物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

妹尾のこと

2019-09-13 | まとめ書き

妹尾太郎兼康
 この人物は「平家物語」には、平家の郎党の典型のように書かれているように思う。第1巻から第8巻まで断続的に登場する。些細なケンカ沙汰から拷問、大規模な合戦、およそ力を必要とする場面はどこへでも、彼は平家の良き家人として走り回る。六波羅の警備隊長、といった役どころだろうか。
「平家物語」に沿って妹尾兼康の活躍を見ていこう。


まずは第1巻 殿下の乗合から。
 平清盛の孫資盛(重盛の子)が若等たちと狩りに行き、帰りに摂政の藤原基房(松殿)の牛車の列に行き会った。資盛が道を譲らなければならないところ、資盛は譲らず行き過ぎようとした。基房の家人はこれを見とがめ、狼藉した。資盛は帰って清盛に訴える。清盛は怒って、高倉帝の加冠の儀に出仕しようとした基房の行列を襲う。この時、基房の家人の髻を切るなど狼藉を働いたのが、妹尾太郎兼康である。重盛は清盛をいさめ、狼藉した郎党を叱り、資盛を伊勢へ追いやった。この時資盛の歳は12,3歳。
平家物語ではこうなのだが、玉葉では違う。まず、資盛は狩りではなく女車での外出、年齢も10歳である。元服していたのかどうか?そして基房に報復するのは清盛ではなく重盛。基房は重盛に詫びを入れている。にもかかわらず、出仕の時を待ち襲撃。愚管抄でも同様らしい。玉葉の筆者、九条兼実、愚管抄の筆者慈円、共に基房の弟である。事件の近くにいて同時代資料を残した彼らの記述の方が真相に近いであろう。彼らに資盛をかばういわれはないので、子供がお忍びでたまたま通りかかっちゃった、というのが正解。狩り帰りの騎馬武者とは違うのである。では、何故基房の家人はただ咎めるだけではなく狼藉を働いたか。これには背景がある。
松殿、基房の父は藤原忠通、保元の乱で弟頼長と争った忠通である。忠通は法勝寺入道と呼ばれる。百人一首に「わたのはら漕ぎ出でてみれが久方の雲井にまがふ沖津白波」がある。私はこの歌の持つおおらかさが好きなのだが、作者の気性がおおらかなものであったかどうかは定かではない。なかなか子供が出来なかったので、一たんは弟頼長を養子にする。しかし実子が生まれると離縁、この事が頼長が憤懣を募らせる一因ともなる。忠通の実子、嫡男基実の妻は盛子、清盛の娘である。基実は若くして死ぬ。子は基通。盛子も幼くして嫁ぎ、実子ではないようだが、自分の子にしたのか。摂関家の家督にも役職と財産の部分がある。盛子は役職は弟基房に渡したものの財産の大半は基道に渡すものとして預かった。息子が成人するまで仕事だけはよろしくね!ということだ。もちろん清盛の後ろ盾があっての事、後白河の承認もあるとなっては基房としてはどうしようもない。この知恵をつけたのが藤原邦綱、経済に強い清盛のブレイン、摂関家の下で受領を歴任、摂関家の経済を隅々まで知る邦綱が清盛については致し方ない。松殿の平家一門への反感募るばかり、ということになる。だいぶ後になるが、清盛の推挙を受けて、源頼政が三位となった。その式に赴く時の牛車を貸してほしいと頼まれたが、基房は貸さなかった。清盛ずれの推挙を受けた奴に貸せるか!だったのだろうか。また、これも後年、一次のことだったろうが、松殿は義仲を婿にしている。更に後白河がらみで言うと、清盛の嫡子重盛とほぼ同時期、盛子は死ぬ。この時、後白河は名目上盛子の管理下にあった摂関家の所領を没収する。清盛にとっては思いもかけぬ打撃となり、治承3年の政変、清盛が後白河を鳥羽殿に押し込めるクーデターの契機となる。

