物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20191214 妹尾兼康の墓

2019-12-19 | 行った所

妹尾兼康の墓は岡山市北区の鯉山小にあるという。
小学校を探すのは楽だ。すぐ見つかった。鯉山小学校に接して墓はあった。驚いたのは墓の前に陶山**という会社の建物があったこと。そしてこの掲示

「家臣陶山道勝」この会社はこの家臣の子孫だろうか。墓は新しいが妹尾兼康は地元で大切に考えられている人のようだ。
平家物語の妹尾兼康はどちらかというと軍の侍大将としては伊藤(藤原)忠清や平貞能や平盛国・盛俊などに及ばす、清盛・重盛の使いやすい部下といった印象だが、意外に京都ばかりにいたのではなく、地元に根を下ろした豪族だったようだ。備中の所領というのも自分たちで開発し寄進したものか。十二か郷用水も見たいものだ。
妹尾と今井兼平らが戦ったのは福隆寺畷・篠のせまりは現在の岡山市津島付近と比定されているようでもっと西寄りだ。近くに流れている川は笹が瀬川だ。
鯉山小学校からいくらもないところに板倉という名の交差点を見つけた。板倉川という笹が瀬川支流が倉光次郎が妹尾に返り討ちにあうところで、兼康は一旦は逃げるが、太った息子のために引き返し果てる。

この墓は実際に死んだ場所とそれ程離れてもいないのだろう


妹尾兼康に関しては以前書いている
妹尾の事

岡山県のホームページ 十二ケ郷用水 
地図もあって詳しい
十二ケ郷用水は総社市を中心にしているようだから、妹尾の本拠地といっていい。備中の国府から源行家に送り込まれた代官が簡単に襲われ追い出されたのもうなずける。ただ妹尾の館跡は岡山市南区の妹尾にあるという。要は現岡山市の大半は妹尾の支配下だったか。

 

(2023年11月 補記)

2019年に見たこの新しい墓ではなく古い宝篋印塔があったらしい。1990年代に発掘調査され、古い人骨が発見されたらしい。岡山大学の鑑定で、40~70代の男性の頭骨で、首を斬られ、他にも損傷を受けた後があった。12世紀ごろの骨であり、妹尾兼康の骨として矛盾はないということである。


20191214 藤原成親

2019-12-19 | 行った所

吉備津彦神社にあった案内板に 藤原成親遺跡があった。吉備の中山の中だ。行ってみる。


最初は児島に流され、港が近すぎると有木へ移され殺されるのだが、この辺りだったのか、吉備だと思っていなかった。

平家物語ではけちょんけちょんの云われ様の人物だが、それなりの才能と自負があったのだろう。


20191214 吉備津神社

2019-12-19 | 行った所

吉備津の竈を知ったのはまだ小学校の頃だ。子供向けに書かれた雨月物語だった。いそらと言う名前を恐ろしいものと思った。おそらく子供にも古典に親しませようという意図の本だったのだろう。いっしょに読んだはずの菊花の契りには男色の影もなくただ約束は守らなければならないとばかり強調されていた気がする。白峰や邪婬の性はその時読んだ覚えは全くない。
岡山駅付近から吉備津神社を指定したナビは途中から幹線を外れ、いやに細い道を辿り、急カーブを曲り山を登りはじめる。登りつめた分岐路では意外なほど対向車があるが、皆、新興宗教ぽい本部への道へ向かう。文化財センターを過ぎ山をくだる。
下り終えた所が吉備津神社だった。といってもどうも裏門のようなところへ着いたらしい。古色蒼然とした神社だ。

狛犬の顔が変わっている。

神社向かって左方向に長い回廊がある。回廊を歩くことにする。回廊脇に植わっているのは牡丹だ。回廊に牡丹とくれば長谷寺だが、ここではいくら朝早くとはいえ人影が見えない。
回廊中ほどに御竈殿の標示がある。あの吉備津の竈はここにあるのか。

中の人に聞くと本殿で祈祷を申し込めば鳴釜神事をしてくれるという。

本殿まで行くと立派な建物と広い境内、広い駐車場。どうやら裏からアクセスしたらしい。


そして、白いお猫様登場。鳴きながら歩いてくる。傍らのベンチに飛び乗る。人馴れしている。


 撫でさせてくれるばかりか脇へ座れば膝へ乗ってくる。どうやら寒くて足先が冷えていたらしく、人膝恋し状態らしかった。体をこすりつけてくるのもうれしくて、もうすっかりご利益があった気分。

御竈殿に戻り靴を脱いで上がる。かまどで火が燃えている。お湯が沸きせいろが置かれている。神主が祝詞を唱え、白衣の女性がせいろに玄米を振り入れたりする。玄米を入れるとウォーンと本当に音がするのだ。そのメカニズムはネットで調べれば出てくるが歴史と雰囲気があるものだった。


吉備津神社から吉備津彦神社へ回る。ここは吉備津神社より新しい印象だ。吉備津神社が備中一宮、吉備津彦神社が備前一宮だという。古代吉備国は備前・備中・備後に分かれた。備前・備中は岡山県、備後は広島県福山市を中心とする地域となる。吉備国というのは本当に大きかったのだ。ここにあった案内板で吉備津神社まで来た時通った山が吉備の中山だったことなど位置関係をようやく理解した。