物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

いかでかこれにはまさるべき 木曽義仲 

2020-08-10 | まとめ書き

平家物語第6巻「廻文(めぐらしぶみ)」で木曽義仲が登場する。先ず義仲の生い立ちが描かれている。為義の次男義賢の子、義賢は義平に殺され、2歳の義仲の母は木曽の中原兼遠の元へ行き義仲を託した。そして20余年、力も世に優れ、心も並びなく強い。古き伝説の武将たちにも勝るとも劣らぬとほめあげる。
「ありがたき強弓・勢兵、馬の上、かちだち、すべて上古の田村・利仁・余五将軍・知頼・保昌・先祖頼光・義家朝臣といふ供、争か是にはまさるべき」とある。
喩えられるのは平家物語を聞いた時代の人たちには、直ぐそれとわかるスーパーヒーローだったのだろうが、今、すぐああ誰だ、と思うのは無理だ。順番にみていこう

先ず上古の田村

これだけは坂上田村麻呂の事だとすぐ見当がつく。征夷大将軍として陸奥へ赴き、戦果を挙げた平安京の守護神、田村麻呂、伝説にも彩られ、上古の将軍の代表として疑いない。

 田村神社(甲賀市土山町)近くの坂にいた蟹の怪物を退治したそうな。

清水寺も田村麻呂が建てた寺だそうで、陸奥遠征で捕虜にした阿弖流為(アテルイ)母礼(モレイ)の碑がある。田村は命は助ける約束で京へ連れてきたのだが、桓武は斬った。

 

次の利仁

藤原利仁、利仁将軍と呼ばれるが、田村麻呂と違い、現代に知られているのは芥川龍之介の「芋粥」によってだろう。元の話は「今昔物語」で敦賀の豪族の婿になっていた利仁が、京都でのさえない五位の上司を敦賀に連れて行き大御馳走をする話だ。狐がお使いする話あり、利仁の神通力を示しつつもユーモラスだ。

敦賀市公文名の天満宮、菅原道真と共に利仁を祀る。近くに舅有仁の館もあったらしい。藤原利仁の息子は斎宮職に就き、斎宮の藤原で斎藤を名乗る。全国の斎藤さんは祖先をたどるとみな利仁に行きつく、嘘のような話だが、少なくとも平安末から中世の越前の斎藤氏はみな利仁の子孫を名乗っている。

余五将軍

平維茂(これもち)のことだが、これはさらに難易度が上がる。伯父の平貞盛の15番目の養子となったので余五というそうである。「今昔物語」に説話がある。郎党が殺されたが、その郎党が殺した男の子が敵討ちとして殺したことを知り、許した話と、豪族同士の軍合戦の話である。主に信濃北部、越後との境辺りに勢力を張ったようで、戸隠山の鬼退治伝説があり、歌舞伎の「紅葉狩」で鬼退治するのが維茂である。

 維茂に扮した錦之助(2018年9月大歌舞伎チラシより)

義仲との決戦の前に急死する城資永(「しわがれ声」)、横田河原で義仲に大敗する弟助茂の城氏はの維茂の子孫だという。
そう言えば、燧が城で義仲を裏切り、倶利伽羅峠で捕まり殺される平泉寺長吏斉明、篠原の戦いで手塚光盛に打ち取られる老武者齊藤実盛は藤原利仁の子孫ということになっている。

 

致頼

致頼というのは誰なのだろう?岩波本では「ちらい」とルビがふってある。平凡社の文庫本には知頼(ちらい)とある。
平致頼という人物らしい。平氏の系図中、高望王―国香―貞盛の次の維衡をもって伊勢平氏の祖とするのだが、平致頼は国香の弟良兼の系統ということである。致頼は既に伊勢に在って維衡と衝突を繰り返していたらしい。(高橋昌明「清盛以前」)どうも伝説のヒーローというイメージは湧きにくい。今昔物語に「平維衡同じき致頼、合戦して咎を蒙ること」という話がある。二人とも流罪のなるのだが、先に仕掛けた致頼が悪いとして、致頼は隠岐へ、維衡は淡路へ流される。今昔ではこの次の致頼の息子致経の話が面白い。藤原頼通の命令である僧が夜園城寺へ行くのを致経が護衛する。致経はどうということない装備で現れるが、道を進むと武装した部下が次々現れ、無言のまま僧を警備し、寺へ着く。帰途も京に入ると部下たちは無言で分かれ行く。致経と部下との関係が興味深いが、このやり方、同じ今昔に出てくる盗賊の話と似てはいないか。    
ウィキペディアによれば「致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。」とのことである。

 

保昌

藤原保昌(やすまさ)の事だが「ほうしょう」とルビがふってある。祇園祭の保昌山は「ほうしょうやま」と読むそうだからわかる人にはわかるのだろう。和泉式部と結婚した。藤原南家の系統の家に、生まれたが軍事貴族ともいうべき人だった。今昔物語に盗賊袴垂との説話がある。

 ウイキペディアより

 

頼光

源頼光、大江山の酒呑童子退治や四天王の活躍など伝説の武者だが、先祖頼光というのは少し違う、頼光は摂津源氏の祖だ。義仲は河内源氏に属すので頼光の弟頼信を祖とする。

 

義家朝臣

言わずと知れた八幡太郎義家であるが、ルビが「ぎか」とふってある。平家物語は語られるものだったはずだ。「よしいえ」ならばともかく「ぎか」で分かったものかどうか。梁塵秘抄に「八幡太郎はおそろしや」とあるので、一般的に八幡太郎とよばれていたのではないのだろうか。この場に現れた英雄たちは、ほとんど名前は音読みだがからいいのか。

 

ところで「ありがたき強弓、精兵、云々」という描写はもう一度現れる。第9巻「木曽最期」である。ここでは義仲に付き従う巴に関する描写ではあるが、物語は義仲の登場と最期に最大級の賛辞を贈っているかのようである。

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五位鷺

2020-08-06 | まとめ書き

鷺は身近な鳥でだ。コサギ、アオサギ、地方都市だと少し郊外の田圃にもいるし、街中の城址の堀端にもたくさんいる。見間違えることはあるまいと思っていたが、ゴイサギの画像を見るとにわかに自信がぐらつく。これが鷺か!見たことのある鳥なのか否や、すくなくともそれと認識して見たことはないはずだ。たまたま見た画像の首や足をちぢめているのかと、いくつか画像を漁ってみたが、やっぱりアオサギなどとはかなり違う姿だ。鷺がペリカン科に属するとも初めて得た知識だ。

平家物語第5巻「朝敵揃」に五位鷺が出てくる。延喜の帝、醍醐の時というから、寛平9年(897)~延長8年(930)、10世紀のはじめとみればいいだろうか。神泉苑に行幸し、六位蔵人に池の水際にいた鳥を捕まえさせた。蔵人は無茶だと思ったのだけれど、宣旨だからと言ってみる。鳥はひれ伏して飛び立たず捕まった。醍醐は喜び、神妙であると五位を与えた。何しろ「宣旨」と云えば枯れたる草木も花咲き実なり、飛ぶ鳥も従がひけり、というのである。醍醐は父宇多院が抜擢し重用した菅原道真を左遷させている。大宰府で死んだ道真は祟る。清涼殿に雷となって落ちる。雷・怨霊には宣旨は無力だったようである。
ところで、利仁将軍は醍醐に仕えた。今昔物語で、利仁が敦賀へ連れて行き御馳走するのは「五位」と呼ばれている男だ。芥川龍之介の「芋粥」の元話だ。情けないしょぼくれ切った小役人が五位なのだ。五位にも正従あってそれぞれに上下あるから五位だけでも4階級あることになるが、ただ五位とのみ呼ばれていることは実質的な差異は大きくはなかったのか。取敢えず五位以上は貴族、のはずなのだが、このしょぼくれぶりはどうしたものか。貴族の子弟は10代前半で六位になり、家柄その他の条件で昇進していくが、たぶんこの五位は生涯五位のままなのだろう。
余りうらやましいとも思えぬ五位だが、武者たちはたいそうこの官位が欲しかったらしい。頼朝は武者たちが朝廷から直接位階をもらうことを許さず、自分が推薦したものに限る、などと制限を設け、御門葉と特別に目をかけたもの以外昇進できないようにしている。
頼朝は最初上西門院の蔵人となった時六位だったのだろう。その後平治の乱の一時的勝利の後の除目で従五位下になり、それは平治の乱後止められていたが、平家の都落ちの後復位される。更に義仲追討後、正四位下、平家追討で従二位になる。
因みに、義仲、義経、範頼の官位は皆従五位下である。

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長谷部信連と平時忠 2 時忠

2020-07-15 | まとめ書き

一口に平家と云っても色々ある。桓武天皇を祖にする、とはいっても幾つか代へて高棟王(伊勢平家などの祖となった高望王とは別)という人が賜姓を平家と名乗る。この流れは公家として京都に残り、堂上平家と言われる。この家に時忠は生まれた。公家の家だから日記(にき)の家と云われる。平家物語の時代の史料である「兵範記」は叔父平信範の日記である。

時忠の父時信は鳥羽の近臣の一人だし、家格は悪いものではなかったが、母は令子内親王の半物と一人前扱いされない存在だ。令子内親王は白河の娘の一人だが加茂の斎院にもなっている。時忠の父が出入りをしていて知り合ったものか。少なくとも姉の時子は同母だから、ある程度安定した関係ではあったのだろう。時忠の父は比較的早く死ぬ。兄弟は10数歳下の見られる親宗だけのようだから時忠が家督を継いだのに不自然はない。しかし父を亡くし、母系の援助も期待できない若き時忠の前途はあまり明るくなかっただろう。
だが、思わぬ幸運が姉妹たちによってもたらされる。姉の時子は平清盛の室に納まった。正妻である。更に上西門院の女房だった妹滋子が後白河の寵を得る。滋子の母は藤原顕頼の娘祐子、れっきとした公卿の娘だ。同じ娘でも時子とは格が違うらしい。更に美しかっただけでなく、「建礼門院右京大夫集」や定家の姉の「たまきはる」に絶賛される女性から見ても賢く人柄がよい人だったようだ。女はおろか男にまで節操のない後白河も滋子を本気で愛したらしい。

平家物語で時忠の「この一門にあらずんば人にあらず」という科白が出てくるのは第1巻「禿髪」とかなり早い段階である。禿髪の異形の少年たちが何を象徴しているのかは置いておくが、この章は仁安3年(1168)清盛が病を得て出家したが全快し、その後「吾身栄花」の章合わせて一族の栄華が語られる。仁安3年は後白河と滋子との子、高倉が即位した年でもあるので平家の栄華が極まったと書かれるのもそう不自然ではないが、そこに描かれている栄光はかなり後年のものも含むようだ。この章の次は「祇王」で、清盛の横暴が描かれるが、その次は「二代の后」で二条天皇の時代であり、次の「額打ち論」は二条の死である。
二代の后、多子が二条に入内したのは永暦元年(1160年)であるから、物語はここで8年ばかり時をさかのぼったということになる。
二条と後白河は実の親子と云いながら仲は良くない。二条は正当帝王として親政を志向し、後白河は一度手に入れた権力を離そうとはしない。この二人の間で清盛はアナタコナタしていたのであるが、二条寄りである。時忠は違う。せっかく妹が権力者の懐にいるのだ、最大限に利用したいのだ。応保元年(1161)滋子が高倉を産むとその思いは強まる。しかしここで時忠は少し焦りすぎたようだ。罪を得て出雲に配流された。生まれたばかりの高倉の立太子を狙ったという。時忠は生涯に2度出雲へ配流になるがその最初だ。2度目は延暦寺の強訴のごたごたで後白河の機嫌を損ねたのである。
二条の死で時忠は京へ呼び戻される。高倉が東宮に立ったことはもちろんである。二条側についていた清盛も後白河と提携するほか選択肢がなくなる。ここに平家と後白河の蜜月が始まる。
しかし滋子は安元2年(1176)まだ若くして死ぬ。平家と後白河の間を取り持っていた滋子の死を期に一気に問題が起こり始める。
安元3年(1177)白山事件を発端とする強訴、この時、時忠はどう立ち回ったのか、先の嘉応元年(1169年)の強訴で配流になったのとは大違い、いきり立つ大衆を前に「衆徒の乱悪をいたすは魔閻の所業なり。明王の制止に加わるは善政の加護なり」と書いてこれを鎮めたという。さっぱりわからない。この時は大衆の要求を入れ、師高の配流・神輿を射た重盛家人の投獄という事でおさまったはずだが、この時忠の行為はどう解すべきか。
更に事態は鹿谷事件へと動く。
一端は矛を収めた清盛も、高倉中宮となっていた娘徳子が安徳を産み、重盛・盛子の死を受けた後白河の挑戦的行為に治承3年のクーデターを断行する。
後白河の幽閉、安徳の即位、福原遷都と矢継ぎ早の手を討つ。平家物語によれば、安徳の幼すぎる即位に、時忠は 周成王3歳 晋穆帝2歳 近衛3歳 六条2歳などの例を引くが、よい例ではないとされる。
治承4年(1180)以仁王の乱に始まった反平家の烽火が上がり、やむなく京都へ都を戻すものの、高倉が、そして清盛が死ぬ。
打ち続く飢饉と戦火、木曽義仲は北陸路を大勝した勢いで京都に迫り、平家は都落ち、西国での再起を期す。清盛・重盛既に亡く、平家の領袖となるのは宗盛だが、時忠は、齢50を越え、清盛の後家二位の尼の弟して、堂上平家とはいえ3度検非違使で活躍した実力からも宗盛と並ぶような中心人物だったことだろう。事実、平家へ下される院宣の宛先は時忠になっていた。しかし、都落ちという大きな決断に時忠がどうかかわっていたかわからない。平家物語ではわずかに内侍所の神璽などを取り出したこと、石清水八幡宮の男山を伏し拝んだことがあるくらいだ。
さて義仲入京後の除目で(第7巻「名虎」)平家一門160余人の官職が罷免されるが、時忠と息子の時実、従兄弟の信基は罷免されていない。三種の神器を返すようにという院宣を時忠に下すためであるとされる。
西国に向かい、大宰府で落ち着こうとした平家だが、逆に追い出される。この時、時忠は使いに来た者に豊後国司頼資の事を「鼻備後」と罵る。更に一の谷の後、屋島に院宣を持ってきた使いの花方という者の顔に波型の焼き印を押すという乱暴さを見せる。この使いが戻った時後白河は笑ったというからこの法王も救いがたい。時忠は検非違使の時には盗人の腕を切り落としていたというが、殿上人とも思えぬ粗暴な面がある。ただ実際の戦闘には参加していないようだ。
壇ノ浦の合戦の後、生け捕られた者の筆頭は宗盛、ついで時忠、宗盛息子、時忠従兄弟、息子と名前が上がっていく。僧侶・侍合わせて38人、女房43人が捕虜である。清盛の一族の中で生き残った者たちである。
第11巻「文之沙汰」は興味深い。神器奪還に功があったという時忠であるが京で引き回しの後、義経宿舎の近くに時実と共に押し込められている。時忠は言う、義経に文箱を取られた、中身を頼朝に見られたら拙い。時実は義経に娘をやって取り返そう。18歳の娘は惜しいからと23歳の娘を義経に差し出す。義経はあっさり箱を返し、時忠は燃やしたという。娘の話はともかくも文箱の話はどうだろうか、いくら何でも義経もそこまで馬鹿ではないだろう。でもここには何か暗示があるような気がする。時忠は「日記の家」の生まれだと冒頭に書いた。時忠自身も日記を書いていたのではないだろうか。子々孫々へ渡すべき記録としての日記。断片ではあっても時忠はこの時までは何か持っていたのではないか。頼朝に見られたら拙い何かが書いてあったとしても交渉には使えない何か。
時忠は抵抗空しく能登へ流罪となる。第12巻「平大納言流され」なのだが、ちょっとおかしなことがある。長男時実が上総に配流はいい。次男時家16歳が母親の兄の元に居て、母帥の輔と共に時忠の袖にすがって泣いたというのだが、次男時家というのは治承3年(1179)の段階で上総に流され上総広常の婿になり、頼朝の近臣となっていたのだ。流罪の理由もはっきりしないようだが、この件で父や兄に何か含むところがあって頼朝に仕えたのかもしれないし、親に連座してというのでもないのに、流罪になったことを考えるとこの時点で16歳とも思えない。

