妹尾兼康の墓は岡山市北区の鯉山小にあるという。
小学校を探すのは楽だ。すぐ見つかった。鯉山小学校に接して墓はあった。驚いたのは墓の前に陶山**という会社の建物があったこと。そしてこの掲示
「家臣陶山道勝」この会社はこの家臣の子孫だろうか。墓は新しいが妹尾兼康は地元で大切に考えられている人のようだ。
平家物語の妹尾兼康はどちらかというと軍の侍大将としては伊藤(藤原)忠清や平貞能や平盛国・盛俊などに及ばす、清盛・重盛の使いやすい部下といった印象だが、意外に京都ばかりにいたのではなく、地元に根を下ろした豪族だったようだ。備中の所領というのも自分たちで開発し寄進したものか。十二か郷用水も見たいものだ。
妹尾と今井兼平らが戦ったのは福隆寺畷・篠のせまりは現在の岡山市津島付近と比定されているようでもっと西寄りだ。近くに流れている川は笹が瀬川だ。
鯉山小学校からいくらもないところに板倉という名の交差点を見つけた。板倉川という笹が瀬川支流が倉光次郎が妹尾に返り討ちにあうところで、兼康は一旦は逃げるが、太った息子のために引き返し果てる。
この墓は実際に死んだ場所とそれ程離れてもいないのだろう
妹尾兼康に関しては以前書いている
妹尾の事
岡山県のホームページ 十二ケ郷用水
地図もあって詳しい
十二ケ郷用水は総社市を中心にしているようだから、妹尾の本拠地といっていい。備中の国府から源行家に送り込まれた代官が簡単に襲われ追い出されたのもうなずける。ただ妹尾の館跡は岡山市南区の妹尾にあるという。要は現岡山市の大半は妹尾の支配下だったか。
(2023年11月 補記)
2019年に見たこの新しい墓ではなく古い宝篋印塔があったらしい。1990年代に発掘調査され、古い人骨が発見されたらしい。岡山大学の鑑定で、40~70代の男性の頭骨で、首を斬られ、他にも損傷を受けた後があった。12世紀ごろの骨であり、妹尾兼康の骨として矛盾はないということである。