京都街歩き
烏丸を挟み三条近辺、高級な館街だ。ただの高級住宅というわけではない。平安時代から王家・摂関家の館だ。贅美を尽くした、というだけではないだろう、警備や財政官、下働きの者もいて、やはりそれ一つで官庁のようなものでもあったのではないか。
三条姉小路を少し入ったところ、新風館という建物の北西の隅近くに三条東殿の碑がある。平治元年(1159)後白河の院御所になっていたここに、源義朝らが襲撃、後白河を連れ去って幽閉する。平治の乱である。
新風館
烏丸を挟んで西側には三条西殿
そしてその南、現みずほ銀行の建物に、三条南殿の銘板がある。
平治の乱当時は上西門院の館だった。13歳の少年頼朝が勤めていたのだ。遠藤盛遠、若き日の文覚もまたここにいた。
姉小路新町西入ルで北側に高松神明社があり、ここに高松殿の案内板があった。上の地図の屋敷の場所は通り名で特定できるものはそれに従っている。
ここで後白河が即位し、保元の乱のとき後白河方の本拠になったという。
御池通りを渡り、烏丸と室町の間の通りは両替町通りという。その名の通り銀座址の碑があったりするのだが、江戸時代の事だ。
漫画ミュージアムの裏に二条殿址の碑もある。二条良基が広大な池のある邸を構えていたというが、これも平安時代からはだいぶ時代が下がる
。
押小路を西へ行き、押小路釜座に東三条院の案内板がある。「とうさんじょういん」と読むらしい。道長のころの摂関家の華やかな邸だったらしいが安元3年の大火で焼亡とある。
ここは摂関家の儀式殿で、氏の長者示す祭器の類も保管されていたらしい。保元乱の前に、藤原忠実は一度譲った氏の長者を長男忠通から取り戻そうと働きかけるが、忠通は応ぜず、忠実は源為義に東三条院を占拠させる。氏の長者は頼長に渡したものの忠実・頼長と忠通の間は決定的に決裂する。
押小路を更に西へ行くと閑院の碑があった。高倉天皇が里内裏に使ったらしい。
その隣が堀川天皇里内裏のはずだが、ホテル改修中のためか碑を探せず。
ホテルの西側、堀川に面して、橋本佐内の住居跡、福井藩邸址があった。
堀川
20201718 左女牛井
さめがいと読むようだ、岐阜の醒ヶ井と何か関係があるのだろうか。
堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中にある。
碑の脇には読みにくいが、「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代に既に名あり云々、第二次世界大戦に際し昭和20年疎開のため撤去云々」とある。
木の案内板は最初のパラグラフは読めない。次は村田寿光がこの辺りに住み、義政や織田有楽斎も来たことがある云々で、最後は昭和44年、碑を建てた経緯のようだ。
堀川六条には源氏累代の館と呼ばれる場所があったらしい。義家から始まり、保元の乱当時は為義がいただろう。不仲の義朝の京都での根拠地はどこだったのだろう。平治の乱時には義朝はここから出撃したのか。義経は京と滞在中は六条堀川にいたというからここだったのだろう。
七条堀川を少し東南に入ったところで見かけた住所表示、あの文覚と何か関係があるのだろうか。