物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200718 京都街歩き 内裏周辺

2020-07-27 | 行った所

丸太町千本の交差点の北西に大極殿跡がある。丸太町千本の角々に朝堂などの説明板がある。

今回はこの交差点の北東の地域をうろうろしてみた。
丸太町通りのすぐ北の道を東に入ってみたが何もないようだったのですぐ北に向きを変えた。中立売との角に内裏内郭回廊址があった。


大内裏そのものも囲いがあり、門で出入りするがその中で更に内裏は特別に囲われた場所だ。内郭回廊址のここだけは発掘した場所がそのまま残されているようだ。内裏と云っても今は狭い路地の住宅街に過ぎないのだが。
中立売を東に行くとほどなく蔵人町屋、

承明門、

宜陽殿と

次々出てくる。更に紫宸殿跡、

この立込んだ住宅街が将に内裏、紫宸殿前だとすると左近の桜・右近の橘があり、平治物語によれば、平重盛が源義平に追い回され駆け巡ったところということになる。

北へ上がって路地に入ると承香殿だの弘徽殿だのと後宮だ。

だが建物はどうやらインバウンド向けの宿泊施設になっているらしい。場所そのものはディープな平安京の後宮、面白そうではある。


更に飛香舎(藤壺)、なるほど、桐壺と云われる淑景舎はここから対角線上に遠い。清涼殿に渡るには長い廊下を渡らなければならなかったはずだ
意外に軒を接していたのではないか、狭い。これではうっとうしいだろう。至上の存在とされる帝もこれはあまり快適ではなかったのではないか。嵯峨の頃から平安京を脱し郊外へ逃れようという意識は働く。院ともなればなおさらのこと。自由と権力、院は二兎を追う。それが鳥羽・白川・法住寺殿か、いや里内裏云われる市中の豪邸もそれに属する。

聚楽第の外堀址辺りからわけが分からなくなりただうろつく。


酒殿木簡出土地、

黒木御所というのはどうも「あぶら」山中油店らしく、

しかもここは弘徽殿などの宿泊施設の大家であるらしい。


一息入れる気で、丸太町通りに出ようとしたら、

建春門跡に通りかかった。

全く油断ならない。丸太町通りで、中務省址。

昼食を求めて堀川通りに出てカレーを食べる。

仕切り直して堀川から猪熊通を北へ入ろうとすると、交差点対岸は待賢門幼稚園・小学校だ。


猪熊通を北上、春日局の生誕地だって、。


山崎闇斎の址もあった


待賢門跡。

 車ではもちろん、自転車だって見逃すだろうという所、待賢門址。平治の乱で守ったのは藤原信頼、攻めたのは平重盛。重盛は門を破るが、源義平が駆けつける。合戦の舞台は意外なほど狭いものだった。兵を展開させるような戦いではなかった。

猪熊通から一本東の通りに検非違使の址がある。

 しばしば出てくる検非違使、平安末には長官の館が検非違使庁となりここは機能しなかったというがそれでもここか!と思う。

また丸太町に戻り通りを渡って、主水司址。

美福通を南に、二条公園へ。
鵺池。

鵺が大明神とは知らなんだ。

平家物語第4巻「鵺の事」以仁王の乱が鎮圧され加担した源頼政の話である。近衛と二条、二人の若い帝が怪異に脅かされる話を私はさほど不自然に思わず読んだ。今日的な目でなくても彼らの成育歴は不自然で健全とは言い難い。その彼らが物の怪におびえ、強き武者の弓弦音に安堵を覚えたのだろうと位にしか思わなかった。赤井 信吾「高僧慈円の思想と創造力」はこの鵺話そのものを慈円の創造とする。確かにここで頼長が和歌を詠むはずもないのだ。
それにしても下賜物を肩にひっさげ退出する頼政の格好の良さ。辟邪を伝統とし、大内守護を担う摂津源氏としての面目躍如である。
平家物語では、頼政が平家に不満を持つ源氏の一族を並べて以仁王をけしかけるのであるが、近年の研究ではむしろ頼政はは巻き込まれたとする方が多いようである。


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