元暦2年9月(1185)時忠は能登へ向かう。堅田で歌を詠んでいるから、琵琶湖西岸を北上し敦賀へ出たことは間違いない。妻子とは京で分かれた。郎党は何人か付いていたのか。敦賀以降のルートはどうだろう。敦賀から輪島か曽々木へ船で行ければ楽だろうが、どうだったろうか。陸路なら越前・加賀を通り七尾、七尾から穴水、その先はどうだっただろう。


時忠の墓のあるのは、半島の先端部近く北側である
大谷というの集落の手前で海岸線から山地に入る。大きくループする立派な道がついている。意外に奥へ入る。もっと海岸に近いところかと思っていた。直線距離でも1.5km以上あるだろう。道路上に駐車スペースとお金をかけたらしい案内板がある。墓はここから谷へ下ったところで工事現場用の仮設階段で降りるのである。
時忠と一族の墓は揚羽蝶の紋をあしらった柵の中にあった。一族の墓として、五輪塔が十数個並んでいる。

時忠の歌が書かれた標識がいくつかあったのだが、その一つが「能登の国、聞くも嫌なり珠洲の海、再び戻せ伊勢の神垣」というものであった。聞くも嫌な珠洲の海鳴りはここまで響いて来たろうか。さすがに同情したくなる。ただ、時忠はそもそも伊勢平氏ではないし、余りにあけすけな書きようは時忠の実作ではなく後世の狂歌だろう。平家物語第12巻「平大納言流され」で時忠が読んだとされる歌は「かへりこむことはかただにひきあみの めにもたまらぬわがなみだかな」だし、道路脇の碑には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」があった。
近くを流れる川は烏川と云い平家の守りである烏に導かれ、時忠たちはこの谷に住んだという。
伊豆の流人頼朝の元へは比企の尼がせっせと仕送りをしていたという。鬼界が島に流された成経の元には舅の教経が仕送りをしてくれていたという。時忠の元に仕送りはあったろうか。

奇怪な形状の岩々が続く海岸線を12~13km西へ行くと曽々木で、近くにたいそう豪壮は大庄屋屋敷のようなものがある。

上時国家で下時国家合わせて時忠の子孫を名乗っている。時忠が能登でもうけた子供の一人時国を初代とする家だという。但し戦国時代を遡る記録はないようだ。(網野義彦「海から見た日本史像」)ここの村の石高は300石、ほとんど平地がなく米の穫れない能登にしては採れる方だが、主に海運で栄えたようだ。

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長谷部信連と平時忠 1 信連

2020-07-07 | まとめ書き

平家が歴史の表舞台から姿を消し、頼朝の覇権が明らかになった頃、平家物語を彩った二人の人物が能登に住居を移し、そこで生涯を終えた。二人の年齢も立場も著しく違う。
一人は長谷部信連であり、もう一人は平時忠である。

長谷部信連は、平家物語 第4巻に章題が「信連」とある章があり、その活躍が語られる。
平時忠は、物語の随所で、驕る平家を象徴する者として、或いは宗盛と並ぶ平家の総帥として、また一族の滅びの中で自分だけは助かろうと画策する様、流人として流される様が描かれる。

平家物語の長谷部信連は格好がいいったらない、挙兵計画が漏れたという源三位頼政からの急報に以仁王を逃がし、女房達も立ち退かせ、高倉御所を片付け、以仁王の忘れた笛を届けたりもする。そして押し寄せた平家の追っ手300余騎を相手に大奮戦。しかし多勢に無勢で生け捕られる。宗盛は斬り捨てよというのだが、信連は平然と反駁する。これが清盛をして信連を惜しませ、先年の盗賊退治の功も現れ、死罪から伯耆遠流となる。平家滅んだ後、頼朝は信連を召しだし、御家人に加える。
この格好の良さが浮世絵などでの人気の画材となった由縁だろう。明治の浮世絵絵師芳年の絵は、江戸時代から続く信連の一般的イメージを写しているのだろう。

女装した以仁王と御付きが被っているのは虫垂れ衣という。これを被った以仁王は大溝を飛び越え大股で歩いた、とある。さてこれを見送る信連はあまり若くはないように見える髭面である。しかし精悍そうである。健保6年(1218)72歳で死んだというので逆算すれば以仁王の乱、治承4年(1180)には33歳だったということになり、経験からくる知恵・分別、肉体的強靭さなどがバランスした30代であったことはうなづける。治承寿永の騒乱期、活躍したのは義仲とその乳母子たち含め30歳前後が多かった気がする。信連の生年は久安3年(1147)ということになり、頼朝・宗盛とも同年生まれ、ということになる。

頼朝に召し出されたのは文治二年(1186年)というから6年以上を流刑地の播磨で過ごしたことになる。どのようにしていたのかは不明だが鳥取県日野町の長楽寺という寺は信連の再建ということになっているようだ。

頼朝は信連を最初は検非違使に、ついで能登国大屋荘の地頭とした。
大屋荘と云うのは随分大きな荘園のようだ。10村をまとめたものだ。穴水周辺だけかと思っていたら輪島にまで及ぶ。信連の墓は輪島にあるということなので実際に広く所領としたのだろう。それどころかその勢力は加賀の山中までも及んだらしい。山中にも長谷部神社がある。

この図は「趣味人倶楽部」というサイト(https://smcb.jp/diaries/8135257)から拾ったが、元は「輪島の歴史(市制50周年記念誌)」らしい。 
荘園なのだから、領主がいたと思うのだが、誰だったのだろう?

穴水町に長谷部神社がある。長谷部神社は穴水湾に面して立つ。

穴水の湾は深く複雑な形をしている。七尾湾は能登島を咥えこんだようになっている湾口だが、その北側に入り込むのが穴水湾だ。ボラが入り込んでくる地形らしく、穴水湾の中の湾の一つの中居湾という所にボラ待ち櫓があった。

七尾湾をはさんで、南に七尾、北に穴水である。

能登の国府は七尾である。羽咋から七尾にかけては地溝帯で、古くは邑知潟が大きく広がり、多くは湿地だった。弥生・古墳時代の遺跡はこの湿地の縁辺にある。
七尾に比べれば穴水は新興だろう。遠江生まれだという信連が能登の冬をなんと思ったのかはわからないが、所領を得て腕を振るっただろう。30数年能登にあり根を下ろした。子孫は長氏と称し勢力を保つ。
ずっとのちの江戸時代の事、徳川幕府は加賀能登を領する外様前田家への楔の一つとして、天領を設け、土方氏を派遣する。土方領は長氏の旧領を受け継いでいるようだ。(網野善彦「海から見た日本史像―奥能登地域と時国家を中心として―」)



神社の狛犬があるべきところにお狐さんがいたのでお稲荷かと思ったら、信連が石見を流浪していた時、狐に助けられたという伝承があるようだ。利仁将軍と同じように、不思議な力を持った強い武者とみなされていたのだろうか。

長谷部神社に隣接し穴水町立資料館がある。
裏手には長氏の穴水城址がある。

 

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源源合戦の事 2

2020-05-07 | まとめ書き

源源合戦の事 1の続き、ナンバーは「源源合戦の事1」の表を参照

1180 治承4年 源頼朝 親戚 佐竹秀義ら 親戚 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる
1183 寿永2年 源頼朝 源義広 叔父 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟)
1184 寿永3年

源義経
範頼

従兄弟 源義仲 従兄弟 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ
1184 寿永3年

源頼朝

父の従兄弟
婚約者の父
源義高 従兄弟の子
娘の婚約者
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される
1184 寿永3年 源頼朝 親戚 一条
忠頼
親戚 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される
1185 元暦2年 源頼朝 親戚 多田行綱 親戚 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。
1189 文治5年 源頼朝 源義経 義経奥州衣川で敗死
1193 建久4年 源頼朝 源範頼 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害
1219 建保7年 公暁 源実朝 叔父 頼家の子公暁が実朝を暗殺する

保元の乱から治承寿永の戦乱の時まで話は飛ぶ。これまでとは違い、直接・間接の戦いであれ、⑯以外の勝者は全て覇者頼朝だ。

1180 治承4年 石橋山の敗戦から一転、大軍を率い戻ってきた頼朝は、富士川の合戦に戦にならぬほどの敗走した平家軍を追うことなく、向きを変え、常陸の佐竹氏を討つ。⑧金砂城の戦いである。三浦・千葉・上総の面々が佐竹討ちを主張したという。関東での武士団の所領争いの方が平家追討より先行する問題だったのだろう。
ところで、この佐竹氏もまた源氏である。祖は義家の弟新羅三郎義光。②の常陸合戦で甥義国を追い返し、③のこれも甥義忠殺害事件の真犯人とされる義光である。義光の孫の代から佐竹郷に住み佐竹を名乗った。佐竹秀義はそこから3代目。佐竹は長く上総広常と相馬御厨を巡り争ってきた。戦いの当初、2代目当主の兄は上総広常に殺された。これでは簡単に頼朝軍に降るわけにはいかないだろう。義秀は奥州合戦の前には頼朝の軍門に降るのではあるが、金砂城の戦いに敗れた時には奥州へ逃げる。

金砂城の戦い直後、頼朝は義広・行家の二人の叔父に会う。行家は以仁王の令旨を携え、既に頼朝とは会っていたはず(行家は義広の所にも我兄なればとて令旨を届けている)だが、義広とは初対面だったろう。義広の本拠信太(志太、志田)荘は現在の稲敷市であり、霞ケ浦の南、常陸とは言っても佐竹の本拠とはかなり離れてはいるが、利害こもごもあった事だろう。どう受け止めたかはわからないが、少なくとも頼朝とは合流しなかったのは、気に食わなかったということだろう。
義広は為義の三男であり、義賢と同母だ。長兄義朝との関係はわからない。平治物語には行家と共に義朝に従っており、最後義朝と別れ落ちているのだが、眉唾の気がしてならない。角川ソフィア文庫の「保元物語」の註には義広は河内長野にいたとある。「山塊記」にそうあるそうだ。それも不思議な気がしてしまう。保元の乱から平治の乱までわずか3年、義広は兄弟のほとんどが参じた為義方へは行かず、また関東武士団の多くを動員した義朝方へもつかなかった。野口実の「源氏と坂東武者」によれば全てが義朝との主従関係があった訳ではなかろうが、保元には全関東と言っていい地域から多くの武士団が参集しているが、平治の乱ではわずかに三浦・山内首藤・渋谷・上総・長井(斉藤)・足立・平山を数えるのみだ。平治の乱は清盛熊野詣の隙を突いたクーデターであったので、これらの関東武士はたまたま在京していたらしい。義広もたまたま関西にいたのだろうか?しかし、保元の乱の前年、同母の兄義賢は義朝子義平に殺されている。関東にいようが関西にいようが、義広が義朝に合流するだろうか。
ともあれ治承4年の時点で、義広は頼朝を斜めに見た。そして寿永2年(1183)、義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、下野の野木宮へ向かう。だがこれって本当に鎌倉を攻める気だったのか?信太から野木宮は西北方向に直線距離で65km程である。鎌倉を討つというより、下野の足利と一緒になり、上野、更に信州の義仲に合流しようとしたように見える。行家は既に義仲を頼って行っている。頼朝の義仲を討つという信州入りに、義広の動向も関係していたのだろう。下野は足利氏の地盤であり、足利もまた源氏である。②の常陸合戦で新羅三郎義光に負けた義家四男義国の子孫である。以仁王の挙兵時、宇治川の橋板を落とし平等院に立てこもる源三位頼政を攻める平家軍の先頭に立ち、馬筏を組んで宇治川を押し渡ったのは若き足利忠綱であった。おいそれと頼朝の下に付こうとは思われない一族だが、彼らも所領をめぐり様々な利害関係があったらしい。足利の一族の小山朝政は義広に味方につくと見せかけ、だまし討ちに義広軍を破る。野木宮合戦に敗れた義広は逃げ出して義仲の下へ行く。義広は義仲が粟津で戦死したのちも抵抗したが、殺されたらしい。ただ平家物語では行家と共に義経が九州へ向かおうとした船に乗り難破したことになっている。

