源義朝はその父為義同様に子福者だ。男子9人、女子1から3を数えるが乳幼児死亡率の高い時代故、それ以上の子女がいたことは想像されるが、分かっているのはそれだけである。
長男は義平、悪源太と呼ばれた勇者である。15歳にして叔父義賢を武蔵大蔵館急襲し殺している。源太という呼称に注目する。源氏の太郎である。八幡太郎義家も源太と称した。母は三浦一族の出ともいうが遊女ともいう。平治物語のヒーローと言っていい。享年19歳。
次男 朝長。母は相模の波多野氏だという。三男頼朝が嫡子とされた時、波多野氏は不満を示したという。平治の乱で負傷し、死を余儀なくされる。16歳程度であったろうか。この一文の中で後述する。
三男 頼朝。言わずと知れた鎌倉幕府創始者。母は由良御前とかいうが、熱田大宮司藤原季範の娘で上西門院と関係が深かったとされる。義朝はこの妻の関係で朝廷に足掛かりを得、頼朝も上西門院庁の蔵人になっている。上西門院は後白河の同母の姉である。それ故義朝は頼朝を嫡子とした。平治の乱で頼朝が着こんでいた鎧は「源太産着」という八幡太郎義家からの伝世品であったらしい。
四男 義門。義門について分かっていることはほとんどない。平治の乱で一時的にせよ官位を得ており実在はしているらしいがそれだけである。頼朝と同母とされるが不明である。
五男 希義。頼朝の同母弟。平治の乱の後、土佐へ流され、頼朝挙兵に呼応しようとして殺された。
六男 範頼 池田の宿の遊女の子と言われる。藤原範季が養育し、教育したと言われる。頼朝の代官として平家追討する。平家物語ではぼろくそだが、それなりの成果を上げている。富士の裾野の巻狩りで曽我兄弟の騒動があった際の失言で伊豆に幽閉され殺されたという。
七男 阿納全成。常盤御前の子、今若。出家していたが頼朝に呼応。北条政子の妹を娶り、唯一頼朝亡き後まで生存したと思われる。ただ活躍はしていないようだ。頼家の時、北条時政の実朝擁立にかかわったとして殺された。
八男 義円 常盤御前の子、乙若。出家していたが頼朝に呼応。墨俣の戦いで戦死。
九男 義経 常盤御前の子、牛若。知らない人はいない伝説のヒーロー。こうして数えると本当に9番目の息子だ。
女子 坊門姫 由良御前の子。頼朝の姉とも妹とも。彼女の実在は間違いない。平治物語では頼朝は後藤実基にしかるべき結婚をさせるように託した。一条能保の妻となり孫の子藤原頼経が鎌倉の4代将軍となる。
女子 文字通り義朝と生死を共にした乳母子の鎌田政清に娘を平治の乱直後殺させる話が平治物語にある。母の身分を低いと想定するにせよ坊門姫との扱いが違いすぎ物語通りには受け取りかねる。
女子 夜叉姫。平治物語に出てくる青墓宿の娘。自殺する。自殺話はともかく青墓に子がいても不思議はないだろうとは思う。
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ここで取り上げるのは次男朝長と八男義円だ。彼らはおそらく生前顔を合わせたこともないだろう。共通点と云ったら二人とも美濃で死んだということくらいだ。共に大垣市の青墓と墨俣で死んでいる。
源朝長の墓が青墓にあるという。大垣-池田線という道路を北上し、野外活動センターとかいう所へ行くまでに登り口がある。と美濃国分寺の資料館の人に教わった。
登山道入口までたどり着いたのであるが、入口には柵と共にクマ注意!!の立看・・・
我々も朝長くんを見捨ててきてしまったわけだが、彼は義朝の男子たちの中で最も哀れな子供だ。
義経の生涯は悲劇的に語られるが、功を上げ30歳まで生きた。朝長は平治元(1159)年、16歳で死んだ。
