特別定額給付金の申請用紙が届いたのでさっそく記入して郵便箱に投函してきました。もらわないほどに奇特な人にはなれませんでした。
問題は何に使うかである。
社会的な発言としては「使って経済を回す」であろうが、
個人的な発言としては「不安だから貯蓄」となってしまう。
申請前は前者の考え方が優勢で、あぶく銭として使ってしまおうと思っていたが、申請後の今は心は後者の考えに傾いている。
これだから「自分」というものは信用ならない。定額給付金がイメージとしてあまり現実感を持っていなかった時には、あぶく銭だから経済回す為に使おう、使うなら国内の製品に金を落とそう、などと殊勝な考えをしていたものだが、しかしいざ申請用紙がとどき、給付が現実のものとして見えてきた時に、前者の考えを実行に移すには躊躇を覚えているのである。やはり貯金か?そう考えている自分がいる。
おそらく実際に現金が振り込まれたときの現実に直面した時には、さらに考えが確信に変わるだろう。すなわち貯金に意思が固まってしまうということである。
#10万円 で記事を書くつもりで、いまスマホで記事を入力しているのだが、ふとそんなことが心のなかによぎってしまった。
ほんとはもっと気楽に「焼肉でも食いたいな。写真のようなタン塩を頬張って・・・」などと書こうと思ったが、どうもそれは今の心境としては正しくない。
今の心境として感じることは、やはり自分はカネというモノに対して、ただならぬ執着があるということである。
オードリーの春日が、お金を使わないで生活することが楽しい、と言っていたが、あの心境は多分そういうことなんだろうとおもう。あれはそうすることにより、心の安定を買っているのだろう。不安を払拭する為にお金を使わないで生活しようとすることが染み付いてしまったのであろう。
それは一見素晴らしいように見えるが、おそらくは形を変えた執着なのだろう。なぜなら私はかなりの部分で、春日のそのあり方に共感しているし、同時に春日のしている事を似たようなレベルで実践もしているからだ。
しかしそれは、あくまで貯蓄で安心を買っているだけであり、もし未来にそのお金が紙切れになったとしてご破算になったときに、はたして平静でいられるか?と言われれば答えはNOである。
アリとキリギリスの話ではないが、アリは無欲なのではない。厳しい冬の前に、不安を払拭するためにセッセと貯蓄をしていたわけである。いかにアリとしても、その冬のときに貯蓄が突然にして消えてしまったときには平静ではいられまい。アリの餌はお金と違って実態だから消えるということはないが、もしも餌がお金のように実態出なかったとしたら、冬にいきなり消えてしまうということもありうる。そうなるとキリギリスと共に死ぬことになる。
なので、お金に対する執着がどの程度なのか?ということは、このような緊急事態には感覚にハッキリと教えてくれる。つまり自分は何者なのか?何に執着し何に頓着しない人間なのか?ということをマザマザとみせてくれる。
この感覚を持つ人は日本人では案外多いのではないだろうか?日本が仏教の国であることと関連性があるかもしれないが。
ゲームをやってても、この癖は現れる。クラフト系のゲームなのだが、資源を集められるだけ集めて、収納できなくなるので、さらに収納スペースをつくり、資源を集める。その繰り返しである。貯めることで安心を買っているのだろう。つまり不安の裏返しで、同じことをしているのだ。
このことは我が国がデフレであることと無関係ではあるまい。仏教の国である事もあるが、災害国である我が国は、いつも不安と隣り合わせであった。台風で川が増水し資源が失われ、母屋も壊され、地震で壊滅する。地震に伴い火事で資源が奪われ、といったように、いつも安心・安定を得るために、この国の人たちに貯蓄という文化は根付いている。
逆にいうと、安全・安心という執着が強いがゆえに、貯蓄の象徴であるカネに執着するのかもしれない。
仏教では執着は苦しみを生み出す元という。かといって信仰宗教にカネを「浄財」とか説伏されて、うまく利用されて喜捨させられるのも真っ平御免である。そんなものは仏教ではない。
仏教の本質はどう執着とケリをつけていくかにあるだろう。愛を「失うことを恐れる執着」と言い切った仏教は、たしかにキリスト教には無い世界観と着眼点を持っている。吾唯足知という言葉も執着に関する格言であり仏教に通づるものがある。
どう執着と付き合っていくか。そこを考えさせた特別定額給付金でした。