寿永2年3月、義仲・頼朝の中が一触即発となる。
文字通り日本史上初の東国政権・武家政権を制度として打ち立てた頼朝だが、自ら兵を率い、合戦に赴いたことは少ない。挙兵と石橋山の戦いはともかく、房総半島を回り、鎌倉入りするまでのは大変な緊張を強いられるものではあったろうが、合戦とは言えない。富士川の戦いもとても合戦と云えるものではなかった。しかし常陸の佐竹討ちは親征だ。
そして頼朝は信州善光寺まで兵を率いてやってきた。という話自体どっかおかしい気がするが、物語ではそうなっている。この時は合戦になっていない。上田の依田城にいた義仲が頼朝との戦いを好まず、今井兼平の猛反対を押し切り、嫡子義高を送ってまでして頼朝との衝突を避けたからだ。
戦っていたらどっちが勝ったろう、義仲に分があったのではないか、と義仲贔屓の私は思ってしまう。そして頼朝のもとにいた京下りの官僚どもを我手に収めてしまえば、京都であれほど苦しまずに済んだのではないか。ただどちらも大きく傷ついただろう。平家物語の義仲の言「平家に笑われんとは思うべき」は真っ当過ぎた。
もう一つの頼朝の親征は奥州攻めだ。既に義経の死んだ後にも関わらず義経を口実にしていることを思えば、頼朝の親征はみな一族がらみだ。

寿永2年(1183)5月倶利伽羅峠に平家の大軍を破って以仁王の遺児を奉じ北陸路を抜け入京した。寿永3年1月まで、1年に満たぬ時を木曽義仲は文字通り疾風怒濤に駆け抜ける。いっときの栄光と失意と敗残。⑩ ここに記すには余りありすぎる義仲だ。

⑪は合戦ではない。義仲の子義高が頼朝に殺された。義高は頼朝長女大姫の婿ということになっているが、実質上人質であった義高は、父と頼朝が敵対し、父が死んだとなれば命はない。だから大姫も必死で逃がそうとし、義高も逃げ出したのだろう。あまりに幼い夫婦で子供のできようもなかったであろうが、頼朝の孫にして義仲の孫、というのは見てみたかった。
ところで義高が鎌倉を脱出する際、海野幸氏という同年代の側近の少年が身代わり役を務める。頼朝はこの少年を殊勝であると許し家来に加える。海野幸氏は弓の名手として知られるようになり、「曽我物語」の中にもちらりと登場する。幸氏の父(兄?)幸広は義仲の信頼する部下であり、平家追討の侍大将を務めるが、平家得意の海戦となった水島の戦いで敗れ、戦死している。

鎌倉時代初期、北条氏による有力御家人、和田(三浦)・梶原・畠山・比企の掃討はよく知られているけれど、始まりは寿永2(1183)年12月の頼朝による上総広常殺しではないだろうか。上総広常は保元・平治の乱を義朝方で戦い、石橋山で敗れ安房を巡ってきた頼朝を迎え入れた。不遜な言動が多かったとされる広常だが、彼がそっぽを向いていたら、頼朝は鎌倉入りもおぼつかなくなっていたと思われる。頼朝・広常双方、それが分かっていたのだろう。少しでも権威を傷つけるものは消す、それも真っ向から非を唱えて討つのではなく、謀殺する。広常は梶原景時とすごろくに興じていたところを天野遠景に殺された。
このやり口は、次の⑫一条忠頼殺しにも引き継がれる。というか、忠頼殺しは広常殺しにそっくりだ。一条忠頼は武田信義の嫡男、甲斐源氏だ。新羅三郎義光の系統になり、常陸の佐竹氏とは同族だ。佐竹攻めをどう見ていたのか、義仲とも関係はどうだったか知らない。ともかく頼朝の反乱軍に同盟に近い関係で加わり、富士川の戦い直前、平家の大軍を解体寸前に追い込んでいた。そして駿河を実効支配した。
「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と言われて殺された忠頼だが、広常以上の自負があり、家柄も頼朝に劣るとは思っていなかったろう。1184年(寿永が元暦に改元)6月、忠頼は鎌倉で酒宴の最中に暗殺される。最初は工藤祐経が討手とされていたがびびった。脇から小山田有重出てきて忠頼の気をそらし、天野遠景が討ち取ったという。
工藤祐経は「曽我物語」の敵役だが、武芸者ではなかったようだ。

⑬は合戦ではなく、さらに暗殺でもなくただの追放劇である。
多田行綱というのは平家物語の鹿谷の陰謀事件での密告者としてあまり格好の良くない役を振られている。義仲に呼応するが、法住寺合戦では後白河方、義経が来ると一緒に義仲を攻め、平家追討にも加わる。一の谷も鵯越えの奇襲攻撃も、義経ではなく行綱だともいわれる。なるほど摂津源氏の行綱の方がはるかに地の利はあっただろう。義経が都落ちする際は大物浦へ向かう一行を河尻の戦いで邪魔をしている。どうも腰が据わらないというか、どっちつかずで信が置けない人物に見える。京武者と云えばそうなのだろうが、同じ摂津源氏でも頼政の和歌詠みとしての優雅な貫禄、老いの一徹を感じさせる死にざまに比べると明らかに劣る。
しかし、この多田行綱は清和源氏の正当な嫡流と云える。実質的な清和源氏の祖多田満仲の長男が鬼退治伝説に彩られる頼光で、満仲以来摂津を本拠地とした。頼光の弟頼信が河内を本拠とし、頼信の孫が義家で、頼朝は河内源氏だ。
清和源氏としての源流を求めるならは多田満仲の故地、行綱所領こそ求めなければならない。行綱が小人といえども放置してはおけなかったのだろう。


⑭ 文治5年(1189年)閏4月義経死す。文治2年都落ち以来、彷徨っていた義経は奥州平泉に逃げ込む。10代からの恩人藤原秀衡は暖かく迎え入れるが文治3年10月北方の王者秀衡は死ぬ。諸兄国衡との軋轢も抱えた泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、衣川の義経館に攻め寄せる。義経は自害した。
なんと頼朝の奥州攻めはこの後から始まる。泰衡には義経を討てば許されると示したはずである。「弓箭をふくろにすべし」と後白河も云った。しかし頼朝の目的は奥州征伐、都市平泉の壊滅であった。これまで義経を匿ってきた事を言い立てて奥州攻めを敢行する。それは自らを八幡太郎義家になぞらえ、示すことでもあった。頼朝は義家と同じ旗指物まであつらえたという。つい最近まで不便な湿地の多い海人・野鼠の棲み処と云われた田舎に過ぎなかった鎌倉を東日本の中心とするためにも、物流・文化の中心、富の三点セットを持つ平泉を破壊しなければならなかった。(木村茂光「頼朝と街道」)


奥州征伐を終え、建久3年(1192)には頼朝は征夷大将軍となる。中年以上の年代の人なら「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えたはずである。翌建久4年、頼朝は大規模な巻狩りを催す。名実ともに鎌倉殿を頂点とする政権が樹立したのだ。軍事演習を兼、鎌倉殿の威勢を示す大イベント。頼朝嫡男頼家が初めて鹿を射た。大団円で終わるはずだったこのイベントの最終日、あろうことか、鎌倉には頼朝が死んだ、という知らせがもたらされる。起こったのは曽我の仇討と呼ばれる事件であり、もちろん頼朝は無事だった。しかしこの誤報には単に混乱していた、という以上の不穏さを感じさせるものがある。余りに容易く曽我兄弟は陣屋に入り込んだ。曽我五郎は頼朝の居室まで入ってきたのだ。手引きがいて、頼朝の首を狙った可能性・・・あまりに早い鎌倉への知らせ、真偽不明の混乱というより、頼朝は殺される前提で使者が走ったのではないか。当然頼朝は疑っただろう。まして、弟が「鎌倉殿が没しても私がいる」などと口走ったと聞けば・・・俺が死んだらお前がどうすると! かくて範頼は修善寺に閉じ込められて殺される。⑮

もはや源氏の主だったものは誰もいない。その頼朝も5年後には死ぬのだが、死因もよくはわからない。日本史上大きな転換点を乗り切り、間違いなく新しい地平線を見た10指に入る歴史上の偉人、源頼朝は間違いなくそれだ。しかし、脳溢血か心臓発作で落馬して死んだ、というのが一番穏当な説。もちろん暗殺説もある。何しろ吾妻鏡は建久9年の分がないのだ・・・

若くして頼朝を継いだ嫡男頼家、御家人たちと、特に北条とうまくいかず、修善寺に閉じ込められて殺されるのだが、その前に実朝擁立の動きに反発した頼家は、阿納全成を関係していたとして殺す。全成は義朝の七男、義経の同母兄であり頼家の叔父である。北条政子の妹阿波局と結婚していた。全成の死で義朝の男子9人はすべて死んだ。

最後⑯は3代将軍実朝が2代目将軍で実朝兄の頼家の子公暁に殺された、というもの。源氏得意の叔父VS甥のパターン。公暁に手引きがいたことが強く疑われはするのだけれど。

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小倉百人一首と平家物語

2020-05-07 | まとめ書き

 小倉百人一首には歌番号があり、おおむね時代の順で並んでいる 
 選者の藤原定家その人が平安末から鎌倉時代を生きた人なので、平家物語の時代をも含めたものである 
 76番の法性寺入道前関白太政大臣というのは藤原忠通の事である。平家の栄華と没落の時代は主に彼の子供たちの時代ではあるけれど  大きな時代の変換点だった保元の乱に大きくかかわった彼くらいから始めるのが順当だろう 。
 99番は後鳥羽院である。平家物語に出てくる彼はまだ幼児である。安徳に代わる帝として、後白河の傀儡として登場する。 
 この76から99の24人だが、多少ググっても歌人としての経歴しか出てこなかった人たちは書きようがない。 
 しかしその人ではなく主人や親が平家と関わり合いの強い人はそれについて書く 
 



76  わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ 
   法性寺入道前関白太政大臣=藤原忠通 
この歌は好きである。「わたのはら」で始まる歌は他に小野篁の 「わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね」があるのだが、流罪になる篁の悲壮感もいいが忠通の伸びやかなのもいい。
忠通は和歌はよかったが、摂関家の家長としての力量はどうであったか、少なくとも父忠実は力量なしと見たようである。忠実の自慢の息子は忠通弟の頼長で、頼長は学才に秀でていたが和歌は苦手だったようだ。だから忠通は和歌に励んだのかもしれない。
忠通は他の氏族との政争よりも父・弟との争いに忙しい。ただ近衛の死後の後白河の即位に関して等、美福門院と手を結び素早い動きを見せている。
男児がいないとして、頼長を養子に向かえざるを得なかった忠通だが、後には続けて多くの子に恵まれている。基実・基房・兼実・慈円などである。基実は若くして死ぬが二条帝を支え後白河と対抗する人材であった。基房は松殿として知られ「殿下の乗合」の一方の主人公であり平家とは相いれず義仲を婿にしたりする。慈円は「愚管抄」の作者、更に平家物語の成立に深くかかわったとされる。兼実はその日記「玉葉」がありこの時代とは切っても切れない。


77  せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ 
     崇徳院
この歌も好きである。「むすめふさほせ」一字決まりの歌であるので覚えたのは早い。加えて恋の一途さを充分描いている。日本一の大魔王の歌とも思えない。この人は鳥羽の子ながら実は曾祖父白河の子という噂あり、父に嫌われたという。これは「故事談」に書かれ広く流布された話であるが、元木泰雄編「保元・平治の乱と平家の栄華と」の冒頭の佐藤健治の「鳥羽院・崇徳院―崇徳院政の夢」の実証的な研究がこの蒙を破る。歴代の天皇親子の付き合い方、鳥羽-崇徳の付き合い方を細かく調べ上げ、鳥羽は決して崇徳を嫌っていなかったと論証する。むしろ親しい親子関係であった。しかし最晩年の鳥羽が崇徳を遠ざけたことは事実であり、これは美福門院の讒言に他ならないだろう。後妻が前妻の子の相続を妨げる策謀と言えばそれまでだが、最晩年床に伏し、頭脳も朦朧となった鳥羽には利いたのであろう。考えてみれば昭和の事件について同時代資料に近いというだけの理由で週刊誌の記事を論拠にしたものが信じられるだろうか。「故事談」は「故事談」で価値があるが、面白おかしく流布されすぎたようである。
しかし、崇徳の怨霊が祟りをなす、という畏れは平家物語の時代、即ち心疚しい後白河の時代を通して世を覆うのである。


78  あはぢしま かよふちどりの なくこゑに いくよねざめぬ すまのせきもり 
   源兼昌

 この歌もわりに好きなのだが、源兼昌と平家物語の関係を見いだせなかった。


79 あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいづるつきの かげのさやけさ
    左京大夫顕輔 
    この歌はもっと好きである。シャープな月影。顕輔は白河の近臣だったという。


80 ながからむ こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもへ 
    待賢門院堀河
歌は色っぽいというのか女の情念が黒髪にあいまり纏わりつくというのか、ちょっと苦手かも。「みだれそめにし」とよくお手付きをした。
 待賢門院堀河という人については知られた歌詠みというしか分からないが、彼女の仕えた待賢門院は無視できない。白河の養女にして鳥羽の后、崇徳・後白河の母である。大変な美少女だったらしいが、ゴシップはかなり早くからあった。藤原忠実の日記「殿記」によれば長子忠通との縁談を素行を気にして断ったとか。これは崇徳の出生と直接関係はしないが「故事談」の補強とはなっただろう。どのような美女もいつかはその美貌に影が差す。鳥羽の寵愛はいつしかより若い美福門院に移る。


81       ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
     後徳大寺左大臣
   藤原実定の事である。これは平家物語でおなじみの人物。近衛の后にして二条に請われ二代の后となった多子の弟である。且つ、清盛の歓心を引かんがため厳島神社に詣で、内侍たちを歓待するところが描かれる(第2巻「徳大寺厳島詣出の事」)更に福原遷都について行ったものの新都造営は道半ば、京都が恋しくて、姉多子を訪ねるのである(第5巻「月見の事」) ほととぎすの歌は一字決まりである故早く覚えはしたが、面白い歌とも覚えなかった。しかし、多子とのやり取りを踏まえると、時局に振り回され、ただ月ぞ残れると詠嘆するしかなかった、と云うのが観取され、また違った趣が感じられる。


82   おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり 
    道因法師 
作者について知るところはない。歌留多を取るときには 「おもひわび」と「うらみわび」が常にごっちゃになり嫌いだった。


