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源源合戦の事 2

2020-05-07 | まとめ書き

源源合戦の事 1の続き、ナンバーは「源源合戦の事1」の表を参照

1180 治承4年 源頼朝 親戚 佐竹秀義ら 親戚 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる
1183 寿永2年 源頼朝 源義広 叔父 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟)
1184 寿永3年

源義経
範頼

従兄弟 源義仲 従兄弟 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ
1184 寿永3年

源頼朝

父の従兄弟
婚約者の父
源義高 従兄弟の子
娘の婚約者
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される
1184 寿永3年 源頼朝 親戚 一条
忠頼
親戚 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される
1185 元暦2年 源頼朝 親戚 多田行綱 親戚 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。
1189 文治5年 源頼朝 源義経 義経奥州衣川で敗死
1193 建久4年 源頼朝 源範頼 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害
1219 建保7年 公暁 源実朝 叔父 頼家の子公暁が実朝を暗殺する

保元の乱から治承寿永の戦乱の時まで話は飛ぶ。これまでとは違い、直接・間接の戦いであれ、⑯以外の勝者は全て覇者頼朝だ。

1180 治承4年 石橋山の敗戦から一転、大軍を率い戻ってきた頼朝は、富士川の合戦に戦にならぬほどの敗走した平家軍を追うことなく、向きを変え、常陸の佐竹氏を討つ。⑧金砂城の戦いである。三浦・千葉・上総の面々が佐竹討ちを主張したという。関東での武士団の所領争いの方が平家追討より先行する問題だったのだろう。
ところで、この佐竹氏もまた源氏である。祖は義家の弟新羅三郎義光。②の常陸合戦で甥義国を追い返し、③のこれも甥義忠殺害事件の真犯人とされる義光である。義光の孫の代から佐竹郷に住み佐竹を名乗った。佐竹秀義はそこから3代目。佐竹は長く上総広常と相馬御厨を巡り争ってきた。戦いの当初、2代目当主の兄は上総広常に殺された。これでは簡単に頼朝軍に降るわけにはいかないだろう。義秀は奥州合戦の前には頼朝の軍門に降るのではあるが、金砂城の戦いに敗れた時には奥州へ逃げる。

金砂城の戦い直後、頼朝は義広・行家の二人の叔父に会う。行家は以仁王の令旨を携え、既に頼朝とは会っていたはず(行家は義広の所にも我兄なればとて令旨を届けている)だが、義広とは初対面だったろう。義広の本拠信太(志太、志田)荘は現在の稲敷市であり、霞ケ浦の南、常陸とは言っても佐竹の本拠とはかなり離れてはいるが、利害こもごもあった事だろう。どう受け止めたかはわからないが、少なくとも頼朝とは合流しなかったのは、気に食わなかったということだろう。
義広は為義の三男であり、義賢と同母だ。長兄義朝との関係はわからない。平治物語には行家と共に義朝に従っており、最後義朝と別れ落ちているのだが、眉唾の気がしてならない。角川ソフィア文庫の「保元物語」の註には義広は河内長野にいたとある。「山塊記」にそうあるそうだ。それも不思議な気がしてしまう。保元の乱から平治の乱までわずか3年、義広は兄弟のほとんどが参じた為義方へは行かず、また関東武士団の多くを動員した義朝方へもつかなかった。野口実の「源氏と坂東武者」によれば全てが義朝との主従関係があった訳ではなかろうが、保元には全関東と言っていい地域から多くの武士団が参集しているが、平治の乱ではわずかに三浦・山内首藤・渋谷・上総・長井(斉藤)・足立・平山を数えるのみだ。平治の乱は清盛熊野詣の隙を突いたクーデターであったので、これらの関東武士はたまたま在京していたらしい。義広もたまたま関西にいたのだろうか?しかし、保元の乱の前年、同母の兄義賢は義朝子義平に殺されている。関東にいようが関西にいようが、義広が義朝に合流するだろうか。
ともあれ治承4年の時点で、義広は頼朝を斜めに見た。そして寿永2年(1183)、義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、下野の野木宮へ向かう。だがこれって本当に鎌倉を攻める気だったのか?信太から野木宮は西北方向に直線距離で65km程である。鎌倉を討つというより、下野の足利と一緒になり、上野、更に信州の義仲に合流しようとしたように見える。行家は既に義仲を頼って行っている。頼朝の義仲を討つという信州入りに、義広の動向も関係していたのだろう。下野は足利氏の地盤であり、足利もまた源氏である。②の常陸合戦で新羅三郎義光に負けた義家四男義国の子孫である。以仁王の挙兵時、宇治川の橋板を落とし平等院に立てこもる源三位頼政を攻める平家軍の先頭に立ち、馬筏を組んで宇治川を押し渡ったのは若き足利忠綱であった。おいそれと頼朝の下に付こうとは思われない一族だが、彼らも所領をめぐり様々な利害関係があったらしい。足利の一族の小山朝政は義広に味方につくと見せかけ、だまし討ちに義広軍を破る。野木宮合戦に敗れた義広は逃げ出して義仲の下へ行く。義広は義仲が粟津で戦死したのちも抵抗したが、殺されたらしい。ただ平家物語では行家と共に義経が九州へ向かおうとした船に乗り難破したことになっている。

