妹尾太郎兼康
この人物は「平家物語」には、平家の郎党の典型のように書かれているように思う。第1巻から第8巻まで断続的に登場する。些細なケンカ沙汰から拷問、大規模な合戦、およそ力を必要とする場面はどこへでも、彼は平家の良き家人として走り回る。六波羅の警備隊長、といった役どころだろうか。
「平家物語」に沿って妹尾兼康の活躍を見ていこう。
まずは第1巻 殿下の乗合から。
平清盛の孫資盛(重盛の子)が若等たちと狩りに行き、帰りに摂政の藤原基房(松殿)の牛車の列に行き会った。資盛が道を譲らなければならないところ、資盛は譲らず行き過ぎようとした。基房の家人はこれを見とがめ、狼藉した。資盛は帰って清盛に訴える。清盛は怒って、高倉帝の加冠の儀に出仕しようとした基房の行列を襲う。この時、基房の家人の髻を切るなど狼藉を働いたのが、妹尾太郎兼康である。重盛は清盛をいさめ、狼藉した郎党を叱り、資盛を伊勢へ追いやった。この時資盛の歳は12,3歳。
平家物語ではこうなのだが、玉葉では違う。まず、資盛は狩りではなく女車での外出、年齢も10歳である。元服していたのかどうか?そして基房に報復するのは清盛ではなく重盛。基房は重盛に詫びを入れている。にもかかわらず、出仕の時を待ち襲撃。愚管抄でも同様らしい。玉葉の筆者、九条兼実、愚管抄の筆者慈円、共に基房の弟である。事件の近くにいて同時代資料を残した彼らの記述の方が真相に近いであろう。彼らに資盛をかばういわれはないので、子供がお忍びでたまたま通りかかっちゃった、というのが正解。狩り帰りの騎馬武者とは違うのである。では、何故基房の家人はただ咎めるだけではなく狼藉を働いたか。これには背景がある。
松殿、基房の父は藤原忠通、保元の乱で弟頼長と争った忠通である。忠通は法勝寺入道と呼ばれる。百人一首に「わたのはら漕ぎ出でてみれが久方の雲井にまがふ沖津白波」がある。私はこの歌の持つおおらかさが好きなのだが、作者の気性がおおらかなものであったかどうかは定かではない。なかなか子供が出来なかったので、一たんは弟頼長を養子にする。しかし実子が生まれると離縁、この事が頼長が憤懣を募らせる一因ともなる。忠通の実子、嫡男基実の妻は盛子、清盛の娘である。基実は若くして死ぬ。子は基通。盛子も幼くして嫁ぎ、実子ではないようだが、自分の子にしたのか。摂関家の家督にも役職と財産の部分がある。盛子は役職は弟基房に渡したものの財産の大半は基道に渡すものとして預かった。息子が成人するまで仕事だけはよろしくね!ということだ。もちろん清盛の後ろ盾があっての事、後白河の承認もあるとなっては基房としてはどうしようもない。この知恵をつけたのが藤原邦綱、経済に強い清盛のブレイン、摂関家の下で受領を歴任、摂関家の経済を隅々まで知る邦綱が清盛については致し方ない。松殿の平家一門への反感募るばかり、ということになる。だいぶ後になるが、清盛の推挙を受けて、源頼政が三位となった。その式に赴く時の牛車を貸してほしいと頼まれたが、基房は貸さなかった。清盛ずれの推挙を受けた奴に貸せるか!だったのだろうか。また、これも後年、一次のことだったろうが、松殿は義仲を婿にしている。更に後白河がらみで言うと、清盛の嫡子重盛とほぼ同時期、盛子は死ぬ。この時、後白河は名目上盛子の管理下にあった摂関家の所領を没収する。清盛にとっては思いもかけぬ打撃となり、治承3年の政変、清盛が後白河を鳥羽殿に押し込めるクーデターの契機となる。
次は鹿ケ谷の陰謀が漏れた第2巻、西光被斬である。
会議は踊るは19世紀のオーストリアだった。しかし12世紀の京都東山でも謀議は踊るのである、文字通りに。瓶子(へいじ)が倒れた!でそれ首を 採れ!と猿楽だ。さすがに本当かいな?なのだが、謀反の盟約は神との盟約、すなわち神事で、酒と踊は切っても切れぬというのだが、ほんまかいな?正気の残っていた静憲(信西の子)はあきれ返り、多田行綱は恐慌をきたして清盛の下へ駆け込む。
この謀議が現われ清盛の下に連れてこられた西光が、他の腰抜け公卿と一線を画す覚悟の良さでかっこいい。この時一緒に捕まった成親を拷問するのが妹尾兼康。これも彼の役職だからだ。兼康は手加減し、成親に悲鳴だけを上げるように言う。成親は臆面もなく悲鳴を上げ続ける。成親は備前小豆島に遠流となり、やがて殺される。成親の子成経は鬼界が島へ流されるが、途中、ここは父の配所に近いのかと尋ねる。実際には近かったが、兼康は遠いと答える。この辺り、妹尾はあはれをしるおとこ、となっている。