83   よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる
    皇太后宮大夫俊成 
藤原俊成、定家の父にして忠度の師。忠度は寿永2年の都落ちに際し、俊成に歌集を託す。(第7巻「忠度都落ちの事」)勅撰集が編纂される時には一首なりとも、という忠度の願いを俊成は「さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」の一首を読み人知らずで入れることで応える。「よのなかよ」よりも「さざなみや」よりも私は忠度の鎧に結ばれていたという「行き暮れて木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」の方が好きだ。


84   ながらへば またこのごろや しのばれむ うしとみしよぞ いまはこひしき 
        藤原清輔朝臣 
六条流の歌人で御子左の俊成の対抗馬だったというが知るところはない。今見てもなにやら難しい歌で子供のころは「憂し」を牛と思い何の歌かわからなかった。牛車の牛と一緒に見ていた世の中?・・・


85   よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
    俊恵法師
かるたの読み札の俊恵の肖像は酷くしわくちゃのじいさんで、坊主めくりの中でも疫病神のように思えた。鴨長明の和歌の師だそうだ。


86   なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
    西行法師 
数多い西行の歌の中で何故この歌が百人一首?というのは多くの人が抱く疑問だろう。なんだか妙な理屈で月と涙をこじつける。西行は平家物語には登場はしない。ただ、北面の武士になったのは清盛と同期であり完全な同時代人である。平家物語の海道下の小夜の中山は明らかに西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」をなぞっている。西行の歌より重衡の鎌倉行の方が先行するはずなのではあるが。

徒然草第10段に西行と後徳大寺実定との話が出てくる。81番ほととぎすの実定である。西行は実定邸の屋根に鳶除けの縄が張ってあるのを見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき」と非難し、行くのを止めたという話がある。兼好は他の家での屋根の縄の理由を鳥が池の蛙を取らないようにするためと聞き、後徳大寺にも何か理由があったのだろうとしている。


87   むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ 
    寂蓮法師
 俊成の養子となった歌人とか。一字決まりの始めの歌、いい歌だと思う。


88   なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき
    皇嘉門院別当
「なにはえの」「なにはがた」「みをつくしてや」「みをつくしても」上の句・下の句共にお手付き頻発の地雷札。作者についてはよくわからないが仕えた皇嘉門院は崇徳中宮で忠通の娘であるので保元の乱では父と夫が対立したことになる。子供はいなかった。


89   たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 
    式子内親王
後白河の娘、以仁王の同母の姉。加茂の斎院。和歌が苦手で今様狂いの父とは違い、和歌に才能があったようであるが、後鳥羽が評したと云う「もみもみ」とした感じというのが私はおそらく嫌いである。


90   みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
    殷富門院大輔
作者はよく知られた歌人らしい。この歌は院政期というより、王朝、摂関時代の女房と貴族のやり取りの歌のように思える。
仕えた殷富門院(亮子内親王)は後白河の娘、以仁王の同母姉、つまり式子内親王と姉妹である。


91   きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ
    後京極摂政前太政大臣
九条良経の事である。九条兼実の子。歌は面白いとも何とも言いようがないが、少なくとも百人一首唯一虫が出てくる。百人一首に出てくる動物は鹿と鳥くらいだ。

この人は38歳で急死しているが殺された可能性が高いそうな。しかも天井から槍で突き殺された説もあるそうな。


92   わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし
        二条院讃岐
  源三位頼政の娘にして二条帝に仕えた。仲綱と同母。頼政と同じく和歌を得意とした。この歌は評判だったらしく沖の石の讃岐と呼ばれている。讃岐という名前がどこから来たかわからない。少なくとも頼政は讃岐とは関係ないようだ。二条院亡き後どうしたかはよくわからないようだ。結婚したのだろうが、諸説あるようだ。頼政同様長生きで、頼政から引き継いだ若狭小浜の宮川保の事で70余歳で鎌倉へ訴訟に赴いた。


93   よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
    鎌倉右大臣
三代将軍実朝の事だからさすがに平家物語とはこじつけにくい。歌は「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」の方が好き


94   みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
    参議雅経
飛鳥井雅経の事である。後鳥羽の近臣であり頼朝にも気に入られていたようである。


95   おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで 
    前大僧正慈円
平家物語の成立に切っても切れない縁があるであろう天台座主の慈円。大懺法院を作る。徒然草で平家物語の作者と伝えられる信濃前司行長も扶持した。但し藤原行長、下野前司であったらしい。この人が慈円の援助で書いたと。もちろんいろんな説がある。慈円その人を作者に充てる人もいる。
慈円は知られた歌人だというが、この歌は好きではない。


96   はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
    入道前太政大臣 
西園寺公経の事。頼朝とは親しく関東申次として朝廷で力を持つ。承久の変でも後鳥羽院に従わなかった。

この歌の趣旨は小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」にそっくりだ。そしてそれ以上のものではない。


97   こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ 
    権中納言定家 
小倉百人一首の選者と知られる歌人だが、平家物語との関わりは知れない。この歌は定家の作と知るまでは王朝時代の女房の歌だとばかり思っていた。よくわからないが、この歌が自分で選ぶほど会心の出来だったとでもいうのだろうか? 確かに言葉の調べ流麗にして、待つから松へ、浜辺の風景から塩焼へ、やくやもしほ と歌い上げていく魔法のような言葉遣い。でもなんだか言葉遊びのようだ。


98   かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける
    従二位家隆 
定家の従兄弟だそうだ。この歌は好き。「ならのをがは」は下賀茂神社の中にある。


99   ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは 
    後鳥羽院
後鳥羽院に同情的になれないのはこの歌が好きではない所為もあるのではないかと思う。「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」だったら嫌いにはならなかったかも。
平家に出てくる後鳥羽は高倉の第四皇子尊成親王で安徳の弟、まだ4歳の幼児である。高倉の4人の男児の長子は安徳で西海にある。2番目も平家が連れて行った。京にいるのは3男・4男。義仲は以仁王の遺児北陸の宮を奉じるのであるが、後白河は強引に四宮の即位を決める。この時平家物語によれば後白河は三宮・四宮を召す。三宮は大いにむずかり、四宮はにこにこと後白河の膝に乗ったというのだが、見知らぬところへ連れてこられ、見知らぬ年寄に近づかせられたら泣きわめくのも幼児の正常な反応だと思う。(第8巻「山門行幸」)
後鳥羽は安徳が退位しないまま、三種の神器を欠くまま即位する。
次に後鳥羽が平家物語に出てくるのは第12巻「六代の斬られ」である。後鳥羽は遊び好きの暗君とある。文覚は毬杖冠者と後鳥羽をののしっている。文覚は後鳥羽を退位させ高倉の二宮を即位させようと画策する。文覚は佐渡へ流されるのだが、平家物語では隠岐へ流されたこととし、後鳥羽を「文覚が流されるところへ向かへもうさむずる」と言わせ、承久の変で後鳥羽が隠岐に流されたことと合わせている。

百人一首の100番目は順徳院、後鳥羽の子供である。
「ももしきや ふるきのきばに しのぶにも なおあまりある むかしなりけり」
しょうもない歌と思ってきたが、一つの時代の終わりの詠嘆と思えばそれなりに。

 

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源源合戦の事 1

2020-04-12 | まとめ書き

源平の合戦は華麗だ。源氏の白旗、平家の赤旗。白旗にあしらわれるは凛々しい笹竜胆、赤旗には蝶が舞う。

平家に比べ源氏は仲間内での争いが多いとされる。本当に多いのだ。この源源合戦ともいうべき争いはただ泥臭い。

義家のころから鎌倉幕府成立期まで、最初のと最後のはちとはみ出すが、12世紀を中心に16件を拾ってみた。暗殺もあるので合戦と云えないものもあるが、数年ごとに酷くいがみ合ってきた河内源氏だ。どこの一族でもあることなのかわからないが、血の気が多いとはいえるだろうか。

ここでは①から⑦の保元の乱までを書いてみる。

  西暦 和暦 勝者 関係 敗者 関係 概要
1091 寛治5年

源義家

源義綱 河内にある郎党たちの領地をめぐり義家と合戦寸前にまで至るが、二人の主人である関白藤原師実が仲裁
1106 嘉承1年 源義光 叔父 源義国

常陸に勢力を持つ義光の所へ義家息子(義親・義忠の弟)義国が押しかけ、常陸国において合戦する。「常陸合戦」と言われる。義国は上野に退き、新田・足利氏の祖となる

1109 天仁2年 源義明
源義綱
従兄弟
叔父
源義忠 従兄弟
義家の息子(義親弟)義忠が源家棟梁となるが殺される。義明が犯人とされるが真犯人は義家・義綱の弟義光ともされる
1109 天仁2年 源為義
(甥の子)
義綱一族 叔父
(父の叔父)
為義は義家の孫(義親息子)だが義家の養子になっている。白河院の命を受け義忠殺害犯とされた義綱一族を討つ。義綱息子たちはみな自害、義綱自身は佐渡へ流されるが後に殺される
1130 大治5年

鴨院義親

大津義親 義親は天仁1年(1108)出雲で平正盛に殺されたことになっているが、生存説があり偽?義綱が何人も現れている。これは義親を名乗る者同士の合戦。大津義親が討たれるが直後鴨院義親も殺害される
1155 久寿2年 源義平 源義賢 叔父 義朝長男義平は武蔵の大蔵にいた義賢を急襲、義賢らを殺害。2歳の義仲は木曽へ逃れる
1156 保元1年

源義朝

息子
源為義
為朝ら

保元の乱、乱後義朝は父為義を斬首
1180 治承4年 源頼朝 親戚 佐竹秀義ら 親戚 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる
1183 寿永2年 源頼朝 源義広 叔父 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟)
1184 寿永3年

源義経
範頼

従兄弟 源義仲 従兄弟 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ
1184 寿永3年

源頼朝

父の従兄弟
婚約者の父
源義高 従兄弟の子
娘の婚約者
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される
1184 寿永3年 源頼朝 親戚 一条
忠頼
親戚 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される
1185 元暦2年 源頼朝 親戚 多田行綱 親戚 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。
1189 文治5年 源頼朝 源義経 義経奥州衣川で敗死
1193 建久4年 源頼朝 源範頼 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害
1219 建保7年 公暁 源実朝 叔父 頼家の子公暁が実朝を暗殺する

父頼義を継ぎ、前九年・後三年の役で勇名をはせた義家は八幡太郎を名乗る。同母の弟義綱は賀茂神社で元服し鴨次郎を名乗り、その弟義光は新羅神社で元服し新羅三郎を名乗っている。異腹の弟快誉は園城寺で出家している。
源氏は摂関家の家来としてその荘園を守る武力としてあった。摂関政治は天皇に代わり摂政や関白が政治をしようという政治形態であるから、院政とは相いれない。院政は天皇に代わりその父・祖父が政治をしようという話だから、摂関家と院はライバル関係になる。したたかな院の出現は摂関家には打撃だ。白河院がこれに当たる。摂関家の藤原頼道の子師実までは尊重も協力もしたが、師通が死に若くして忠実が継ぐと当然のように頭を押さえにかかる。
天下第一武勇之士、源義家も白河は快くは思わない。源氏の力をそぐことは摂関家の力をそぐことにもなる。
後三年の役は私戦とされ(これは仕方ないかも・・)一切恩賞はなく、義家は私財を部下の恩賞に充てている。大変な物持ちだったことがわかるし、この事で東国の武者たちの義家への支持は大きくなる。
白河は義家への寄進等を禁じる。義家の対抗馬として義綱を優遇する。

①そして寛治5年(1091)義家と義綱は畿内で互いに郎党を率いにらみ合う。畿内で合戦などされてはかなわない。師実が割って入ったが、たぶん両人ともに不満が残ったろう。白河の義綱優遇はさらに続く。

②の常陸合戦だが、義国は義家の四男である。長男は早逝、次男義親は対馬の守に任ぜられ、悪対馬と呼ばれた武勇の士、三男は義忠。義国は乱暴者だったというがどんな史料があるか知らない。摂関家領上野国八幡荘をもらい、早くに上野に下向していた。常陸合戦は当時16歳だった云う義国が叔父義光に仕掛ける。15歳で大蔵館に攻め入り叔父義賢を殺した義朝長男悪源太義平の先輩格のようだ。対する叔父義光60余歳は負けてはおらず 、義国を常陸からたたき出してしまう。新羅三郎義光は後三年の役を兄義家と共に戦った後、常陸の豪族と婚姻関係を結び根を張っていたらしい。源家の子弟が地方豪族と結婚し、その地方で勢力を張る、というのは一つのパターンだ。貴種として京都とのつながりをアピールし、豪族の方でもそのつながりを良しとしたのだろう。頼朝が北条の娘と結婚したのも同じパターンだと言えるかもしれない。義光は佐竹氏と武田氏の祖となる。滋賀園城寺近くの新羅神社の義光の墓には明治時代のものだが佐竹氏の作った碑があった。
義国は後に足利の荘を立荘し新田氏の祖となる。新田義貞は義国の子孫ということになる。
嘉承1年(1106)この戦いの後、義家が死んでいる。

義家の後継者と目されていたはずの義親だが、九州で反乱を起こし誅されていた。隠岐へ流されていたという。反乱自体が奇怪な話なのだが、平家物語冒頭の猛き者たちが列挙の中に康和の義親がある。義親はさらに出雲でも乱を起こす。眉唾物ながらも、義親の乱を平定したのは平正盛となっている。白河院は源氏を押さえるとともに、平家を重用する。出雲から義親の首を掲げ凱旋した正盛は出世街道を歩む。

一方源氏は停滞を余儀なくされる。
義家の後は三男義忠が継ぐのだが、何者かに殺される。
③の義忠殺害事件である。表では勝者として従兄弟の義明・叔父義綱を挙げてはあるが、この事件は実に不可解な経緯をたどる。
百錬抄によれば、当初は何故か美濃源氏の源重実が犯人とされ逮捕されたが無実だとわかった。そして義忠が襲われた現場に落ちていた刀が義明のものだと判明する。義明父は表の①でも義家とはあわや合戦というにらみ合いを演じた。源氏の衰退を苦々しく思い、自分たちの方がマシだ、と思っていたかもしれない。義綱一族は挙げて無実を叫び猛抗議、甲賀山へ立てこもり抗戦。息子たちは次々自殺した。
攻めたのは義親の息子で義家の養子になっており義忠を継いだ為義で、白河院の命により追討した。これが④になる。息子たちの自害にも関わらず義綱のみは降伏、佐渡へ流される。
ところが義忠殺害の犯人は別にいた、という話が流れる。黒幕は義綱弟義光。②の常陸合戦の義光である。彼が義明の刀を持ち出させ、郎党に命じ義忠を襲わせた。しかもその郎党に手紙を持たせ、異腹の弟快譽がいた園城寺へ遣る。快譽はその郎党を殺す。何とも手の込んだことをしたものだが、尊卑文脈にあるこれが真相とされているらしい。したがって③は義光(叔父)VS義忠(甥)という構図にもなる。