次は鹿ケ谷の陰謀が漏れた第2巻、西光被斬である。
会議は踊るは19世紀のオーストリアだった。しかし12世紀の京都東山でも謀議は踊るのである、文字通りに。瓶子(へいじ)が倒れた!でそれ首を 採れ!と猿楽だ。さすがに本当かいな?なのだが、謀反の盟約は神との盟約、すなわち神事で、酒と踊は切っても切れぬというのだが、ほんまかいな?正気の残っていた静憲(信西の子)はあきれ返り、多田行綱は恐慌をきたして清盛の下へ駆け込む。
この謀議が現われ清盛の下に連れてこられた西光が、他の腰抜け公卿と一線を画す覚悟の良さでかっこいい。この時一緒に捕まった成親を拷問するのが妹尾兼康。これも彼の役職だからだ。兼康は手加減し、成親に悲鳴だけを上げるように言う。成親は臆面もなく悲鳴を上げ続ける。成親は備前小豆島に遠流となり、やがて殺される。成親の子成経は鬼界が島へ流されるが、途中、ここは父の配所に近いのかと尋ねる。実際には近かったが、兼康は遠いと答える。この辺り、妹尾はあはれをしるおとこ、となっている。
しかし、歌舞伎「俊寛」で成経・康頼を連れ帰る赦免船の使者はこの兼康で、芝居の上は見るからに憎々し気な悪役である。

次は第7巻倶利伽羅落である。
 倶利伽羅で平家は源義仲に大惨敗を喫する。この時兼康は捉えられる。捕まった経緯は不明である。その前の富士川・墨俣などの戦いに兼康は出なかったのだろうか?それはわからない。平家物語が出陣を伝えるのはここだけだ。平家の郎党として彼の名は隠れもない。義仲は兼康の武勇を惜しみ殺さない。旗下の武将たちは大将がどんな人物を許し、誰を殺すか、じっと見定めていたはずだ。
この時兼康はいくつであったか、60歳前後と思われる。清盛より5歳程度若い。兼康は清盛の父忠盛の館で育った、という説もあるらしいので、それに従えば、清盛とは兄弟のように睦んだ時期もあったかもしれない。義仲と中原家の子弟たちとの関係のようなものがあったかもしれない。兄貴として、棟梁として仰いだ清盛は既に亡い。清盛の後継者たちを彼はどのように見ていたのか。どっちにしろ彼は平家に忠節を尽くす。なんとこれからが彼の本領発揮だ。

第8巻、章題からして「妹尾最期」
寿永2年、再起し讃岐屋島に居を構える平家を叩くべく、義仲は備中へ兵を送る。この時、義仲も側近の今井も出陣してはいないが、足利義康の子義清を大将に、信濃の海野行広を侍大将とし、7000騎を派遣する。彼らは備中水島から船で屋島に渡ろうとした、というのだが、現在の倉敷市水島というよりは玉野市の方らしい。平家が黙ってみているわけもなく、千艘もの船でやってきた。義仲方は慣れぬ船戦で大ピンチ、大将も侍大将も討ち死に。

それを聞いて義仲は10万騎を率い備中へ急行。
妹尾兼康を捕らえたのは倉光次郎成澄で弟三郎成氏が預かっていた。成氏は半年近く兼康を預かってきた。捕虜ではあるがそれなりの武将と丁重に扱ってきたはずだ。気心も知れてきたと思っていたはずだ。兼康が言う、旧領備中瀬尾は馬を飼うのによい土地だ、命を助けてもらったお礼に案内する。成氏は義仲に報告し、30騎で妹尾を連れて備中に先行せんとする。途中で兼康の嫡子宗康が100騎で出迎え播磨国府(姫路)で会う。三石の宿で宴会になる。三石というのは山陽本線に三石という駅があるのでそのあたりだろう。ここで妹尾は倉光成氏らに酒を進め、酔っぱらったところで皆殺しにしてしまう。
この頃備中は行家の領国だったが、その代官館も襲い、代官を殺す。

