元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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インドネシア独立に栄光あれ・・・血の遺書

2013年08月17日 15時51分21秒 | バリ島 インドネシア全般(風習 習慣)
インドネシアを愛し・・・
その独立を願った日本人たち・・・

戦場の最前線には・・・
異国人でありながら・・・
敢然として独立戦争にその身を投じた・・・
数多くの旧日本軍将兵の姿がありました・・・

大日本帝国陸軍の・・・
生え抜きの戦士である彼らは・・・
常に先頭に立ち闘い続けたのです・・・

武器の扱い方すら・・・
知らなかった多くの・・・
インドネシア人民兵を・・・

訓練し鍛え上げて・・・
戦い方を教えたのです・・・



ここに・・・
1人の人物をご紹介します・・・

“バハキヤ インドネシア ムルディカ”
(インドネシア独立に栄光あれ)

“インドネシア独立喜び死す”
“日本人万歳 大君…”

阿部 頌二
(インドネシア/ジャワ/森永乳業社員)

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スマラン事件・・・
世界大戦終戦後の・・・

1945年・・・
10月15日から・・・
10月19日にかけて・・・
ジャワ島のスマランで起きた・・・

日本軍と・・・
インドネシア独立派との・・・
武力衝突事件をいいます・・・

日本軍の・・・
武器の引き渡しを巡って対立が生じ・・・
インドネシア側に1000から2000人・・・
日本側にも200人近い死者が出ました・・・

インドネシアでは・・・
五日間戦争として知られています・・・

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終戦を迎え・・・
日本人と現地人の・・・
立場は全く逆になり・・・
現地民の暴動が続きたのです・・・

森永乳業社員だった・・・
阿部頌二も捕らえられて・・・
ブルー刑務所に収監されました・・・

そして・・・
10月15日・・・

暴動に興奮した・・・
民衆が刑務所を襲撃し・・・

収容されていた・・・
日本人に向けて・・・
機関銃を乱射・・・

阿部頌二をはじめ・・・
30数人が撃たれたのです・・・

インドネシアを愛し・・・
独立を願っていた阿部頌二は・・・

自らの鮮血で・・・
コンクリートの壁に・・・

“バハキヤ インドネシア ムルディカ“
(インドネシア独立に栄光あれ)

と書き残し・・・

さらに・・・
“インドネシアの独立のために喜んで死す”
“大君・・・・”

と、記載・・・

”大君と”と、書き・・・
終わったところで絶命をしたらしく・・・

人差し指が・・・
血のりで壁にぴったりと・・・
くっついていたといいます・・・

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阿部頌二が・・・
死亡した数か月後・・・

刑務所を訪れた・・・
カスマン国防相が・・・

獄中を点検中に・・・
阿部頌二の残した血書をみつけ・・・
直ちにスカルノ大統領に報告されました・・・

国境・・・
民族・・・
憎しみを越え・・・
死の瞬間まで・・・
インドネシアの独立を・・・
念じた阿部頌二の行動は・・・
スカルノ大統領を強く感動さました・・・

同時に・・・
この感動は・・・
広くインドネシア全体に波及し・・・

現地人と・・・
日本人のトラブルがなくなり・・・

“日本人は同胞”
の、意識を強めさせた・・・

各地に・・・
抑留されていた・・・
日本人は一斉に釈放され・・・

インドネシアが準備した船で・・・
速やかに帰国することができたのでした・・・

その数は6万4000人・・・

日本人が不安なく帰国できたのは・・・
阿部頌二のおかげともいわれたのでした・・・

そして・・・
この血書は・・・

今でもインドネシアのどこかに・・・
大切に保管されているとのことです・・・

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阿部 頌二(あべ しょうじ)
大正8年2月25日
湯野浜の亀屋ホテルに松五郎(3代目与十郎)の二男として生まれる
インドネシアの森永農園に勤務中、現地民の生活安定を図り、現地人労働者に
インドネシア独立の理念を教育した
しかし、敗戦に伴ってスマラン市内の刑務所に収容され
20年10月15日、刑務所を襲った暴徒に撃たれて血書を残し死去した(享年27歳)
亀屋ホテルの前に「インドネシア独立万歳と血書して玉と砕けし、日本男の子よ」
と、刻んだ記念碑がある

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