これだけ混乱した一族だ、若くして家督を継いだ為義には手の打ちようもなかったろう。頼みの摂関家も力を失いつつあり、挙句忠実・頼長VS忠通でケンカ状態。白河院も手強かったし、鳥羽院も手強い。院には平家が取り入っている。
為義は地方に活路を見出そうと息子たちを地方へ送る。義朝を関東相模、為朝を九州へ、更に義賢を関東上野へという具合に。そしてそれも新たな軋轢を生むのだが後にして⑤の義親の話へ。

⑤は共に義親を名乗る二人の合戦である。これも③の義忠殺害事件と勝るとも劣らない奇怪さである。
義親は平正盛に追討されたはずだ。首が都でさらされたではないか。しかし勇猛で知られる義親が簡単に正盛に討たれたことに首をかしげる人は当初から居た。それでも、偽首なら義親本人が騒ぎ出すだろう、八百長だったのか?押さえ込まれていた疑問は約十年後、越後に義親と名乗る僧が現れることで再燃する。この僧はあっさり殺されるが、今度は常陸にも義親が現れる。この義親は捕まり京へ送られるが偽物とされ殺された。
更に数年後、義親と名乗る男が藤原忠実の鴨院に匿われた。鳥羽院の意向あっての事だという。忠実自身は義親を見知っていたと思われるので、既に誅されたとして追討使正盛に恩賞まで出しているので本者とも言えず・・という状況に見える。
更に四番目の義親が大津に現れる。鴨院義親と大津義親が京都で互いに郎党引き連れ乱闘に及び、大津義親が殺された。
 凱歌を挙げた鴨院義親だが、源光信が郎党を連れて鴨院を襲撃、義親を郎党もろとも殺害した、ということになっている。鴨院義親と大津義親の乱闘は光信邸前の出来事だったそうだが、義親?が居るとはいえ前関白屋敷である。この襲撃は余程義親の生存が都合の悪い輩=正盛を疑いたくなる。

茶番ともいえる義親騒動に比し⑥の大蔵合戦は保元の乱の前哨戦と云われ、遺恨は後の義仲vs頼朝の時代まで尾を引くものとなった。

為義は誰を後継者にしたかったのだろうか。長男義朝は、上総御曹司と呼ばれたくらいだから早い内から関東へ下向し、上総で過ごした期間が長かったのだろう。その間、次男義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)という官職を得る。東宮の警備職である。摂関家頼長の引き(男色関係)もあったりはするものの、都の官僚システムの中でうまくやっていける、というタイプではなかったようだ。為義自身も狼藉者をかばい匿い官職を解かれるが、義賢も同じようなものだ。
義朝は熱田神宮司藤原季範娘と結婚すると京へ帰ってくる。そのコネで上西門院、鳥羽院との関係を作り始める。
親兄弟でも気が合わないというか仲が悪いのはよくあることだが、為義―義朝の仲の悪さは何故だったのだろうか?
何しろ鎌倉殿の父君故、後から履いた下駄もあろうが、義朝はひとかど以上の武将であったように思える。関東武者たちを、保元の乱で動員出来るほどの関係を築けたのは、ただ源氏の御曹司というだけではなかったろう。長男であり、母は白河院近臣である藤原忠清の娘というから悪くはない。義賢の母は六条大夫重俊娘だそうだがよくわからないらしく、少なくとも義賢の母に勝るとも劣らない。息子たちを地方に遣り、それぞれに地盤を作らせよう、というのは為義にしてはいい考えだ。しかも義朝はそれに成功したのだ。おまけに良縁を得て朝廷へのコネも付けた。為義も義朝に乗っかればいいのだ。そんなことは話にならないほど親子の中は拗れていたのだろうか。
義朝は下野守となり、為義をしのぐ地位を得ると、為義は義賢を上野へ遣る。義賢の同母弟義憲(=義範・義広:以下義広)も関東へ下向する。茨城県稲敷市辺りへ行ったらしい。義広は⑨の野々宮合戦で登場する。
義賢は上野多胡荘を本拠地とし、南下を目指す。武蔵の最大武士団秩父氏の秩父重隆の養い君となり、武蔵国大蔵の屋敷に住む。義賢次男義仲はここに生まれる。
義朝は下野守になったといっても地盤は相模・上総だったろう。武蔵を義賢に押えられてはたまらない。長男義平に大蔵館を急襲させる。秩父氏も一枚岩ではなかったようだ。後に武蔵武士の典型、武将の鑑と云われた畠山重忠の父は義平についている。
義平は義賢・秩父重隆を討ち取り凱歌を挙げる。以後義平は鎌倉悪源太と呼ばれる。
時に武蔵国守は藤原信頼「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし」と平治物語でくそみその云われ様の信頼だが、能力はあり公卿としては武断的な人物だったかもしれない。この信頼と義朝は既に親しかったのだろう。信頼は義平の襲撃事件を不問に付してしまう。平治の乱で信頼を日本一の臆病者!と罵る義朝だが、この頃はありがたかい庇護者だったのだろう。
どうも為義は情報収集能力、根回しの仕方が義朝に劣るようだ。

ところで鎌倉悪源太義平だが、平治の乱後捕らえられ処刑されている。平治物語によれば、死後も雷となって祟ったりする。
この義平が生き残っていたらどうなったろうか?頼朝との関係はどうなったろうか? 関東武者たちは皆頼朝よりも義平に親しかったろう。この兄とひと悶着起こさず、頼朝は無事鎌倉殿になれたろうか? 頼朝は嫡男扱いされていたけれども三男だ。長男で能力がありながらも嫡男扱いされなかった面白く無さは義朝が一番よく知っていただろうに。義朝はそこのところを考えなかったのだろうか、馬鹿親父の為義と俺とは違う、と思っていたろうか?

⑦保元の乱。これより武者の世、と愚管抄に慈円は書いた。近衛帝の若き死、長かった鳥羽の院政の後、王家・摂関家・武家それぞれが親兄弟・叔父甥互いに相争った。敗者:崇徳院・藤原頼長(父忠実)・源為義ら・平忠正、それぞれに傷ついたのだけれど、どこより傷が深かった一族はやはり源氏だろう。
戦の貢献度の高かった義朝の恩賞が少なかったというけれど清盛に比べ、もともと地位が低かったのだからこれは仕方がない。ただ罰は過酷だった。父為義は一方の将だったことを思えば仕方がなかったかもしれない。だが為朝を除く弟たちも斬り捨てられた。次男義賢は既に大蔵合戦で死んだ。三男義憲(義広、以下義広と書く)は常陸志田荘を動かなかったのか、ここには見えない。四男頼賢は義賢亡き後事実上の嫡男、五男頼仲、六男為宗、七男為成、八男為朝、九男為仲、以上の6人の男児を引き連れ為義は合戦に臨む。十男義盛(行家、以下行家と書く)がいたはずであるが元服前だったのか出てこない。この他青墓宿に4人の男児あり、彼らも保元の乱後殺される、というのが保元物語だが、ここでは物語としておこう。
十男行家の存在は間違いないから5から7,9の息子たちも存在していたのだろう。保元の乱後生き残った為義の息子は義朝以外、三男義広・八男為朝・十男行家の3人だったということだ。
三男は自分の荘に居て出てこなかったようなのだが、何故だろうか。義広は義賢とは同母の弟だ。それなりに仲が良かったらしいのだが、実際の所は不明だろう。志田先生(しだのせんじょう)を名乗っているので都で官職についていたことがある。先生は東宮の警備員の長であり、義賢もこの職に就いていた。義賢廃嫡の後、彼は為義の後継者に目されはしなかったのか、既に関東へ下向していたのか、ともかく四男頼賢が嫡男とされている。義広は父為義に含むところがあったかもしれない。甥義平に同母兄義賢を殺されたのはショックだったはずだ。次は自分がやられると思ったか。大蔵事件の後、幼い駒王丸(義仲)は木曽山中に匿われ育つ。何故木曽だったのか、大蔵から志田荘まで150kmくらいである。近く簡単に行けるとは思わないが、木曽よりは近いだろう。駒王丸を逃がした人たちは誰もあの叔父を頼ったら、とは考えなかったのか。或いは義平の手勢に固められ東へは行けなかったのか。義広は野々宮合戦の後、義仲を頼り、義仲は受け入れている。
四男・十男に関してはまだ納得がいくのだが、八郎為朝が流罪で済んだのはどうした訳だろう。若くして九州へ赴いた暴れ者。保元の乱でももちろん大活躍。保元物語での為朝の活躍は平治物語の義平のそれと大変似ている。潜伏中に病を得て捕まるところまで似ている。ただ義平は惨殺され、為朝は伊豆大島に流される。流刑にあたって義朝が左右のかひなを抜いた、というのだが、どういう処置をしたのか。「肩の継ぎ目の離れたるなり、扇をだにとりあげねば」というから肩関節を外したのだろうか。ただこの肩は後に自然と治ったという。武勇の士を惜しみ、あえて殺さないという風潮は確かにある。為朝もそれで救われたのだろうか。為朝は伊豆七島を切従え所領と称し、年貢を拒否、謀反として伊豆の狩野茂光の軍勢に討ち取られる。九州で阿多忠景の婿となり勢力を張ったという為朝の前歴を考えれば、流罪は剣呑すぎたと思うが。義朝は為朝を力はあるが頭は軽いとみて、恩を売り、郎党化するつもりではあったのだが、その前に義朝自身が平治の乱で失敗したということではなかろうか。

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朝長と義円 義朝の子供たち

2020-04-06 | まとめ書き

源義朝はその父為義同様に子福者だ。男子9人、女子1から3を数えるが乳幼児死亡率の高い時代故、それ以上の子女がいたことは想像されるが、分かっているのはそれだけである。

長男は義平、悪源太と呼ばれた勇者である。15歳にして叔父義賢を武蔵大蔵館急襲し殺している。源太という呼称に注目する。源氏の太郎である。八幡太郎義家も源太と称した。母は三浦一族の出ともいうが遊女ともいう。平治物語のヒーローと言っていい。享年19歳。

次男 朝長。母は相模の波多野氏だという。三男頼朝が嫡子とされた時、波多野氏は不満を示したという。平治の乱で負傷し、死を余儀なくされる。16歳程度であったろうか。この一文の中で後述する。

三男 頼朝。言わずと知れた鎌倉幕府創始者。母は由良御前とかいうが、熱田大宮司藤原季範の娘で上西門院と関係が深かったとされる。義朝はこの妻の関係で朝廷に足掛かりを得、頼朝も上西門院庁の蔵人になっている。上西門院は後白河の同母の姉である。それ故義朝は頼朝を嫡子とした。平治の乱で頼朝が着こんでいた鎧は「源太産着」という八幡太郎義家からの伝世品であったらしい。

四男 義門。義門について分かっていることはほとんどない。平治の乱で一時的にせよ官位を得ており実在はしているらしいがそれだけである。頼朝と同母とされるが不明である。

五男 希義。頼朝の同母弟。平治の乱の後、土佐へ流され、頼朝挙兵に呼応しようとして殺された。

六男 範頼 池田の宿の遊女の子と言われる。藤原範季が養育し、教育したと言われる。頼朝の代官として平家追討する。平家物語ではぼろくそだが、それなりの成果を上げている。富士の裾野の巻狩りで曽我兄弟の騒動があった際の失言で伊豆に幽閉され殺されたという。

七男 阿納全成。常盤御前の子、今若。出家していたが頼朝に呼応。北条政子の妹を娶り、唯一頼朝亡き後まで生存したと思われる。ただ活躍はしていないようだ。頼家の時、北条時政の実朝擁立にかかわったとして殺された。

八男 義円 常盤御前の子、乙若。出家していたが頼朝に呼応。墨俣の戦いで戦死。

九男 義経 常盤御前の子、牛若。知らない人はいない伝説のヒーロー。こうして数えると本当に9番目の息子だ。

女子 坊門姫 由良御前の子。頼朝の姉とも妹とも。彼女の実在は間違いない。平治物語では頼朝は後藤実基にしかるべき結婚をさせるように託した。一条能保の妻となり孫の子藤原頼経が鎌倉の4代将軍となる。

女子 文字通り義朝と生死を共にした乳母子の鎌田政清に娘を平治の乱直後殺させる話が平治物語にある。母の身分を低いと想定するにせよ坊門姫との扱いが違いすぎ物語通りには受け取りかねる。

女子 夜叉姫。平治物語に出てくる青墓宿の娘。自殺する。自殺話はともかく青墓に子がいても不思議はないだろうとは思う。

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ここで取り上げるのは次男朝長と八男義円だ。彼らはおそらく生前顔を合わせたこともないだろう。共通点と云ったら二人とも美濃で死んだということくらいだ。共に大垣市の青墓と墨俣で死んでいる。

源朝長の墓が青墓にあるという。大垣-池田線という道路を北上し、野外活動センターとかいう所へ行くまでに登り口がある。と美濃国分寺の資料館の人に教わった。
登山道入口までたどり着いたのであるが、入口には柵と共にクマ注意!!の立看・・・

我々も朝長くんを見捨ててきてしまったわけだが、彼は義朝の男子たちの中で最も哀れな子供だ。
義経の生涯は悲劇的に語られるが、功を上げ30歳まで生きた。朝長は平治元(1159)年、16歳で死んだ。

義朝の次男として生まれ、母は相模の豪族波多野氏の出で、波多野義通の妹であり、兄義平はいるものの、彼の母は遊女ともいわれ、源太を名乗りながらも嫡男扱いはされていない。朝長は当初は嫡男とみなされたのだろう。少なくとも波多野義通はそう思っていた。波多野氏の所領松田郷に豪壮な邸を立て住まわせた。源氏の棟梁になる御曹司、そう思って育てたはずだ。しかし、義朝は熱田大宮司・藤原季範の娘を娶り正妻とし、この婚姻関係から上西門院関係者とも交友が出来始めると、由良御前の産んだ頼朝を嫡男に据える。当然波多野氏は面白くなく、義通は保元の乱直後義朝の下を離れる。平治の乱ではまた義朝方として戦う。朝長が義朝の子として戦う以上波多野も義朝につかざるを得なかったのだろう。しかし治承4(1180)の頼朝の挙兵に際し、波多野義通の子義常は頼朝の招請を拒否、後に討手を差し向けられて自害する。