瀬尾の一党は妹尾館に集結する。どうやら岡山市内のようだ。
妹尾は福隆寺畷に城郭を築く。福隆寺畷がどんなところか判然としないが、畷というのは田圃の畦道などというが、私は泥土の中に続く一本道だと思っている。合戦址として知っているのは太平記の四条畷、灯明寺畷。新田義貞は灯明寺畷の深田に馬の足を取られ討ち取られた。報を聞いて駆けつける義仲勢の今井達も泥土に手を焼いている。
しかし、今井らは猛攻を加え、妹尾は兼康、宗康、郎党の3騎となって落ち行く。倉光次郎成澄は弟の敵とばかり追いすがる。しかし川の中でもみ合い、水練のできない倉光は返り討ちに合ってしまう。

妹尾3騎の馬はもう駄目だったのだろう。兼康は倉光の馬を奪い乗る。息子宗康20歳だというが走れない、というのは馬がだめになって徒になったのだろう。しかし、太って走れない、というのは侍の子としてどうも。。。平安末にもそういう人はいたのね、と親近を感じないでもないが。60歳の父に嫡子が20歳というのはこの時代としては奇異な気がする。何か事情があったのか。いったんは息子を見捨て、走り去る兼康だが、引き返し、息子を殺し、敵陣に打ち込んで死ぬ.郎党も死ぬ。義仲は「あはれ剛の者や。これらが命助けでみで」とのたまひける。

この妹尾兼康にセットになるものは渡辺競のエピソードだろう。彼は源頼政の郎党である。以仁王の挙兵時、出遅れて平宗盛に捕まった競は、恭順すると見せかけ、宗盛の馬を奪い、頼政の子仲綱の恥を注ぎ。宗盛に一杯食わせ、頼政の下へ馳せ参じるのだが、馬のエピソードのリアリティに難もあり、兼康の話の方がはるかに迫力がある。





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明雲の事

2019-09-13 | まとめ書き

その場限りで適当に院宣を出し散らす後白河法皇に、義仲の我慢も限界だったのだろう、挑発されもしただろう、法住寺合戦を引き起こした義仲に同情する。平家を西国に追い、都に入った義仲だが、慣れない習俗に悩み、折しも飢饉の畿内に大勢の兵を連れて入ったことから食糧不足に拍車がかかり、義仲軍の評判は落ちる一方。一緒に京都入りした行家も足を引っ張る。西国に平家を追って行くも苦戦、しかもその間、後白河は頼朝と手を結ぶ、というのではたまらない。

法住寺合戦で一人の高僧が死んだ。延暦寺天台座主明雲、比類なき識者、法王や清盛の出家時にも儀式を執り行った大権威であったはずだ。後白河は、明雲は身代わりに死んでくれたと泣いたという。
しかし、この明雲という名には見覚えがある。遡ってみる。

この明雲、平家物語にはすでに何度か登場している。物語に従ってみていこう。

まず、12巻ある平家物語第2巻の冒頭「座主流し」だ。
鵜川騒動の後、山法師の強訴に怒った後白河が座主明雲を遠流にする。参議達の反対にも法王の怒りは解けず、明雲は伊豆へ送られる。これには西光の讒訴があったという。が、山門、延暦寺の僧兵達も黙ってはいない。座主の奪還を企てる。
この間、明雲はただただ泣いてるのである。座主、一山を預かるトップの矜持など全くないとしか思えない有様なのだ。
座主奪還に押し寄せた僧兵達を前にしても、明雲は、優柔不断に泣いてる。堪り兼ねたか、大兵衛の戒浄坊阿闍梨祐慶、人呼んで「いかめ坊」が進みで、そんな事だからこんな目に遭うのだ、と決めつける。明雲は迎の輿に乗ってもなお、遠流は嫌だが寺へもどれば法王の怒りが恐ろしい、と泣いてる。いかめ坊ならずとも少しはしゃんとしろ!とどやしつけたくなってくる始末だ。
公家の息子が寺に預けられて、エリートコースを歩み、それ以外の道を知らないとはいえ、坊主の最高位に上り詰め、維持するためにはそれなりの苦労もしてきたのではないかと思えるのに、この泣きっぷりは尋常とは思われない。平安朝、貴族の泣くのは哀れを知るものというステータスを示すようなものだとは思うが、それにしても、の泣きっぷりである。