義朝の次男として生まれ、母は相模の豪族波多野氏の出で、波多野義通の妹であり、兄義平はいるものの、彼の母は遊女ともいわれ、源太を名乗りながらも嫡男扱いはされていない。朝長は当初は嫡男とみなされたのだろう。少なくとも波多野義通はそう思っていた。波多野氏の所領松田郷に豪壮な邸を立て住まわせた。源氏の棟梁になる御曹司、そう思って育てたはずだ。しかし、義朝は熱田大宮司・藤原季範の娘を娶り正妻とし、この婚姻関係から上西門院関係者とも交友が出来始めると、由良御前の産んだ頼朝を嫡男に据える。当然波多野氏は面白くなく、義通は保元の乱直後義朝の下を離れる。平治の乱ではまた義朝方として戦う。朝長が義朝の子として戦う以上波多野も義朝につかざるを得なかったのだろう。しかし治承4(1180)の頼朝の挙兵に際し、波多野義通の子義常は頼朝の招請を拒否、後に討手を差し向けられて自害する。
平治の乱に父と共に戦闘に参加したのは、義平19歳・朝長16歳・頼朝13歳である。
義平は大活躍をする。 最初に図書館で借りて読んだ勉誠出版の「現代語で読む歴史文学 平治物語」の中では頼朝は落ち着き払って「先に攻め込もう」などと云っていたりするのだが、手に入れた角川ソフィア文庫ではその箇所がない。異本に拠って違うようだ。朝長・頼朝は特に活躍はしていないが、年齢からも妥当だろう。どうも「現代語で読む歴史文学 平治物語」の方が物語としては面白いようだがフィクション部分も多そうである。
さて戦況は後白河・二条が逃げ出し、平清盛が熊野から引き返してくれば、義朝・信頼に勝ち目はない。義朝はわずかな人数で落ち、東国を目指す。落人狩りの僧兵を齊藤実盛の機転等でやり過ごしていくも、義朝叔父の義隆は討ち死に、朝長は足に矢を受ける。
何しろ街道を行けば怪しまれるとて、間道伝いの逃避行。真冬の伊吹の山麓を踏破しようというのだ。最年少の頼朝は落伍、既に足に矢傷を受けていた朝長の脚は腫れ上がる。青墓宿にたどり着いたものの朝長はこれ以上の行軍はできない、殺してくれ、と父にいう。義朝は泣く泣く朝長を殺すのであるが、この辺りは「現代語で読む・・」の方が詳しい。詳しいだけに創作臭も強いが、朝長にはより酷な内容となっている。
朝長は矢傷を受けた時、気丈に大丈夫だと云って、却って義隆(義朝叔父、戦死)を気遣う。頼朝が落伍した時、兄義平は15歳で大蔵館に攻め込み義賢を討った自分と比べだらしないと叱責する。それは同時に16歳の朝長への叱責ともなったろう。朝長は一度は父兄と別れ東国に出立したことになっているが脚の傷の痛みにどうにもならなくなって引き返す。義朝は言うのだ「年は若くとも頼朝ならばこうはあるまい」脚は腫れあがり、おそらく発熱もしていただろう朝長だ、迷子になった弟の方がマシと言われては救われない。
義朝は青墓の長者大炊に朝長を託し杭瀬川を下り尾張に出るが、裏切りにより風呂場で殺される。
大炊は朝長を丁重に葬るのだが、平家が嗅ぎ付け墓を暴き朝長の首を取って行った。首は義朝の首と共に京都でさらされるが、大谷忠太という物が首を取り返し、静岡県袋井市に首塚を作ったという。だから朝長の墓は駿河に首塚、美濃に胴塚があることになる。
大変なことのようだが、この時代では珍しいことでもないだろう。中山道を上り野洲にある平宗盛の墓は胴塚だ。首は京都でさらされたはずだがどこかで朽ちたのだろう。平家の都落ちに際し、平貞能は主君だった重盛の墓から遺骨を掘り出し持って行っている。敵に墓を暴かれないためである。
朝長の美濃の墓には登らなかったが、周囲には相当規模の大きい寺の跡がある。近くに大炊一族の墓もある。
大炊一家と義朝一家の関わりは深い。義朝の父為義は青墓の長者大炊の姉を寵愛した。保元物語によれば4人の子供がいる。義朝は大炊の娘を寵愛し平治物語によれば娘がいる。
為義の4人の子は義朝の命により殺される。一番上の乙若13歳、一番下は7歳である。手を下させられたのは波多野義通、朝長の母の兄である。殺された子らの母も乳母も後を追った。とはいえこの話は他に史料はなさそうだ。物語であった方が救われる。それに姉や幼い甥達を殺されたにしては平治物語の大炊は義朝に尽くしすぎる。