平治の乱に父と共に戦闘に参加したのは、義平19歳・朝長16歳・頼朝13歳である。
義平は大活躍をする。 最初に図書館で借りて読んだ勉誠出版の「現代語で読む歴史文学 平治物語」の中では頼朝は落ち着き払って「先に攻め込もう」などと云っていたりするのだが、手に入れた角川ソフィア文庫ではその箇所がない。異本に拠って違うようだ。朝長・頼朝は特に活躍はしていないが、年齢からも妥当だろう。どうも「現代語で読む歴史文学 平治物語」の方が物語としては面白いようだがフィクション部分も多そうである。

さて戦況は後白河・二条が逃げ出し、平清盛が熊野から引き返してくれば、義朝・信頼に勝ち目はない。義朝はわずかな人数で落ち、東国を目指す。落人狩りの僧兵を齊藤実盛の機転等でやり過ごしていくも、義朝叔父の義隆は討ち死に、朝長は足に矢を受ける。
何しろ街道を行けば怪しまれるとて、間道伝いの逃避行。真冬の伊吹の山麓を踏破しようというのだ。最年少の頼朝は落伍、既に足に矢傷を受けていた朝長の脚は腫れ上がる。青墓宿にたどり着いたものの朝長はこれ以上の行軍はできない、殺してくれ、と父にいう。義朝は泣く泣く朝長を殺すのであるが、この辺りは「現代語で読む・・」の方が詳しい。詳しいだけに創作臭も強いが、朝長にはより酷な内容となっている。
朝長は矢傷を受けた時、気丈に大丈夫だと云って、却って義隆(義朝叔父、戦死)を気遣う。頼朝が落伍した時、兄義平は15歳で大蔵館に攻め込み義賢を討った自分と比べだらしないと叱責する。それは同時に16歳の朝長への叱責ともなったろう。朝長は一度は父兄と別れ東国に出立したことになっているが脚の傷の痛みにどうにもならなくなって引き返す。義朝は言うのだ「年は若くとも頼朝ならばこうはあるまい」脚は腫れあがり、おそらく発熱もしていただろう朝長だ、迷子になった弟の方がマシと言われては救われない。
義朝は青墓の長者大炊に朝長を託し杭瀬川を下り尾張に出るが、裏切りにより風呂場で殺される。

大炊は朝長を丁重に葬るのだが、平家が嗅ぎ付け墓を暴き朝長の首を取って行った。首は義朝の首と共に京都でさらされるが、大谷忠太という物が首を取り返し、静岡県袋井市に首塚を作ったという。だから朝長の墓は駿河に首塚、美濃に胴塚があることになる。
大変なことのようだが、この時代では珍しいことでもないだろう。中山道を上り野洲にある平宗盛の墓は胴塚だ。首は京都でさらされたはずだがどこかで朽ちたのだろう。平家の都落ちに際し、平貞能は主君だった重盛の墓から遺骨を掘り出し持って行っている。敵に墓を暴かれないためである。

朝長の美濃の墓には登らなかったが、周囲には相当規模の大きい寺の跡がある。近くに大炊一族の墓もある。

大炊一家と義朝一家の関わりは深い。義朝の父為義は青墓の長者大炊の姉を寵愛した。保元物語によれば4人の子供がいる。義朝は大炊の娘を寵愛し平治物語によれば娘がいる。
為義の4人の子は義朝の命により殺される。一番上の乙若13歳、一番下は7歳である。手を下させられたのは波多野義通、朝長の母の兄である。殺された子らの母も乳母も後を追った。とはいえこの話は他に史料はなさそうだ。物語であった方が救われる。それに姉や幼い甥達を殺されたにしては平治物語の大炊は義朝に尽くしすぎる。
義朝の娘夜叉姫(母は大炊の娘延寿)は杭瀬川に身を投げたことになっている。これも創作であってほしいことだ。
とはいえ、為義・義朝親子は京―東国の往還に青墓を定宿とし、それぞれになじみの女がいたことは間違いないだろう。木村茂光は「頼朝と街道」の中で、為義は東山道を通り、西野・上野・下野などと関係を深め、義朝は東海道を下総・相模に勢力を伸ばした。青墓は為義・義朝の結節点であるとともに分岐点でもあった、と書いている。

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八男義円。義朝と常盤との間の3人の男児の真ん中、即ち義経のすぐ上の兄である。
義円は朝長より10歳ばかり長く生きた。

母常盤は九条院の雑仕女となっているが千人の中から選び抜かれた美女であり、九条院(藤原呈子:忠通養女、近衛帝の中宮で多子のライバルだった)とは親しい。また由良御前(頼朝母)亡き後の義朝の事実上の正妻だった。(保立道久「義経の登場」)

常盤の再婚相手一条長成の世話で三井寺(園城寺)で出家していたが、頼朝の挙兵を聞いて駆けつける。それはおそらく陸奥からの義経より早かったろう。三井寺にいたのなら以仁王+源頼政の挙兵に従わなかったのかと思うが分からない。以仁王の時は息をひそめてやり過ごしたが、この乱の後、平家の圧迫が強くなり、このままでは無事にいられないと東へ走ったのかもしれない。

義円に関してはその人となりを示すものは非常に少ないようだ。源平盛衰記の墨俣合戦の所が一番詳しいのだろう。義円公園にあった案内板も盛衰記に拠るようだが年号が何故か養和になっている。1181年は養和に改元されるのは7月であり、3月の墨俣の戦いはまだ治承5年だが、頼朝は何故かこの改元を無視していたという。盛衰記でもそうなっているのだろうか。


義円の出陣も頼朝の指示によると考えた方が自然だろうが、吾妻鏡にその記述はなく、義円の単独での挙兵という説もあるそうだ。同じところで同じ敵と戦うのに将二人が協力し合わないなどと云うことは信じがたいことではあるが、一方の将が行家であることを考えるとありえないことではないような。

行家は為義の十男であり義朝の末弟だ。おそらく頼朝よりは5歳程度しか年上ではない。平治物語では平治の乱にも参加しており、その頃は義盛と名乗っていた。ただし、行家が平治の乱に参戦していたという他の史料はなく、不参加だったとする史家が多いようだ。

平治物語の通りとすれば、平治の乱に参加した頼朝の兄弟3人・行家共に10代であり、行家は頼朝からしたら頼りにならない叔父であり、行家からしたら頼朝は源太産着なんぞ着込んだ小生意気な甥という所だったろう。行家は平治の乱後、姉の嫁ぎ先の熊野の新宮に逃げ込み匿われるのだが、あまり追及もされなかったようだ。少なくとも平家にとっては何が何でも捕まえる必要もない小物ととしてしか認識されていなかったのだろう。

その行家が以仁王の令旨を伝え歩く。それで自信過剰になったのか、それとももともとの性格か。彼は甥っ子たちの間を渡り歩くのだがその誰ともうまくいかない、どころかその甥たちに災厄しかもたらさない。甥の中では年長であり、もともと平治の乱のころから見知っていたかもしれない頼朝はさっさと行家を見切る。そして他の者と事を構える口実に使う。
一番ひどい目にあったのは義仲である。義経も行家に寄人されていいことはなかった。
行家は個人的には優れた武勇の持ち主であったらしい。しかしおよそ戦の軍略とかはセンスがない。軍を率いて勝ったことがないほどである。

先ず墨俣合戦はでたらめの大敗戦となった。命からがら逃げだし、漸く体勢を立て直すが、矢作川の戦でも敗戦。義仲の所へ行く。北陸遠征をしてきた平家に対し、義仲は倶利伽羅峠で迎え撃つが、同時に行家を別動隊として北周りに加賀へ向かわせる。志保山の戦いである。ここでも行家は平忠度相手に大苦戦、駆けつけた義仲によって救われる始末だ。それなのに行家は義仲を立てるどころか後白河に讒言というから救われない。その後の平家との室山合戦でも行家は敗北する。単騎囲まれたものの勇を振るい脱出したというから強くはあったのだろう。その後義経に近づくが、大物浦からの四国渡航失敗後、摂津に潜伏、つまり義経と共に奥州へは行かず、頼朝に捕まり斬首。

といった経歴なのだが、墨俣合戦当時は治承寿永の戦乱はまだ始まって間もない。
義円が行家の軍略の無さを知っていたわけではない。ただ義円は頼朝が行家を買っていないということは知っていただろう。だから、行家に先を越されたら鎌倉殿に申し訳が立たない、などと云う発想になるのだ。それに頼朝・義仲にも俺の方が上だ!という行家の事だ、行家は義円を馬鹿に仕切った態度だったのではないだろうか。
しかし、単身先陣を狙うなど如何にも無謀であり、指揮官のすることではない。ほとんど行家と選ぶところのない軍略の無さだ。この猪武者ぶりは当然もう一人の猪武者、義経を思わせる。平家物語にあるではないか、梶原景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と義経をののしるではないか。この時の逆艪の争いは無論物語ではあるが、基本義経は猪武者であり、指揮官として後方にいるより最前線に行くことを好む。それでも義経は天才的軍略家であり、実際に破竹の勝を続けるのだ。これには先天的な才能もあろうが、受けた教育、という点からも考えてみたい。

義円と阿納全成、義経の二人の兄だが、彼らは早い時期に寺へ入る。当然受けた教育は僧侶になることを前提としていただろうし、実際に僧侶になっている。義経も確かに鞍馬に入る。鞍馬天狗は伝説で、ここで受けた教育は兄二人とそれ程異なったものとも思えない。国立民俗博物館蔵の高野山の屏風の紙背文書に義経の自筆がある。いい字であるそうだ。(保立道久「義経の登場」) 
だが、義経は16歳で出奔し奥州へ赴く。以後、義経を武者として教育したのは藤原秀衡ではあるまいか。
もう一人、彼らの異腹の兄範頼を考えてみよう。平治の乱が終わった時点で、平家は彼を捕捉していない。行家以上に放って置いて害の無い存在と見たのか。池田宿の遊女の子と云われる彼は、常盤の息子たちよりより不利な状況にあったのではないか。常盤は美貌であり九条院とのコネクションもある、再婚相手の一条長成も兄弟のバックアップをした。しかしその範頼を藤原範季という人物が手元に引き取っている。範季は九条兼実の家司でありながら後白河にも気に入られ、また平家ともうまくつきあっていたようである。が、どこかへそ曲がりと評される人物でもあったようだ。範頼は平治の乱当時10歳くらいで、元服前だが当然物心はある。先ず範頼があまりにも無能な少年だったら、範季は自分の息子と一緒に養育しようとは思うまい。それに範頼が源氏の棟梁義朝の子であることを十分意識して教育したのではないかと思うのだ。もちろん範季は武者ではなく公卿だ。彼が授けたのは指揮官としての心得ではなかったろうか。範頼は西国遠征に際し、東国の武士団に手を焼きながらも頼朝の代官としての役割を果たしている。
つまり、義経・範頼は武者の子としての教育を受けるチャンスがあった。しかし義円と全成にはそのチャンスがなかった。

義円は25歳で初めての戦場に赴く。単騎の渡岸をだれも止めなかったのか。頼朝が命じた出撃だとしても、頼朝は義円に有力な参謀を付けなかった。周りを見渡す余裕もなく、行家には負けられない、ただそれだけに駆られたのではないか。

墨俣は秀吉の一夜城ばかりが有名だが、義円公園は小さいながらもきれいに清掃されていて、うれしいものがある。朝長の墓よりは遥かにアクセスしやすい。

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曽我物語についてちょっと考えた

2020-01-15 | まとめ書き

「曽我物語」とか「曽我兄弟の敵討ち」とかいう言葉は知っていた。
”曽我兄弟”が、”親の仇の誰かを”、”敵討ちをした(殺した)”話となるのだろうがそれ以外はすこぶる怪しい。富士の裾野の巻狩りで起こったのだと言われれば、そう聞いた気もしてくる。ということは鎌倉時代初期か?
実際にあったことなのか、全くの物語なのか。

そして粗筋を読んでみたところが、全く混乱してしまった。まず曽我兄弟の仇討というからには、討たれたのは兄弟の父、曽我の某という人物に違いないと思いこんでいたのだが、曽我祐信は母と再婚した養父だという。河津三郎祐泰というのが討たれた父の名である。敵の名は工藤祐経で、河津祐泰を殺したのは祐泰の父伊藤祐親を恨んでいたからだという。恨みの理由は祐経・祐親の祖父である工藤祐隆にまで遡らないと理解できない。まるで芝居の筋書きのような話ではないか!
それで図書館に曽我物語の現代語訳があったので読んでみた。

ここまでで工藤・伊東・河津と出てきたが、これは実は同じ一族である。伊東や河津の姓は居住地による。祐経・祐泰・祐親・祐隆・祐信と似たような名が出てくるので、どれが父やら祖父やらこんがらかる。因みに曽我兄弟の名は兄十郎祐成・弟五郎時致である。弟は北条時政を烏帽子親として元服した所為か名前の系統も変わっているが、兄が十郎、弟が五郎なのだ。彼らの父祐泰は嫡男だが三郎、その弟は次男とされ、九郎祐清と名乗っている。三郎はまだ太郎・次郎が早逝したと考えることは可能だが、十郎や九郎はいったいどこから出てきたのか。

こんなややこしい話を江戸時代の人は「助六、実は曽我の五郎」などと云う歌舞伎を楽しんでいたのだろうか。一応曽我物語の知識がないと無理だと思えるのだが。

さてこの事件の元凶ともいうべき工藤祐隆、曽我兄弟の祖父のまた祖父で5代前の人物である。藤原家の系統で伊豆半島の狩野にいた。伊豆半島の西部をほぼ縦断して流れる狩野川というのがある。その上流域という。山の多い地域のようだが馬を飼うにはいいところだったらしい。祐親の祖父で養父の祐隆は狩野の地を出て伊豆半島東部に荘園を開く。伊東市を中心に宇佐美・大見・久須美、南方の河津も含む総称久須美荘の開発領主である。伊東に主に住み、伊東氏を名乗り、後には久須美入道と号した。
狩野は四男茂光に譲った。彼が狩野氏の祖となる。