次の登場は第4巻、以仁王、頼政は園城寺に助けを求め、挙兵する。園城寺は比叡山と南都興福寺にも挙兵を呼びかける。比叡山は園城寺を下に見ているので、簡単には動かない。結局断ってくるのだが、この時、清盛は織延絹3000疋を明雲に送っている。もちろん以仁王方につくなよ、というダメ押しだ。絹は貨幣経済が浸透しない間の事実上の通貨のひとつだ。明雲は叡山の谷々、峰々の僧房に配った。しかし随分不公平な分け方になってしまったらしい。この座主様には有能な実務者がついていなかったのか。「山法師織延絹の薄くして 恥をはえこそ 隠さざりけり」「織延をひときれもえぬ我らさえ 薄恥をかく数に入るかな」は山門法師の自嘲だろうか。

この明雲、平家物語にはもう一度登場している。第7巻 木曽山門蝶状・山門返牒 に続く「平家山門への連署」である。
北陸路に彗星の如く現れた義仲、入京前に越前国府で評定する。参謀格の僧覚明は先ず山門を味方につけようと、延暦寺へ書面を送る事を提案する。義仲は受け入れ、覚明は書状を認める。要は平家につくのか、義仲につくのか、場合によっては焼き討ちすると、半ば脅迫である。
山門も直ぐには返答出来ず、評定を重ねるが、遂に義仲につくと結論を出し、返答する。
この間平家は何をしていたか、何しろ倶利伽羅・志保山・篠原と多くの子弟が戦死、悲しみ満ちているのは仕方がないが、今後をどうするのか、清盛亡き後、一族郎党を引っ張っていく人がいないのだ。一応棟梁は宗盛なのだが、平時はともかく戦時の指導者には向いていなかったようだ。まさか山門が平家を裏切り義仲につくとは考えていない。評定後、一応山門に書状を送っておこうということになるが遅いのだ。以仁王の乱に見せた清盛の抜け目なさ、親平家のはずの比叡山だが、さっと絹を送り、関係を確かなものにしてしまう。やはり平家は清盛で終わりなのだ。
その書状を受け取ったのが明雲である。既に義仲への返答を送った後だ。明雲は平家派、ということになっている。この泣き虫が荒法師の意見に押され、義仲に与することを止めれなかったのはわかる。しかし、親平家というのなら義仲からの書状が来た時点で、こういうものが来たと知らせてやるくらいのことはできなかったのか。叡山の義仲への返牒も即断ではなく、数日の評定を経ての事だったのだから。
明雲は平家からの手紙を他のものに見せず、三日間祈祷し「平らかに花咲くやども年ふれば西へ方ぶく月とこそなれ」という神宣が現れたと言って披露する。要は、平家は命運尽き、比叡山にも見捨てられるのだが、この和歌はでき過ぎのように思われる。平家が明雲に書状を送ったまではいいが、この和歌は物語の創作というところか。いずれにしてもこんな下手な手品を見せる明雲の品性はよろしくない。