義朝の娘夜叉姫(母は大炊の娘延寿)は杭瀬川に身を投げたことになっている。これも創作であってほしいことだ。
とはいえ、為義・義朝親子は京―東国の往還に青墓を定宿とし、それぞれになじみの女がいたことは間違いないだろう。木村茂光は「頼朝と街道」の中で、為義は東山道を通り、西野・上野・下野などと関係を深め、義朝は東海道を下総・相模に勢力を伸ばした。青墓は為義・義朝の結節点であるとともに分岐点でもあった、と書いている。
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八男義円。義朝と常盤との間の3人の男児の真ん中、即ち義経のすぐ上の兄である。
義円は朝長より10歳ばかり長く生きた。
母常盤は九条院の雑仕女となっているが千人の中から選び抜かれた美女であり、九条院(藤原呈子:忠通養女、近衛帝の中宮で多子のライバルだった)とは親しい。また由良御前(頼朝母)亡き後の義朝の事実上の正妻だった。(保立道久「義経の登場」)
常盤の再婚相手一条長成の世話で三井寺(園城寺)で出家していたが、頼朝の挙兵を聞いて駆けつける。それはおそらく陸奥からの義経より早かったろう。三井寺にいたのなら以仁王+源頼政の挙兵に従わなかったのかと思うが分からない。以仁王の時は息をひそめてやり過ごしたが、この乱の後、平家の圧迫が強くなり、このままでは無事にいられないと東へ走ったのかもしれない。
義円に関してはその人となりを示すものは非常に少ないようだ。源平盛衰記の墨俣合戦の所が一番詳しいのだろう。義円公園にあった案内板も盛衰記に拠るようだが年号が何故か養和になっている。1181年は養和に改元されるのは7月であり、3月の墨俣の戦いはまだ治承5年だが、頼朝は何故かこの改元を無視していたという。盛衰記でもそうなっているのだろうか。
義円の出陣も頼朝の指示によると考えた方が自然だろうが、吾妻鏡にその記述はなく、義円の単独での挙兵という説もあるそうだ。同じところで同じ敵と戦うのに将二人が協力し合わないなどと云うことは信じがたいことではあるが、一方の将が行家であることを考えるとありえないことではないような。
行家は為義の十男であり義朝の末弟だ。おそらく頼朝よりは5歳程度しか年上ではない。平治物語では平治の乱にも参加しており、その頃は義盛と名乗っていた。ただし、行家が平治の乱に参戦していたという他の史料はなく、不参加だったとする史家が多いようだ。
平治物語の通りとすれば、平治の乱に参加した頼朝の兄弟3人・行家共に10代であり、行家は頼朝からしたら頼りにならない叔父であり、行家からしたら頼朝は源太産着なんぞ着込んだ小生意気な甥という所だったろう。行家は平治の乱後、姉の嫁ぎ先の熊野の新宮に逃げ込み匿われるのだが、あまり追及もされなかったようだ。少なくとも平家にとっては何が何でも捕まえる必要もない小物ととしてしか認識されていなかったのだろう。
その行家が以仁王の令旨を伝え歩く。それで自信過剰になったのか、それとももともとの性格か。彼は甥っ子たちの間を渡り歩くのだがその誰ともうまくいかない、どころかその甥たちに災厄しかもたらさない。甥の中では年長であり、もともと平治の乱のころから見知っていたかもしれない頼朝はさっさと行家を見切る。そして他の者と事を構える口実に使う。
一番ひどい目にあったのは義仲である。義経も行家に寄人されていいことはなかった。
行家は個人的には優れた武勇の持ち主であったらしい。しかしおよそ戦の軍略とかはセンスがない。軍を率いて勝ったことがないほどである。
