物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

火打から倶利伽羅まで

2024-01-31 | まとめ書き

治承寿永の内乱における北陸の戦いは、平家物語では「火打合戦」から始まるが、前哨戦は無論あった。義仲云々というより東国と同じように、平家政権に対する地元の反感が反乱化始める。平経正が若狭に、通盛が越前にと派遣されるが成果は上げれなかった。平家与党であったはずの平泉寺威儀師らの寝返りにより、窮地に陥った通盛は都へ帰る。その後膠着状態であったが、寿永2年(1183)平家は大軍を以て北国へむかう。琵琶湖の西岸・東岸に分かれて北上し、木の芽峠・栃木峠を越えていく。二つの峠道の落ち合うところが今庄だ。交通の要衝として、近世まで栄える。今庄の火打城には義仲与党の北陸の住人たちが待ち受ける。総大将は平泉寺の偉儀師斉明、白山勢力を従える。山城の山裾をめぐる川をせき止め、湖沼と見せかけていたのだった。取り囲んだ平家の大軍を見て、山城に立てこもった斉明は何を思ったか、やはりとても敵わない、とでも思ったのだろうか。斉明の裏切りにより、堰き止めた水は落とされ、火打城はあっさり陥落してしまう。

 火打ち城 文政の道案内付近から
北陸勢は敗走し、平家に越前を席巻されてしまうのだが、平家物語に従い、この山城に立てこもった面々を見ていこう。斉明・稲津・斎藤太・林・富樫・土田・武部・宮崎・石黒・入善・佐美と挙げられている。
斉明:平泉寺偉儀師とか長吏とか、平泉寺の悪僧たちの束ねだろうか。平家に従っていたはずが寝返り、また再び平家に帰り忠として与した。越前河合斎藤氏の出身。藤原利仁将軍の子孫と称するが、北陸の武者の大半は利仁の子孫を称する。平家方の斎藤実盛とは又従兄程度の関係らしい。
稲津:新介実澄、福井市稲津町辺りが本拠らしい。岩波の注記には藤原則光の子孫とあったが、河合斎藤氏の出身とするものもあった。斎藤氏という方が妥当な気もするが、則光というのは面白い。枕草子に出てくる無粋な男だが、清少納言の夫だったことがあるといわれている。今昔物語に説話もある。盗賊らしい男を3人斬り殺した、というものだ。(今昔物語23巻15話) 稲津新介は斉明と共に平家を裏切り、火打ち城に入る。斉明のかえり忠には与せず敗走した。
斎藤太:これはわからない。ただ越前斎藤氏であることは間違いないだろう。
林:六郎光明。加賀石川郡林の住人。利仁の子孫を名乗る。手取川扇状地の付け根辺りが本拠らしい。
富樫:入道仏誓。加賀石川郡富樫の住人。これも利仁の子孫を名乗る。富樫氏は10C末加賀介になり従五位下であった。安元2年の鵜川騒動の時、目代師経に従い遊泉寺を焼き討ちした武者の中に富樫家直がいる。義仲の敗死後、富樫泰家というものが頼朝に詫びを入れ蟄居したが、後許され加賀の守護になったという。16世紀に一向一揆に滅ぼされた富樫政親の高尾城は現金沢城に重なるという。館跡は野々市にある。
土田:能登の住人。現志賀町二所宮に土田城址というものがある。
武部:能登の住人。現中能登町武部。中小田親王塚の東になる。
宮崎・石黒・入善:いずれも越中の住人
佐美:加賀江沼郡佐見。小松市で海岸沿いの安宅の南側。

火打城を落ち延びた面々は「なほも平家にそむき、加賀へしりぞき白山河内へひっこむる」と平家物語にはあるのだが、いきなり今庄から白山河内までは行かないだろう。白山河内は手取川を遡り、白山比咩神社を過ぎて更に山へ入ったところになる。
源平盛衰記だともう少し抵抗していることになる。
まず反乱軍は越前河上城へ立てこもる。現坂井市丸岡町川上だ。竹田川の北、北陸高速道路の東側の山の中に空堀・土橋などの山城跡があるそうだ。
 鳥居は白山神社、この奥の山が河上城
平家は長畝に陣を構える。丸岡町長畝だ。高速道路西側の平地かなりの広さがある。どこに陣取ったのか見当がつかない。ただ、長畝には斎藤実盛ゆかりの池、というものがあり、それが本当だとしたなら、平家はそのあたりに陣を張ったとみてもいいかもしれない。越前加賀に点在する実盛遺跡は、ごく一部を除いて、平家物語が世に流布してから出てきたのではないかと邪推しているのではあるが。
*実盛池
盛衰記では「ながうね」とルビを打っているが、現代では「のうね」といっている。それにしても今庄から丸岡まで一気の退却であり、進撃であった。
稲津は足羽川沿いの地域だ。
*稲津橋
稲津の新介あたり、足羽川を利用しての抵抗はできなかったものか。足羽川どころか九頭竜川もやすやすと突破されたことになる。平家も国府(越前市府中町)で一服することなく一気に北上したということか。
福井県史では「斉明は北陸一帯の道路を知り尽くしていたであろうから、退却する義仲軍を追撃するには官道だけでなく、そのほかの小路も利用したに違いない。平氏軍の主力は丸岡・長畝・疋田・中川・金津・細呂木というルートで加賀国に入って、越中国まで攻め入ったのであるが、白山信仰の拠点越前馬場平泉寺と加賀馬場白山宮をつなぐルート、つまり勝山から谷峠を越えて加賀国に入り、手取川に沿って下り鶴来町に出る現在の国道一五七号線にあたる道も、平氏の騎馬武者は利用したことであろう。」と書いている。まことに斉明の裏切りは大きかった。
盛衰記に戻ると、反乱軍は河上城には兵糧がなく、三条野に退いて陣を敷く、とあるが、三条野がわからない。しかしここで林光明の息子今城寺太郎光平が、血気にはやって荒馬で突進し討ち死にしてしまう。加賀勢は気落ちし越前を撤収し、篠原へ退く。
今城寺を討ち取った者として斎藤実盛が出てくる。砺波山の戦いの後の篠原合戦で、髪を染め美々しく着飾って戦い、手塚光盛に打ち取られ、義仲の涙を誘う実盛である。ここで出てくるのはとても不自然な気がするのだが、どうだろうか。

