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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

平清盛死亡推定地

2021-01-05 | 行った所

平盛国は清盛の股肱の郎党だ。伊勢平氏で一族だろうが、郎党化したのだろう。平家物語によれば、一の谷で猪俣範綱に騙し討ち同様討ち取られた盛俊は嫡男だ。盛国は平家滅亡後鎌倉に送られるが、自死したという。すでに老齢であっただろう。
その屋敷は八条の末とも九条の末ともいうが、ここでは八条説を取っている。


清盛は福原へ移動したのち、京都では西八条の時子の所より盛国屋敷に宿泊することが多かったようだ。そしてここで熱病により死亡する。
更にここは高倉天皇の出生地だと言われる。母は平滋子、後の建春門院である。
それが清盛の郎党の屋敷で子を産んだ。
おそらく清盛は妻時子の腹違いの妹の美貌に目をつけ、後白河に薦めたのだろう。同じ堂上平家平時信の娘とは言っても、時子と時忠の母は二条大宮の半者とか、一人前扱いされないものだったのに対し、滋子の母は中納言・藤原顕頼の娘というから、こちらは立派な公家の娘である。上西門院の女房から後白河の愛妃へ、更に皇子を産み国母となった。清盛の思惑もよく理解し、後白河との間を取り持った。彼女の死後、清盛と後白河はさまざまに対立していく。



清盛死亡推定地の近くにあった碑



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