、長州藩に対して五卿を藩外に移すよう強行に要求してきます。

そこで月形ら筑前勤王派は長州征討阻止と五卿問題解決のために活動を開始します。

12月、月形は長府功山寺を訪ね、五卿に拝謁して説得。さらに移転に強硬に反対していた長州藩士をも説き伏せます。




おお。高杉晋作の『功山寺挙兵』の、あの功山寺ですね。



この時五卿に随行していた土佐藩の土方久元の証言が残っています。

「秘密に薩長連合の端を開いたのは長府に三条さんが御在になつて居る所へ筑前の月形洗蔵が来て、言ひ出したが初だ。薩長和解の話は筑前が元です。」(明治38年『史談会速記録』)

慶応元年(1865年)2月13日、五卿は太宰府の延寿王院に入ります。以来、太宰府は勤王派の策源地と化していきます。秘密の会合場所は、薩摩藩定宿「松屋」(この松屋は現在、太宰府の名物である梅ケ枝餅屋となって残っている)。この松屋で月形は西郷隆盛と会談をします。この頃、薩摩の大山格之助と長州の小田村素太郎が太宰府でたまたま面会し、親しく語り合うほどの関係となっています。




太宰府の【松屋】
太宰府におじゃましたときは、必ず前を通ります。
そんないきさつのあるお店だったとは!!!
今度、じっくり。
維新の息吹、感じてきます。



そして、この年の5月に松屋にやって来たのが坂本龍馬なのです!これは『七卿在西日誌』にも5月25日に「土州藩坂本龍馬来宰、面会之事」と記されています。ここで龍馬は月形の考える薩長同盟の考案に賛同するのです。

しかし、6月。台頭した福岡藩の俗倫党による勤王派への弾圧が始まります。所謂、乙丑の獄です。勤王派の藩士、月形洗蔵ら40名、他に女流歌人の野村望東尼が謹慎を命じられます。

そして10月、勤王派の処罰を断行。切腹は勤王派で家老の加藤司書ら7名。斬首は月形ら14名。流刑その他を含めて140名に上り、野村望東尼は姫島へ投獄。

薩長同盟実現という志半ば、月形洗蔵は処刑されました。長州藩周旋に傾注することで、薩長同盟の路線を築いた筑前勤王派はここに壊滅してしまうのです。




そうです。平尾山荘にいって、野村望東尼にの勉強をしたとき、
乙丑の獄は、学んだはずでした。
その時、月形洗蔵も斬首されたのですね。



しかしまだ月形洗蔵に教えを受けていた人物が残っていました。そう、坂本龍馬です。龍馬は月形の意志を引き継ぎ、なんとしても薩長同盟を実現させようと最後の仕事を行います。

慶応2年(1866年)1月11日、長州藩士・桂小五郎と薩摩藩士・西郷隆盛、大久保利通らが京都の薩摩藩邸で会談。龍馬立ち会いのもと、薩長連合が盟約されました。

東久世通禧が勤王派の生存者林元武に送った書が現在も下関長府博物館に所蔵されています。

そこにはこう書かれています。

「連衡薩長 北筑功 總是 王政開基業」

つまり

「薩長同盟は 福岡藩の功績である すべてこれが 王政の基盤となった」と。



筑前勤王派に属する中村円太、江上英之進、
この方々も知りませんでした。申し訳ないことです。



戦前までは月形らは維新の英雄として知られていました。

『維新史』全6巻(昭和16年)には

「薩州藩論の転換は、やがて薩長融和の機運を醸成するに至つた。その先貌とも称すべきは、第一回征長の役後五卿移転問題に関連し筑前藩士月形洗蔵、早川養敬、喜田岡勇平、筑紫衛等の斡旋により薩長両藩士の交渉の道が拓かれたことである。此等筑前藩士は薩長接近の最初の功労者といふことが出来る」

と、薩長同盟の先駆者として記されています。

ではなぜ忘れ去られたのか。
一番の理由は司馬遼太郎の長編時代小説『竜馬がゆく』の大ヒットによると言われています。
大河ドラマにもなり、現在の龍馬像はこの小説の影響と言われています。




『竜馬がゆく』は、私も読みました。
この本で、坂本龍馬ファンになりました。
けど、司馬遼太郎さんもおっしゃっているように、これはあくまで物語。
原に、龍馬ではなく、竜馬と、書いていると。







なんということ。。。。。
なんと、なんということ。。。。。



幕末期、福岡藩がなぜ、出遅れたのか、
やっと、わかった気がしています。
すみません。


黒田長政の功労で25万石を頂戴した福岡藩は、幕府に対して恩義があった。
そのため 幕末期の福岡藩主 黒田長溥は、
勤王派をうとましくおもった。
そういうことですよね。

加えて、戊辰戦争ののち、
勤王派弾圧の責任をとる意味で、佐幕派まで、切腹させられたのだとか。



とにもかくにも、
薩長同盟の立役者は、福岡藩士 月形洗蔵です。
坂本龍馬ではありません。



大河ドラマ『西郷どん』には、
坂本龍馬(小栗旬さん)は登場しても、
月形洗蔵は、出ないですよね。
ましてや、近藤正慎も、へたしたら平野國臣も、出ないかもです。
歴史に残るって、
案外、“強運の持ち主”が、条件なのかも。ですね。





ダッピィズよろしくお願いします。

・・・






コメント (14)
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