さて越前国内の抵抗がこの他になかったかというと、そうでもなかったかもしれない。あわら市北潟湖畔菖蒲園の一角に二万堂なるものがある。

もちろん二万というのは途方もない。いつの合戦やらも定かではない。案外一向一揆かなにかの合戦かもしれないが、ともかくこのようなものがあるにはあるのである。


源平盛衰記では、三条野の後を続けてこうある。越中勢はここで退くか、戦い続けるか協議するが、戦うことにするが、平家の攻撃に篠原の陣を保てず、佐見・白江・住吉に後退する。佐見は安宅の南、梯川の河口の少し南だ。住吉は安宅住吉神社というのがあるのでその辺だろうか。白江は小松市白江で、ここは海岸線ではないようだ。
平家は勝ちに乗じて山野に満る。先陣が安宅に迫っても後陣は黒崎・橋立・追塩・塩越・熊坂・蓮が浦にあったという。橋立は加賀橋立、近世に北前船でにぎわった港町だ。黒崎はその近く。追塩・塩越はわからないが大聖寺川河口北岸に塩崎という地名がある。吉崎の対岸となる。熊坂は越前にもあるが加賀の熊坂町は国道8号線を北上すると大聖寺のすぐ手前辺りになる。蓮が浦は北潟湖の東、細呂木の西になる。まさに官道・間道を埋めての進軍だったのだろう。平家は篠原に本陣を設ける。篠原は片山津市、柴山湖の西側だ。何度も出てくる。
義仲与党の反乱軍は安宅に、梯川北岸に集結する。橋の橋板を外し待ち構える。梯川河口付近に橋があったと見える。川を隔てての矢の応酬。やがて平家は浅瀬を探し、渡岸する。浅瀬探しは越中前司盛俊・盛綱の知恵となっている。互いに矢の飛び交う中、馬を川に入れての合戦になる。越中の石黒太郎が負傷し、弟福満五郎が助けるエピソードもある。しかしこの戦いも数に勝る平家が勝ち、源氏の敗走と平家の追撃が始まる。
敗走の中、井家次郎が手勢17騎をで反撃を試み、全滅したのが根上の松のところだという。
富樫・林・下田・倉光らも敗走する。下田氏はわからないが、倉光兄弟は後で妹尾兼康のからみで出てくる。
富樫次郎家経は馬を射られ、一族の安江次郎の郎党に馬を譲られ落ち延びている。一の谷では馬を射られた重衡が替え馬に乗った乳母子に逃げられ捕まったり、忠度が一騎になって討ち死にしたりしているのよりは、まだ陣形を保ったままの敗走だったかもしれない。
今湊・藤塚・小河・浜倉部・並河を通り、大野荘に陣を構えたとある。
今湊神社というのが手取川の手前、小舞子駅の近くにある。手取川を渡って、藤塚神社というのもある。小河は白山市小河町か、美川ICと徳光PAの間くらいになる。浜倉部は白山市浜倉部、松任の南の海岸線近くである。並河は不明だ。大野荘は金沢市街地。海岸線沿いに北上し、富樫の本拠地に拠ろうとしたのだろう。
しかし、平家軍は盛んで、富樫・林の館を焼き払う。林の本拠は手取川扇状地の扇の要付近と思われるが、そこからも追い払われたのだ。
ここで平家物語の「白山河内にひっこむる」が想起される。白山河内は手取川沿いには白山麓を入ったところになる。16世紀加賀一向一揆最後の砦となった鳥越も近い。義仲与党の加賀勢も、加賀一向一揆の衆徒たちも、加賀の平野を追い払われ、山にこもったのである。
「なに面をむかふべしとも見えざりけり。」という平家の威勢なのであるが、次の合戦の舞台は砺波山、倶利伽羅合戦に移っていく。

コメント