そして第8巻法住寺合戦である。
寿永2年(1183)11月19日、大軍が法住寺に参集している。義仲が手勢を率いて攻め寄せる。後白河方はいくら大軍でも指揮官が鼓判官平知康という訳の分からない男だからたまらない。この男、後白河の使いで義仲に部下の狼藉を止めるように伝えるためにやってきたのだが、義仲に鼓を打たれたのか張られたのかとからかわれ、用件も告げず逃げ帰った。後白河に義仲は阿保だから早く追討した方がいいと告げた。いわば、合戦の口火役だが、何を思ったのか、築地の上で妙な格好をし、院宣に逆らうと罰が当たる、とか言って踊っている。義仲勢が攻めかかると、真っ先に逃げだした。
この鼓については、頼朝も、「不思議なることを申し出でて君をも悩まし奉り、云々」と戦犯扱いをしている。弁解に鎌倉まで行った鼓とは会いもしなかった。この時、頼朝は 「おほくの高僧・貴僧失ひける」と言っているが、高僧の一人は間違いなく明雲だろう。
三井寺の長吏円恵法親王と院御所に籠っていたが、火が回り、馬に乗って逃げるところを射殺された。林原本平家物語絵巻には、馬から転げ落ちる明雲が描かれている。袈裟も掛けずどこの小坊主かと思う姿である。


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鵜川のこと

2019-07-30 | まとめ書き

加賀国鵜川寺、白山の末寺だと言う、ここの湯殿に国衙の目代が乱入、馬を洗ったとか、怒った僧どもが、馬の足を折ったとか、埒もない喧嘩とみえたものが、叡山巻き込み大騒動になっていく。
さて、鵜川寺は加賀にある。加賀の国司、目代は後白河院の寵臣西光の息子、鵜川寺騒動は弟目代の起こしたものだが、鵜川寺は国衙の近くとある。加賀の国府は小松だ。小松付近に絞ったら鵜川がある。遊泉寺という地名もある。

鵜川寺を焼き、騒動を起こした加賀の国司と目代は、後白河法皇の寵臣西光の息子たちで、師高、師経という。西光は元は北面の武士だが、後白河の荘園の管理人のような役をしている。実質的に法王の財政を握る人物といっていいだろう。この人物が、寺社領を自分たちの傘下にしようと起こした騒動らしいのだが、実はもっと伺った見方もある。
鵜川寺は白山の末寺、国衙側の焼討・狼藉に白山神社に駆け込み、白山の僧兵が目代屋敷に攻め寄せるが、目代師経は京へ逃げ帰ってしまう。おさまらない白山は神輿をもって比叡山に向かう。鵜川は白山の末寺、白山は比叡山の末寺、という構造だ。白山と比叡山の神輿は内裏へ向かう。強訴である。後白河の曽祖父白河法皇が思うようにならないものと嘆いた、鴨川とサイコロと山法師、その山法師の強訴だ。数を頼んで押し寄せる。内裏の警備は武士の仕事、源三位頼政は手薄なところの守りにいたが、うまく僧兵たちを平家の守る門へ回してしまう。平家は黙って僧兵たちを通すわけにもいかないので、矢を射かける。矢は神輿にも突き刺さる、多くのけが人を出した僧兵たちは神輿を放り出して山へ帰る。さらに神罰か、京都の町は大火事に見舞われる。
というのが事件のあらましで、この後、怒った法王が延暦寺の天台座主明雲を遠流にするの、取り返すのという話が延々と続く。
さて、伺った見方というのは、西光(後白河)が比叡山と事を構えるため、わざと加賀で問題を起こした、というもの。時あたかも後白河と側近達による平家打倒の陰謀が進行中、鹿ケ谷の陰謀、である。比叡山と法王の合戦と見せかけて兵を集め、その兵をもって平家を攻めようという作戦。ということなのだが、そこまではうまくいったとしても、本気で後白河のために平家と戦おうという兵がいただろうか。それに鹿ケ谷に集ったメンバーを見ればそんな作戦の遂行能力がありそうにも見えない。俊寛、成経、康頼らだが、いずれも命惜しさに右往左往する情けない連中だし、鹿ケ谷でも猿楽騒ぎ、多田の行綱が不安のあまり清盛の下に駆け込むのも不思議ではない。但し、西光ははるかに肝が据わった人物だ。清盛の前に引き出された西光は敢然と清盛をののしっている。

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