工藤祐隆は妻が死に、跡取りも死んだ(次男・三男は?と思うが、書いていないものはわからない)ので後妻をもらう。ところが後妻にではなく後妻の連れ子の女子に子を産ませ嫡男祐継とした。また死んだ跡取りにも子供がいた。この子は孫なのだが、次男として養子にした。

この時点で??が募る。どう考えても孫の方が年上だ。息子の死んだ年に連れ子が息子を産んだとしても1歳は違うだろう。それどころか実際には10歳ほども違うようだ。更にこの孫、伊東祐親はかなりのやり手だ。才幹がなくて嫡男とはしなかったとは考えにくい。それだけ孫より連れ子の子が可愛かったということか。
久須美入道は嫡男とした連れ子との子祐継に所領の大半を譲り、孫の祐親(次男として養子にした)には河津の荘を譲る。
年上で嫡孫の自負のある祐親としては不満があることは誰の目にも明らかだろうと思う。久須美入道には見えなかったのだろうか。
と、ここまでが曽我兄弟の敵討ちに至る前段ともいえようか。

月日は移り、伊東荘等を継いだ祐継は元服前の子を残して病死する。死に際、祐親は義兄の子の後見となることを約する。つまり子供の元服の時まで所領を預かる。実際、祐親は子供の面倒を見、元服させ、自分の娘万劫御前と娶せる。この少年の元服した後の名前が工藤祐経である。祐親は祐経を京都へ連れて行く。この一族は平家に従う地方豪族であり、大番役などにも出仕していたらしい。また荘園は領家として重盛に寄進され、ついで大宮(藤原多子、近衛・二条の二代の后として知られる)を本家として寄進されている。工藤祐経は、平重盛、ついで大宮に仕える。祐親・祐経の関係は形式上は叔父甥、実際には祐隆の孫同士、ということになるが、年齢的には叔父甥でおかしくなかったろう。
祐経は利発な子だったらしい。若くして武者所一臈(筆頭)次いで左衛門尉になった切れ者である。また歌舞音曲にも才能があったようだ。

利発なだけに"叔父"祐親の所領の横領に気づく。訴えは起こしてみたものの、実際に伊豆の領地を領する祐親は平家にも重んじられ、祐経の訴えは通らない。更に祐経は妻が土肥実平の息子の嫁になったことを知る。元服当時の婚姻にどれほどの実態があったか分からないが、これはかなりの暴挙だったろう。当然ながら、祐経は激怒する。

土肥実平は伊豆の豪族の一人で、平家物語にも度々名前が出てくる。
なお、この土肥遠平の妻は曽我物語には曽我兄弟を支援する早川の叔母として出てきて、祐経との関係は感じさせない。

激怒した祐経は伊豆の大見荘の郎党、大見小藤太・八幡三郎に祐親父子の殺害を命じる。大見荘というのは久須美荘の中の一荘で祐継が所領していたと思われる。

そして、祐親の嫡男祐泰(曽我兄弟父)の殺害の場なのだが、これがまた飲み込みにくいときているのだ。
伊豆の奥野の巻狩りの帰り道、安元2年(1176年)10月の事だったという。

安元2年とは鵜川騒動の年だ。安元3年には神輿が京都に入り重盛率いる武士に矢を射かけられる。更に太郎焼亡と言われる大火がある。

その頃、武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が500騎も集まって伊豆の奥野で狩りをして遊ぼうというのだ。
祐親は喜んでもてなす。7日間の巻狩りだという。この狩りには"流人"源頼朝も参加している。河津町の曽我八幡神社にあった50円の資料パンフには伊藤祐親が頼朝を慰めようと催した狩りだとあったが、どういう発想かわからない。

巻狩りは遊興というより軍の実践的訓練とされる。武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が結束を固め軍事的示威のため、と考えるものの誰に対するものだったのか。頼朝に対して?、頼朝はこの時点でそんなに意識される存在でもなかったろう。結構あちこちで歩いたりもしていたようだが、基本流人である。これもまるで分らない。

いっそ虚構と考えてしまえば、つじつまは合う。吾妻鏡は治承4年に始まる。他に確たる同時代史料があるとも思えない。
曽我の敵討ちは建久4年(1193)富士の裾野の巻狩りの場だ。これに合わせて討たれた父祐泰も巻狩りの場で死ななければならなかった。相撲の場は祐泰がいかに素晴らしい人物であったかを語るためのものである、というのはどうだろうか。

狩りの後酒宴となり、更に相撲が催される。相模の大庭景親の弟、俣野景久が強く、また小面憎い自慢をする。長老土肥実平をも馬鹿にした言動をとる。ここに河津祐泰が挑む。河津祐泰が圧勝し、この時の技が相撲の「かわず掛け」だというのだがホンマかいな。

俣野景久は治承4年(1180年)石橋山で頼朝の手勢佐奈田与一と組打ちする。佐奈田与一は直後に俣野の郎党に討たれ死ぬ。石橋山には佐奈田神社というものがある。
石橋山の頼朝を攻めたのは北から大庭景親、南から伊東祐親である。

俣野景久は頼朝が房総半島経由し相模に戻った後に逃れ、京都へ行き平家の北国下向に参加する。平家物語に、齊藤実盛らと語り合うシーンがある。源氏の方が優勢だし、あっちへ行くか、という話に 俣野は「我らはさすがに東国では、みなに知られて名あるもののでこそあれ。吉についてあなたへ参り、こなたへ参らうことも見苦しかるべし。」と言っている。ひとかどの武将とみられる。

しかし、曽我物語の相撲の場での俣野は、河津を引き立たせるヒールである。大力で知られ、ヒール扱いしても文句の出ない俣野が河津の相手役に選ばれたのだろう。

この狩りの帰り道、祐泰は大見小藤太・八幡三郎に射かけられる。腰から大腿骨にかけて当たったようだが大動脈でもやられたのだろうか。祐親も射られたものの大事には至らない。

大見小藤太・八幡三郎は大見の荘に逃げ込み、更に狩野に隠れるが、祐親は祐泰弟祐清に命じ攻撃する。大見小藤太は逃げるが、八幡三郎這討ち死にする。

狩野荘は狩野茂光(祐隆4男)が領している。彼は頼朝が挙兵するといち早く参じ、石橋山で戦死する。
建久4年の頼朝の富士の巻狩りでは狩りの参加者は数えきれないほどだが、それに先立って行われた那須野・入間野などでの巻狩りは射手は22人に絞られ、他の参加者はただ勢子として使われるのみで、弓矢を持つことも許されなかった。22人の者は「弓馬に達さ令め、又、御隔心無き之族」とされたもの、つまり頼朝が信頼できると判断していた者ということになるのだが、その中に狩野介宗茂がいる。茂光の子である。

工藤祐経がいつ京都から戻り、頼朝に仕え始めたかは「比較的早い時期」だろうとはされるが不明のようだ。祐泰殺しの下手人が狩野に行ったというのは、狩野茂光と祐経ともコネクションも想像される。

また曽我兄弟の母親は茂光の孫だという記載を見つけたが(朝日日本歴史人物事典の解説)根拠が何かは解からない。
祐親は娘たちを三浦・北条・土肥などと婚姻をさせている。次男祐清の妻は比企氏の娘だ。狩野の娘を息子の嫁にしても不思議はないネットワークではある。

祐泰死亡時、妊娠していた妻(曽我兄弟母、曽我八幡のパンフでは満江御前と言っているが根拠不明)は男児を産み、その子を祐泰弟祐清の養子とし、一万・箱王二人の息子連れで曽我祐信と再婚する。この女性は祐泰との結婚前には伊豆の目代仲成という者の妻であり、男女二人の子を産んでいる。更に曽我祐信との間に3児を産む。

この婚姻は、曽我物語では伊東祐親がいささか強引なくらいに勧めた話に読める。何故だろうか?つまり河津荘の権益をどう考えていたのだろうか。確かに兄弟は5歳と3歳の幼さだが、自身あるいは次男に後見させ、元服を待って一万に継がせる、というのが順当のように思える。しかし、祐親は自分は年寄の上に敵持ちでいつ殺されるかもわからないからお前たちの面倒は見られない、というのである。祐清が後見できない理由は明らかではない。
実際には祐泰の横死が安永2年(1176)10月、その4年後治承4年(1180)8月、頼朝の挙兵がある。だから祐親も次男も一万が元服する年まで後見はできなかったわけなのだが、そこまで見通していたわけでもないだろう。平地の少ない伊豆半島で開けた土地のある河津は貴重だろう。この荘は誰の管理下となったのだろうか?
曽我祐信というの人も伊東家の遠縁のようであるが、伊東よりはるかに弱小の地方豪族のようである。祐親の態度はまるで母子を厄介払いでもするように曽我に押し付けたように見える。
とはいえ、曽我は小田原の東に広がる丘陵でなかなかいいところに見える。召使や乳母もいて、貧乏暮らしを強いられたというのは嘘である。

曽我祐信は石橋山の合戦に大庭景親の手勢として参戦。2か月後、房総半島経由で諸方の武士団を従え、頼朝が戻ってくる。
畠山重忠をはじめとする石橋山では平家方だった武士団が頼朝に帰順する。おそらくこの頃、曽我祐信もまた頼朝に下るのであろう。大庭景親は殺されるが、弟俣野景久は逃げて平家軍に加わる。伊東祐親・祐清親子は船で伊豆半島を脱出、平家への合流を目指すが捕らえられる。祐親は殺されたとも許されたのち自分を恥じて自殺したともいわれる。
祐清は妻が頼朝の乳母比企の尼の娘だったこともあり、許されるが平家へ走る。篠原合戦を前に語り合う東国武士の一人伊東助氏=祐清である。

曽我祐信は範頼・義経に従い西国遠征にも参加している。平家物語第9巻、寿永3年(1184)一の谷の合戦で大手を攻める範頼軍の中に曽我太郎助信がある。

というわけで、曽我兄弟一万9歳・箱王7歳が雁の群れを眺めて実父のいないのを嘆いたという頃から、養父祐信もまた大変な日々を送っていたのだった。

曽我物語を読んで困惑するのは、曽我兄弟がロクでもないすねかじりのガキにしか見えないことだ。
親類縁者にたかって歩き、一緒に敵討ちをしようなどと云っては困らせるさせる。母親の先の結婚で産んだ息子(京の小次郎)など兄弟からすれば兄と思うかもしれないが、小次郎にすれば赤の他人の男の敵を一緒に討とうと言われても困惑するだけに決まっている。兄弟が頼朝の寵臣工藤祐経を殺したらどんな災難が降りかかるかわからないと三浦与一が訴え出ようとするのも当然のことに思える。

それに対し、北条時政・三浦義盛・畠山重忠など錚々たる面々はまるで兄弟の仇討を後押ししているとしか思えない。彼らには彼らの思惑があるのだが、それをいいことに、兄弟は家々を泊まり歩き、飲み食い、笠懸で日を送る。
曽我の里では養父祐信、祐信の先妻の子で嫡子祐綱がいるから出る幕がないということかもしれないが、手伝うという発想はない。それどころか、街道筋を見張るという名目で女遊びだ。曽我物語は十郎祐成と大磯の虎の愛情物語を謳い上げるが、若くて美人の遊女を独占するにはどれほどの金が掛かることか。酒もよく飲んでいる。
兄弟は和歌も詠み、それなりの教養を身に着けている。討ち入りの場での曽我の十人斬りでも明らかな武芸の達者。弟は箱根で稚児をしていた時代に教育を受けたのかもしれないが、それにしても、養父の薫陶があってのことと思われる。仇討に酔い、恩返しは知らないようだ。

弟箱王は箱根権現に寺入りする。稚児として上がり行く行く僧になるはずであったが、勝手に飛び出して元服した。
その烏帽子親が振るっている。北条時政なのだ。兄が弟を連れて行く。兄は北条館へ入り浸っていたようだ。時政は弟に時の字を与え、息子義時が四郎だからと五郎時致と名づけるのだ。烏帽子親というからには、引き出物・金子も渡したろう。この時政の肩入れは尋常ではない。十郎の大磯遊びのスポンサー候補だ。

ウイキペディア「工藤祐経」の項には
【『吾妻鏡』における祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)4月の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は重盛の家人であった時に、いつも重衡を見ていた事から重衡に同情を寄せていたという。同年6月に一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年8月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。文治2年(1186年)4月に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 2]。建久3年(1192年)7月、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。】 とある。

つまり祐経は武者というより、格式ばった席で恥をかかない家来として頼朝に仕えていたようだ。
平家物語では、平重衡が鎌倉に連れてこられた場面では千手の前という女性が出てきて重衡のモテ話となっている。
頼朝は京下りの者を官僚として大江広元・中原仲業等を重用している。彼らは例えば「男衾三郎絵詞」に見られるような日々武芸を磨き、馬や武具の手入れに余念ない東国の武士の暮らしとは全く違った生活を持っていた。
東国の武士たちにしてみれば、全くの京者たちには我慢ができたかもしれない。しかし工藤祐経は伊豆の者である。同質であるはずの中の異質さ、ここに北条時政・三浦義盛・畠山重忠などの祐経に対する反感の根源があったのではないか。
加えていえば、祐経による祐泰暗殺の手口はどうも陰湿である。狙撃犯を雇い、狩りだ、相撲だとは思わないが、所用あって出かけた通り道を狙って襲撃した。敵役の資格はある。

曽我物語では、敵討ち当日、三浦や畠山は兄弟の祐経襲撃の計画を察しており、更に尻押しするような言動がある。騒ぎが起こっても静観を決め込む。実は大変な出来事であったこの事件の手引きをしたと取られても仕方のない言動なのだが、彼らに御咎めはなかった。

この事件は将に鎌倉殿が征夷大将軍となり、坂東の武者政権を確立したと言われる建久3(1192)年の翌年、武威を諸方に示すべく行われた巻狩り最終日の出来事である。頼朝嫡男頼家が鹿を初めて狩り、新田忠常が猪に飛び乗り退治した話あり、大団円となるはずだった。
しかしテロリスト2名が潜り込み、鎌倉殿寵臣を暗殺、おとなしく引き上げるどころか、名乗りを上げ、取り押さえようとした名立たる御家人衆はたった二人の侵入者に振り回され、漸く一人は討ち取るものの、頼朝の宿舎に逃げ込むものまでいて、テロリストに頼朝の宿舎まで入り込まれる始末だ。鎌倉へは頼朝が殺された、などと云う誤報が届くという大混乱ぶりだ。これでは征夷大将軍の威勢もあったものではない。将に頼朝の顔に泥が塗られたのである。

