物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

街道に沿って 旧北陸道 長畑一里塚跡・おはや良作地蔵

2021-06-19 | 行った所

踏切を越えるとすぐJR丸岡駅への路地がある。そのまま真直ぐ南下する。左手に福井信用金庫を見て少し進むと、長畑一里塚跡がある。


近くに市役所や駅、信金、郵便局などもあるあたりなので、何度か通ったことのある場所ではあるのだが、来たことのない方角から通ってみると新鮮だ。


長畑一里塚の向かいにある祠は「お早良作地蔵」だ。


越前万歳と云うものがあるとは知らぬではないが、聞いたこともないのでどんなものかよくわからない。お正月の門付だと思っていたので、こんな近松の心中物もかくやと云うヘビーなものがあったとは。
図書館に「おはや良作二百回忌記念 北陸街道悲恋物語 資料集」と題する冊子があったので借りてみた。発行者は坂井町古文書の会とある。冊子ながらなかなかの力作である。坂井町御油田演仙寺ある文書と石川県の図書館にあった文書を調べて解読している。加えて越前万歳に出てくる地名を地図に落としている。しかし事件の全貌が明らかになったのかと、いうとそうでもないようだ。安達良作が加賀藩家臣の次男で、安達家が事件隠ぺいに動いたらしいので余計わけがわからなくなっているのかもしれない。後からの聞き書きの所為かおはやの身分も、良作の使っていた下女・商家の娘・茶屋娘、といろいろである。秋元屋平助娘、とあるのでそれはそうで呉服屋でもいいのだが、追いかけてきてはやを連れ戻そうとしたという義母、平助後家とあるのだが、この母の振る舞いが尋常ではない。無頼の男を連れていたらしい。とするとこれは脚抜けしようとした遊女を連れ戻す遊女屋の女将、と考えた方が自然だろう。
死んだ者は4人だが、はやと義母と良作ともう一人も、良作の連れていた家来か義母の連れていた男かはっきりしないようだが、加賀藩の史料である「政隣記」には家来は良作の自害を介助したのち縊死したとある。
ともかく彼らは宮領村・長畑村・上新庄村の三村の境にある一里塚付近で斬り合って死に大騒ぎになったのである。文化5年5月にこんな事件があったことは間違いがないようである。


冊子後ろの会員寄稿で、越前万歳の道行きでは、5月4日に金沢を出奔した良作たちが5日の晩福井の木田に宿泊し、そこで義母らに追いつかれ、6日に長畑まで引き返し、事件になったというのは時間的に無理だという説が紹介されているが、確かにそうだ。良作一人ならまだしも女子連れでは無理だ。小松や金津で宿泊し、6日に長畑で追いつかれたと考える方が自然だろう。
越前万歳の歌詞は金沢から福井までの地名を次々読み込む道行きだ。福井の松本まで来てめでたく万歳し、心中は出てこない。この冊子に紹介された歌詞では木田も出てこない。



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