先ず墨俣合戦はでたらめの大敗戦となった。命からがら逃げだし、漸く体勢を立て直すが、矢作川の戦でも敗戦。義仲の所へ行く。北陸遠征をしてきた平家に対し、義仲は倶利伽羅峠で迎え撃つが、同時に行家を別動隊として北周りに加賀へ向かわせる。志保山の戦いである。ここでも行家は平忠度相手に大苦戦、駆けつけた義仲によって救われる始末だ。それなのに行家は義仲を立てるどころか後白河に讒言というから救われない。その後の平家との室山合戦でも行家は敗北する。単騎囲まれたものの勇を振るい脱出したというから強くはあったのだろう。その後義経に近づくが、大物浦からの四国渡航失敗後、摂津に潜伏、つまり義経と共に奥州へは行かず、頼朝に捕まり斬首。
といった経歴なのだが、墨俣合戦当時は治承寿永の戦乱はまだ始まって間もない。
義円が行家の軍略の無さを知っていたわけではない。ただ義円は頼朝が行家を買っていないということは知っていただろう。だから、行家に先を越されたら鎌倉殿に申し訳が立たない、などと云う発想になるのだ。それに頼朝・義仲にも俺の方が上だ!という行家の事だ、行家は義円を馬鹿に仕切った態度だったのではないだろうか。
しかし、単身先陣を狙うなど如何にも無謀であり、指揮官のすることではない。ほとんど行家と選ぶところのない軍略の無さだ。この猪武者ぶりは当然もう一人の猪武者、義経を思わせる。平家物語にあるではないか、梶原景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と義経をののしるではないか。この時の逆艪の争いは無論物語ではあるが、基本義経は猪武者であり、指揮官として後方にいるより最前線に行くことを好む。それでも義経は天才的軍略家であり、実際に破竹の勝を続けるのだ。これには先天的な才能もあろうが、受けた教育、という点からも考えてみたい。
義円と阿納全成、義経の二人の兄だが、彼らは早い時期に寺へ入る。当然受けた教育は僧侶になることを前提としていただろうし、実際に僧侶になっている。義経も確かに鞍馬に入る。鞍馬天狗は伝説で、ここで受けた教育は兄二人とそれ程異なったものとも思えない。国立民俗博物館蔵の高野山の屏風の紙背文書に義経の自筆がある。いい字であるそうだ。(保立道久「義経の登場」)
だが、義経は16歳で出奔し奥州へ赴く。以後、義経を武者として教育したのは藤原秀衡ではあるまいか。
もう一人、彼らの異腹の兄範頼を考えてみよう。平治の乱が終わった時点で、平家は彼を捕捉していない。行家以上に放って置いて害の無い存在と見たのか。池田宿の遊女の子と云われる彼は、常盤の息子たちよりより不利な状況にあったのではないか。常盤は美貌であり九条院とのコネクションもある、再婚相手の一条長成も兄弟のバックアップをした。しかしその範頼を藤原範季という人物が手元に引き取っている。範季は九条兼実の家司でありながら後白河にも気に入られ、また平家ともうまくつきあっていたようである。が、どこかへそ曲がりと評される人物でもあったようだ。範頼は平治の乱当時10歳くらいで、元服前だが当然物心はある。先ず範頼があまりにも無能な少年だったら、範季は自分の息子と一緒に養育しようとは思うまい。それに範頼が源氏の棟梁義朝の子であることを十分意識して教育したのではないかと思うのだ。もちろん範季は武者ではなく公卿だ。彼が授けたのは指揮官としての心得ではなかったろうか。範頼は西国遠征に際し、東国の武士団に手を焼きながらも頼朝の代官としての役割を果たしている。
つまり、義経・範頼は武者の子としての教育を受けるチャンスがあった。しかし義円と全成にはそのチャンスがなかった。
義円は25歳で初めての戦場に赴く。単騎の渡岸をだれも止めなかったのか。頼朝が命じた出撃だとしても、頼朝は義円に有力な参謀を付けなかった。周りを見渡す余裕もなく、行家には負けられない、ただそれだけに駆られたのではないか。
墨俣は秀吉の一夜城ばかりが有名だが、義円公園は小さいながらもきれいに清掃されていて、うれしいものがある。朝長の墓よりは遥かにアクセスしやすい。