寿永2年3月、義仲・頼朝の中が一触即発となる。
文字通り日本史上初の東国政権・武家政権を制度として打ち立てた頼朝だが、自ら兵を率い、合戦に赴いたことは少ない。挙兵と石橋山の戦いはともかく、房総半島を回り、鎌倉入りするまでのは大変な緊張を強いられるものではあったろうが、合戦とは言えない。富士川の戦いもとても合戦と云えるものではなかった。しかし常陸の佐竹討ちは親征だ。
そして頼朝は信州善光寺まで兵を率いてやってきた。という話自体どっかおかしい気がするが、物語ではそうなっている。この時は合戦になっていない。上田の依田城にいた義仲が頼朝との戦いを好まず、今井兼平の猛反対を押し切り、嫡子義高を送ってまでして頼朝との衝突を避けたからだ。
戦っていたらどっちが勝ったろう、義仲に分があったのではないか、と義仲贔屓の私は思ってしまう。そして頼朝のもとにいた京下りの官僚どもを我手に収めてしまえば、京都であれほど苦しまずに済んだのではないか。ただどちらも大きく傷ついただろう。平家物語の義仲の言「平家に笑われんとは思うべき」は真っ当過ぎた。
もう一つの頼朝の親征は奥州攻めだ。既に義経の死んだ後にも関わらず義経を口実にしていることを思えば、頼朝の親征はみな一族がらみだ。

寿永2年(1183)5月倶利伽羅峠に平家の大軍を破って以仁王の遺児を奉じ北陸路を抜け入京した。寿永3年1月まで、1年に満たぬ時を木曽義仲は文字通り疾風怒濤に駆け抜ける。いっときの栄光と失意と敗残。⑩ ここに記すには余りありすぎる義仲だ。

⑪は合戦ではない。義仲の子義高が頼朝に殺された。義高は頼朝長女大姫の婿ということになっているが、実質上人質であった義高は、父と頼朝が敵対し、父が死んだとなれば命はない。だから大姫も必死で逃がそうとし、義高も逃げ出したのだろう。あまりに幼い夫婦で子供のできようもなかったであろうが、頼朝の孫にして義仲の孫、というのは見てみたかった。
ところで義高が鎌倉を脱出する際、海野幸氏という同年代の側近の少年が身代わり役を務める。頼朝はこの少年を殊勝であると許し家来に加える。海野幸氏は弓の名手として知られるようになり、「曽我物語」の中にもちらりと登場する。幸氏の父(兄?)幸広は義仲の信頼する部下であり、平家追討の侍大将を務めるが、平家得意の海戦となった水島の戦いで敗れ、戦死している。

鎌倉時代初期、北条氏による有力御家人、和田(三浦)・梶原・畠山・比企の掃討はよく知られているけれど、始まりは寿永2(1183)年12月の頼朝による上総広常殺しではないだろうか。上総広常は保元・平治の乱を義朝方で戦い、石橋山で敗れ安房を巡ってきた頼朝を迎え入れた。不遜な言動が多かったとされる広常だが、彼がそっぽを向いていたら、頼朝は鎌倉入りもおぼつかなくなっていたと思われる。頼朝・広常双方、それが分かっていたのだろう。少しでも権威を傷つけるものは消す、それも真っ向から非を唱えて討つのではなく、謀殺する。広常は梶原景時とすごろくに興じていたところを天野遠景に殺された。
このやり口は、次の⑫一条忠頼殺しにも引き継がれる。というか、忠頼殺しは広常殺しにそっくりだ。一条忠頼は武田信義の嫡男、甲斐源氏だ。新羅三郎義光の系統になり、常陸の佐竹氏とは同族だ。佐竹攻めをどう見ていたのか、義仲とも関係はどうだったか知らない。ともかく頼朝の反乱軍に同盟に近い関係で加わり、富士川の戦い直前、平家の大軍を解体寸前に追い込んでいた。そして駿河を実効支配した。
「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と言われて殺された忠頼だが、広常以上の自負があり、家柄も頼朝に劣るとは思っていなかったろう。1184年(寿永が元暦に改元)6月、忠頼は鎌倉で酒宴の最中に暗殺される。最初は工藤祐経が討手とされていたがびびった。脇から小山田有重出てきて忠頼の気をそらし、天野遠景が討ち取ったという。
工藤祐経は「曽我物語」の敵役だが、武芸者ではなかったようだ。