捕らえられた曽我五郎時致は仲介を排し、頼朝の直の尋問に答える。五郎の率直かつ堂々とした態度に打たれ、頼朝は五郎を許そうとまで思ったが、工藤祐経遺児の懇願と仇討の連鎖となるのはまずいという梶原景時の言葉を受け殺した、となっているが、とても額面通りには受け取れない。

五郎が頼朝への遺恨として、敵の祐経を寵愛して使ったこと、祖父の伊東祐親が殺されたこと、を上げている。
同心者は兄弟の他いない、と言っている。

昔からこの事件は単なる仇討ではなく、頼朝を狙ったクーデター、或いは御家人間の衝突であったという説は多いらしい。
クーデター未遂の場合、真っ先に疑われるのは北条時政、ついで兄弟の支援者、三浦・畠山・土肥あたりだろうが、彼らは処罰を受けていない。疑いがあったなら、あの頼朝が許すはずは・・と思ってしまう。単に兄弟に同情しただけと解されたのだろうか。

御家人同士の衝突説だと、巻狩りの後、大庭景義・岡崎義実が相次いで出家し鎌倉を追われているらしい。大庭氏はほとんどが平家方なのだが、景義のみは頼朝方だったらしい。岡崎義実は三浦義明の甥に当る。石橋山で戦死した佐奈田与一の父である。ただ彼らと曽我兄弟がどう絡むかわからない。

更に範頼と常陸の御家人が結んでのクーデターとの説もある。この説は、事件後範頼が殺され、常陸の八田氏が誅せられたことから逆に出てきた説ではないのか。常陸の佐竹は義経追討の事寄せ奥州を征伐した頼朝にとって長年の誅すべき相手であり、義経征伐を断った範頼はいつか殺すべき相手として頼朝の脳裏にあったかもしれない。

曽我五郎は頼朝の堀親家という御家人を追って頼朝宿所へ入った。逃げるにあたって主君のところへ、というのはありえないことであり、それ自体スキャンダルだ.。
何が何だかわからないが、取敢えず、何があったにせよ、曽我兄弟の仇討、ということで事を収めた鎌倉殿の手腕なのだった。
平家物語では、頼朝の平重衡への言葉として「父の恥をきよめんと思ひ立ちしうへは云々」とある。父義朝の敵討ちを意図した挙兵、と読める言葉である。彼は敵討ちを全面否定できないのである。

養子がしでかした騒動に恐れ戦いたに違いない曽我祐信だが、曽我の里は安堵され、租税も免除、兄弟の菩提を弔うように、と言われたのだった。

曽我兄弟祖父祐親に関して嫌な話がある。祐親の娘八重姫が頼朝の子を産む。しかし祐親は平家を憚り、子を殺し、娘を他家に出し、更に頼朝を殺そうとしたというのだ。
伊東市の曽我祐親の墓の案内板には「伊東祐親は流罪にされた頼朝を伊東で預かるが、自分の娘との間に生まれた頼朝の一子を平家への忠義のために殺害してしまう悲劇的な人物である。」とある。伊東市教育委員会公認と言える御説なのだが、どうなのだろうか。

まず、伊豆の国市韮山の蛭が小島が頼朝の配流地であった場合、伊東館があったという伊東市物見台公園までの直線距離は16-17kmである。しかし山越え、事実上倍の距離が見込まれるだろう。まず娘は夜な夜な通えない。江戸時代の一日の旅程は8里、約32kmだし、頼朝が馬を使えば一応可能だとしておこうか。しかしどうやって知り合うのだ?

蛭が小島が流刑地だというのは後世の比定らしい。配流地は伊豆としかないらしい。伊豆最大の平家方豪族伊藤祐親が監視役を引きうけるのは不自然ではない。その場合、自分の本拠地伊東に住まわすだろう。娘と知り合うチャンスはある。
しかし、祐親が3年の京都大番役を済ませて帰ってきたら3歳の若君がいた、というのはどうも。数え年なのだろうから、祐親が京都に出かけた直後、仲良くなって子供ができ・・ということなら一応つじつまは合うが、その間、京都と伊東の間で通信はなかったものか。祐親の他の娘たちの婚家は北条・三浦・土肥である。娘は合従連衡の大事な手駒だ。勝手な恋愛は許されない。この場合むしろ祐親の積極的仲介が想像されてしまう。頼朝は流人であるとともに貴種でもある。祐親の打った手の一つだったかもしれない。
祐親次男祐清の妻は比企の尼の娘、その縁で祐清は頼朝の援助をしていた。息子の援助は黙認し、孫を殺すほど平家を憚るというのは矛盾だろう。

頼朝も伊豆で青年期を過ごす。祐親の娘かどうかはともかく当然女はいただろう。しかし、孫殺しの話はそもそも無理があるように思える。

頼朝が政子と結ばれ北条の婿となったのは明らかであり、祐親が頼朝を殺そうとした話は「うわなりうち」だったという説もあるようだ。うわなりうちとは先妻が後妻を襲う、というものらしいが、よくわからない。

頼朝は伊藤祐親にわたくしの意趣がある。と云ったそうで、何らかの因縁を感じさせるが、別に女や子供の事を考えなくても、祐親の言動に流人の頼朝のプライドを傷つけるものがあり、その事を言ったと解することも可能だと思う。

頼朝の挙兵後、伊藤祐親は平家方として頼朝の征伐に動き、北条は頼朝をバックアップする。平家物語では、大庭景親からの飛脚で、頼朝の挙兵が平家に知られるが、大番役で京にいた畠山重忠の父の重能はどうせ北条以外同心すまい、と言っている。

蛭が小島と北条の里とは直線距離2kmを切るからいいのだが、頼朝が伊東にいたとすると今度は政子とどうやって知り合ったのだ、ということになってしまう。どこかの時点で頼朝は伊東を抜け出し、北条方へ行ったと思われるが、不明である。頼朝と政子の第一子大姫は治承2年(1178年)の誕生となっているからその1年ほど前となるのだろうが。治承4年の頼朝挙兵時にはこの婚姻は東国に知れ渡っていたと思われる。

さて、子殺しの話であるが、子供千鶴丸は柴漬けにされたという。簀巻きにされて水に放り込まれたとある。
平家物語の壇ノ浦の後、源氏による平家残党探索で、子供が殺されていく場面がある。第12巻六代だが「むげにおさなきをば水に入れ、土にうづめ、少しおとなしきをば押し殺し、刺し殺す。母の悲しみ、乳母がなげき、たとへんかたぞなかりける」
よく言われるのは、清盛は頼朝・義経らを殺さずに失敗した。頼朝が自分が同じ目に合わないように平家の子らを殺したということなのだが。しかし、本当に広範囲に行われたことなのか?なかったこととは思わない。しかし片っ端から行われたこととも思われない。

宗盛の子が殺されたのはほぼ確実だが、重盛の孫、維盛の子の六代は 文覚の口添えがあったとはいえ当座許されているのだ。
重衡も自分は子供がいないからかえって憂いがない、などと云っているが、いないのは正妻との間だけだったらしく、さすがモテ男、子供はいた。出家し箱根山で僧侶になっている。平家公達の子であっても出家を条件に許された例が多いのではないか。
幼児が殺されるのはよくよくの事ではなかろうか。

伊東祐親の場合は、まして自分の孫でもあるのだ。頼朝との確執をドラマティックに書き立てる物語だろうと思われる。

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経正は竹生島へ行ったか?

2019-11-26 | まとめ書き

平家物語第7巻は北国に下向する経正が途中竹生島に寄ったことを伝える。「竹生島詣の事」である。

海津に着いた経正は琵琶湖に浮かぶ島を見て、なんという島かと問う。竹生島だと聞いて、名高い島だ、行ってみよう、となる。6人侍引き連れて小舟で島へ渡る。時は4月であるが旧暦の事、既に夏、鶯の声はしわがれているが、不如帰鳴くのが聞こえる。美しい景色に蓬莱山かと感激し竹生島明神に詣でる。日が暮れ 僧の求めに応じ琵琶を奏でる。
琵琶の名手経正の奏でる上弦・石上の秘曲に明神も感応して経正の袖に白龍となって出現する。あまりの忝さに経正は歌を詠む。「ちはやぶる神に祈りのかなえばや しるくも色にあらわれにけり」

何を祈ったのか、この場合は北国での対源義仲勢との戦勝以外には考えられないだろう。しるしが現れ神に祈りが届いたと喜んで帰船に乗る。袖に白龍が現われるという状況をどう考えたらいいのかわからない。袖の上に大きな龍が現れるわけではないだろう。或いは誰かが手鏡か何かで光を集め、何か神々しいものを見せた状況かもしれない。

この前段では木曽義仲が息子を頼朝の娘の婿として鎌倉に行かせることで頼朝と停戦し、東山北陸両道を討ち従え京都上洛をしようとしていること、平家方は大軍を集め討伐軍を組織し出征する事が描かれている。

後段は火打城合戦、越前今庄、川を堰き止め立てこもる源氏方、攻めあぐる平家だが源氏方から平泉寺斉明の裏切りが出て、平家軍は一気に火打城を攻め取り、加賀まで侵攻する。

両段とも如何にも軍記物らしいところだが、その間の竹生島の話は何とも優雅である。さすが平家の公達、管弦に長け、神もお味方してくださる、という勝利だったのだが、この後で砺波山の戦い、倶利伽羅でのまさに平家の地獄が待っていた。


さて、経正は竹生島に詣でたのだろうか。
海津について湖面を見やり、あの島は何か、と問うのはいい。しかし渡るだろうか?
この北国下向で、平家は大軍を集めた、しかし、それで義仲勢を一蹴出来ると考えていたはずもないのだ。
義仲は既に平家家人の地元豪族を市原合戦で笠原氏、横田河原で城氏を打ち破っている。源氏同士とは言いながら険悪だった頼朝との仲も取敢えずおさまり、後ろを突かれる憂いなく北陸路を南下しようとしている。しかも以仁王の遺児北陸の宮を奉じ入京を目指す。
一方平家は関東へ向けて頼朝らを追討する大軍を送ったつもりが、本体が到着する以前に駿河などにいた平家の味方は鉢田の戦い等で甲斐源氏にやられてしまい、ほとんど戦わずして富士川から逃げ帰るという醜態を演じてしまう。墨俣の合戦などに勝利し、一息ついたものの、この北陸遠征に墨俣で戦果を挙げた軍兵は参加していない。大将知盛以下、転戦を重ねた消耗戦にもはや遠征に耐えなくなっていたらしい。光源氏にも喩えられた貴公子ではあるが、富士川での敗将の維盛が総大将、武将というよりミュージシャンの経正が副将という布陣が既に平家の人繰の難しさを語っているようだ。折から畿内は飢饉だ。兵糧は現地調達、しかし、地元民さえ食うに困っているところへ大軍の食糧調達などとんでもない。平家軍が五月雨式に進発しているのもそのせいだろう。さらに言えば平家繁栄の象徴ともいうべき清盛はこの遠征の2か月前に急死した。楽観要素はない。


竹生島 海津方面から見ている。琵琶湖北岸から竹生島は近い。海津からだと5・6kmだろう。但し船を着けれる船着き場は南側にしかない、反対側である。
小舟で難なく着けるだろうが問題は時間である。何時頃島に渡ったかわからないが、日が暮れ、夜になって離島。少なくとも半日、ひょっとしたら丸一日が費やされただろう。率いた軍兵の大半はそのまま進軍を続けたのかもしれないが、その場に残って経正の戻りを待ったものも少なくなかったろう。兵糧不足の進軍は時間との競争だ。無駄な足止めは無駄な食料を必要とする。経正自身が兵糧問題で走り回るとは思えないが、状況は聞いていただろうし、少なくとも全くわかってなかったとは思えない。そこまでアホではなかったろう。

一方で戦勝祈願は必要な事である。しかし全軍に神の加護がわが軍にありとしらしめさなければ意味がない。よい例は次巻に出てくる木曽願書だ。倶利伽羅を前に木曽義仲は埴生八幡で神に祈る。参謀覚明が願書を書き、読み上げる。主だった武将たちが鏑矢を捧げる。白い鳩が舞い降り、八幡大菩薩のお使いが現れたことで全軍が勇み立つ。
竹生島詣では違う。これでは経正の自己満足に近いものに見える。もし竹生島明神に祈るとしたら、海津での遥拝、瑞兆の手品は別の形とならなければならない。

また竹生島明神が弁財天の垂迹だという。この弁天のイメージは琵琶を持った女性としてのイメージだったのだが、もともとは8本の腕を持ちその手には武器の類を持った軍神だという。佐藤太美氏によれば腕が2本になり琵琶を持つのは鎌倉期で経正が祈ったのは軍神に対してだというのだが、もし琵琶を持つ弁天のイメージが無かったら、そもそもここに経正は出てこないのではないだろうか。現在の竹生島の弁天は16世紀浅井家が祭った者らしいが8本腕のものであり、2つのイメージはずっと絡み合ってきていたようにも思える

実は、竹生島へ行って驚いたのは、平家物語の痕跡が全くないことである。思いもかけないようなところに平家の落人の関係だとかがあったりする。義経が腰かけたの水を飲んだのという所はそれこそあちこちどこへでもある。ところが平家物語の優雅な一場面の舞台である竹生島には何もない。
確かに平家の公達とはいえ経正の知名度は高くない。清盛の腹違いの弟経盛の子で敦盛の兄であるのだが、清盛・時子とその子たちを平家本流とするなら傍流の子に過ぎない。しかし仁和寺五世門跡覚性法親王から楽才を認められ「青山」という琵琶の名器を託された琵琶の名手である。笛の敦盛と共に管弦に秀で平家の雅な一面を担ったと言えるだろう。その経正が来て琵琶を弾いたというのは竹生島にとって損な話ではなかろうと思うのだが、全くそんなことを示すものがないのである。
竹生島は経正の竹生島詣でに一顧だに与えていない。

私の結論としては経正は竹生島詣ではしなかったろう、平家物語元作者の創作だろうと思うのだが、どうだろうか
あれこれ見ていくと平家物語の名場面は次々とあり得ない話になっていく。竹生島然り、宇治川の先陣争い然り、頼政の鵺退治然りである。




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