物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

鳥羽歩き

2021-01-05 | 行った所

現在の鴨川はJR線等の鉄路を過ぎると南北の流れを西南方向へと変える。京都南ICの北を流れ、桂川へと合流する。しかしかつてはもっとぐっと南によって流れたらしい。その旧鴨川と桂川との合流地点の北側に鳥羽離宮は営まれた。
以前アスニー(京都市生涯学習総合センター)で手に入れた「院政期最大の遺跡 鳥羽離宮を歩く」という60ページ余りの冊子がある。これを手に鳥羽の地をうろうろしてみようというのだ。

一号線を南下すると城南宮の近くへ出る。鳥羽作道は一号線より少し西側を走っていたらしいけれども京から鳥羽殿に向かう道としては正しいだろう。城南宮の駐車場に車を置く。

 

城南宮は鳥羽離宮の鎮守社、流鏑馬や競馬(くらべうま)が良く行われた。鳥羽と崇徳はともに競馬好き、二院で、或いは美福門院も加え、相携え観戦に赴いたものらしい(「保元平治の乱と平家の栄華」)
馬場は現参道の辺りらしいが、それを示すようなものはない。賀茂神社の馬場は見たが、あのようなものだったろうか。
下鴨神社「今昔蘇る古代祭祀の風光」から

ここは熊野詣の出発点ともなっている。

鳥羽は20回以上も熊野に出かけたらしいが、一度だけ崇徳と共に行っている。崇徳はあまり出歩きが好きではなかったらしく、熊野詣は一度だけだ。(「保元平治の乱と平家の栄華」)鳥羽で精進して出かけたというからここからだろう。

城南宮を西へ歩くとほどなく第二京阪が頭上を走る広い道に出る。通り名は油小路となっていた。その道を少し北上すると白河陵だ。

 

 周濠が作ってある

白河はこの時代の人としてはたいそう長命で、死の直前まで治天の君として君臨した。院政を開き、これまでの社会さえ大きく変わる原動力ともなった人だけにひとかどの人間ではあったのだろうが、いったん好きと思い込んだ人間に対する愛着は狂乱と思しく、愛娘の死にの嘆き著しく、菩提を弔いましょうなどと云ってくる者には脇も甘くなる。平家が台頭のきっかけをつかんだのはこれだ。仏教への傾倒も著しく、せめて鎮護国家を願えよと云いたいが、祈ったのは死後の極楽往生だ。この人の頭がもう少し違った風に働けば、藤原忠実・待賢門院・崇徳帝はもっと違った人生を送っただろう。

天皇陵と云われるものは皆同じような設えがみられる。だから天皇家の墓は大昔から連綿と同じような形式で作られていたと思う人がいて驚くこともある。たいてい明治時代の仕業だ。百何十代かの天皇の墓を片っ端から当て嵌めあるいは作ったのだ。しかも宮内庁はいったん決めたら間違いを認めないし、陵墓となったものは調査が不可能となる。陵墓だけではなく陵墓参考地もそうだ。

白河陵から第二京阪を挟んで東に北向不動があり、その奥が安楽寿院・近衛の墓となる。

 安楽寿院

 鳥羽陵

 近衛陵

川の合流地点だから当然湿地が多い。各殿を行き交うのには船を用いた。久安2年(1146)鳥羽と崇徳は同船で桂殿から馬場へ向かったという(前掲書)桂殿というのはどこかわからないのだけれど。

 


安楽寿院近くで猫さんを3匹見かけた。

油忠という不動産屋の看板が多かった。元はここらしい


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