しかし、歌舞伎「俊寛」で成経・康頼を連れ帰る赦免船の使者はこの兼康で、芝居の上は見るからに憎々し気な悪役である。
次は第7巻倶利伽羅落である。
倶利伽羅で平家は源義仲に大惨敗を喫する。この時兼康は捉えられる。捕まった経緯は不明である。その前の富士川・墨俣などの戦いに兼康は出なかったのだろうか?それはわからない。平家物語が出陣を伝えるのはここだけだ。平家の郎党として彼の名は隠れもない。義仲は兼康の武勇を惜しみ殺さない。旗下の武将たちは大将がどんな人物を許し、誰を殺すか、じっと見定めていたはずだ。
この時兼康はいくつであったか、60歳前後と思われる。清盛より5歳程度若い。兼康は清盛の父忠盛の館で育った、という説もあるらしいので、それに従えば、清盛とは兄弟のように睦んだ時期もあったかもしれない。義仲と中原家の子弟たちとの関係のようなものがあったかもしれない。兄貴として、棟梁として仰いだ清盛は既に亡い。清盛の後継者たちを彼はどのように見ていたのか。どっちにしろ彼は平家に忠節を尽くす。なんとこれからが彼の本領発揮だ。
第8巻、章題からして「妹尾最期」
寿永2年、再起し讃岐屋島に居を構える平家を叩くべく、義仲は備中へ兵を送る。この時、義仲も側近の今井も出陣してはいないが、足利義康の子義清を大将に、信濃の海野行広を侍大将とし、7000騎を派遣する。彼らは備中水島から船で屋島に渡ろうとした、というのだが、現在の倉敷市水島というよりは玉野市の方らしい。平家が黙ってみているわけもなく、千艘もの船でやってきた。義仲方は慣れぬ船戦で大ピンチ、大将も侍大将も討ち死に。
それを聞いて義仲は10万騎を率い備中へ急行。
妹尾兼康を捕らえたのは倉光次郎成澄で弟三郎成氏が預かっていた。成氏は半年近く兼康を預かってきた。捕虜ではあるがそれなりの武将と丁重に扱ってきたはずだ。気心も知れてきたと思っていたはずだ。兼康が言う、旧領備中瀬尾は馬を飼うのによい土地だ、命を助けてもらったお礼に案内する。成氏は義仲に報告し、30騎で妹尾を連れて備中に先行せんとする。途中で兼康の嫡子宗康が100騎で出迎え播磨国府(姫路)で会う。三石の宿で宴会になる。三石というのは山陽本線に三石という駅があるのでそのあたりだろう。ここで妹尾は倉光成氏らに酒を進め、酔っぱらったところで皆殺しにしてしまう。
この頃備中は行家の領国だったが、その代官館も襲い、代官を殺す。
瀬尾の一党は妹尾館に集結する。どうやら岡山市内のようだ。
妹尾は福隆寺畷に城郭を築く。福隆寺畷がどんなところか判然としないが、畷というのは田圃の畦道などというが、私は泥土の中に続く一本道だと思っている。合戦址として知っているのは太平記の四条畷、灯明寺畷。新田義貞は灯明寺畷の深田に馬の足を取られ討ち取られた。報を聞いて駆けつける義仲勢の今井達も泥土に手を焼いている。
しかし、今井らは猛攻を加え、妹尾は兼康、宗康、郎党の3騎となって落ち行く。倉光次郎成澄は弟の敵とばかり追いすがる。しかし川の中でもみ合い、水練のできない倉光は返り討ちに合ってしまう。
妹尾3騎の馬はもう駄目だったのだろう。兼康は倉光の馬を奪い乗る。息子宗康20歳だというが走れない、というのは馬がだめになって徒になったのだろう。しかし、太って走れない、というのは侍の子としてどうも。。。平安末にもそういう人はいたのね、と親近を感じないでもないが。60歳の父に嫡子が20歳というのはこの時代としては奇異な気がする。何か事情があったのか。いったんは息子を見捨て、走り去る兼康だが、引き返し、息子を殺し、敵陣に打ち込んで死ぬ.郎党も死ぬ。義仲は「あはれ剛の者や。これらが命助けでみで」とのたまひける。
この妹尾兼康にセットになるものは渡辺競のエピソードだろう。彼は源頼政の郎党である。以仁王の挙兵時、出遅れて平宗盛に捕まった競は、恭順すると見せかけ、宗盛の馬を奪い、頼政の子仲綱の恥を注ぎ。宗盛に一杯食わせ、頼政の下へ馳せ参じるのだが、馬のエピソードのリアリティに難もあり、兼康の話の方がはるかに迫力がある。