⑬は合戦ではなく、さらに暗殺でもなくただの追放劇である。
多田行綱というのは平家物語の鹿谷の陰謀事件での密告者としてあまり格好の良くない役を振られている。義仲に呼応するが、法住寺合戦では後白河方、義経が来ると一緒に義仲を攻め、平家追討にも加わる。一の谷も鵯越えの奇襲攻撃も、義経ではなく行綱だともいわれる。なるほど摂津源氏の行綱の方がはるかに地の利はあっただろう。義経が都落ちする際は大物浦へ向かう一行を河尻の戦いで邪魔をしている。どうも腰が据わらないというか、どっちつかずで信が置けない人物に見える。京武者と云えばそうなのだろうが、同じ摂津源氏でも頼政の和歌詠みとしての優雅な貫禄、老いの一徹を感じさせる死にざまに比べると明らかに劣る。
しかし、この多田行綱は清和源氏の正当な嫡流と云える。実質的な清和源氏の祖多田満仲の長男が鬼退治伝説に彩られる頼光で、満仲以来摂津を本拠地とした。頼光の弟頼信が河内を本拠とし、頼信の孫が義家で、頼朝は河内源氏だ。
清和源氏としての源流を求めるならは多田満仲の故地、行綱所領こそ求めなければならない。行綱が小人といえども放置してはおけなかったのだろう。


⑭ 文治5年(1189年)閏4月義経死す。文治2年都落ち以来、彷徨っていた義経は奥州平泉に逃げ込む。10代からの恩人藤原秀衡は暖かく迎え入れるが文治3年10月北方の王者秀衡は死ぬ。諸兄国衡との軋轢も抱えた泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、衣川の義経館に攻め寄せる。義経は自害した。
なんと頼朝の奥州攻めはこの後から始まる。泰衡には義経を討てば許されると示したはずである。「弓箭をふくろにすべし」と後白河も云った。しかし頼朝の目的は奥州征伐、都市平泉の壊滅であった。これまで義経を匿ってきた事を言い立てて奥州攻めを敢行する。それは自らを八幡太郎義家になぞらえ、示すことでもあった。頼朝は義家と同じ旗指物まであつらえたという。つい最近まで不便な湿地の多い海人・野鼠の棲み処と云われた田舎に過ぎなかった鎌倉を東日本の中心とするためにも、物流・文化の中心、富の三点セットを持つ平泉を破壊しなければならなかった。(木村茂光「頼朝と街道」)


奥州征伐を終え、建久3年(1192)には頼朝は征夷大将軍となる。中年以上の年代の人なら「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えたはずである。翌建久4年、頼朝は大規模な巻狩りを催す。名実ともに鎌倉殿を頂点とする政権が樹立したのだ。軍事演習を兼、鎌倉殿の威勢を示す大イベント。頼朝嫡男頼家が初めて鹿を射た。大団円で終わるはずだったこのイベントの最終日、あろうことか、鎌倉には頼朝が死んだ、という知らせがもたらされる。起こったのは曽我の仇討と呼ばれる事件であり、もちろん頼朝は無事だった。しかしこの誤報には単に混乱していた、という以上の不穏さを感じさせるものがある。余りに容易く曽我兄弟は陣屋に入り込んだ。曽我五郎は頼朝の居室まで入ってきたのだ。手引きがいて、頼朝の首を狙った可能性・・・あまりに早い鎌倉への知らせ、真偽不明の混乱というより、頼朝は殺される前提で使者が走ったのではないか。当然頼朝は疑っただろう。まして、弟が「鎌倉殿が没しても私がいる」などと口走ったと聞けば・・・俺が死んだらお前がどうすると! かくて範頼は修善寺に閉じ込められて殺される。⑮

もはや源氏の主だったものは誰もいない。その頼朝も5年後には死ぬのだが、死因もよくはわからない。日本史上大きな転換点を乗り切り、間違いなく新しい地平線を見た10指に入る歴史上の偉人、源頼朝は間違いなくそれだ。しかし、脳溢血か心臓発作で落馬して死んだ、というのが一番穏当な説。もちろん暗殺説もある。何しろ吾妻鏡は建久9年の分がないのだ・・・

若くして頼朝を継いだ嫡男頼家、御家人たちと、特に北条とうまくいかず、修善寺に閉じ込められて殺されるのだが、その前に実朝擁立の動きに反発した頼家は、阿納全成を関係していたとして殺す。全成は義朝の七男、義経の同母兄であり頼家の叔父である。北条政子の妹阿波局と結婚していた。全成の死で義朝の男子9人はすべて死んだ。

最後⑯は3代将軍実朝が2代目将軍で実朝兄の頼家の子公暁に殺された、というもの。源氏得意の叔父VS甥のパターン。公暁に手引きがいたことが強く疑われはするのだけれど。


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