Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

陰謀論2

2021年06月06日 11時38分00秒 | 世間話
最近やたら陰謀論という言葉を目にする。
結論から先にいうと、人々が組織(国、メディアなど)からもたらされる情報について信じなくなってきたのだろう。理由は至極簡単である。そいつらはウソをつくという事が分かってきたから。

この事に目をつぶって、枝葉末節の議論をしても仕方ない。

さて陰謀論についてだが、事例には事欠かない。2001年世界貿易センタービルテロ事件。日航機123便墜落事故。ナチスのガス室など。

陰謀があったとする議論も、陰謀など荒唐無稽だとする議論も、第三者から見ると極端に見えるのには多分意味がある。これは上から目線で言っているのではない。冒頭に書いたように、「人々が組織からもたらされる情報に不信感を持っている」場合、情報をもたらす組織側と、もたらされる受け手との間に、ひとつの極端な傾向が現れるものである。それは、

自己正当化と利用されてなるものかという不信との間の対立である。

これは善意の自己正当化も含むし悪意も含む。同時に善意の不信と悪意の不信も含む。なにを善悪と定義するかはおいておく。
組織の自己正当化とは、あるいみ弁明であり、ある意味プロパガンダである。「陰謀論など荒唐無稽だ」と強く主張する背景としては、そんな作り話で我々組織が貶められてたまるか、という憤りの弁明である側面があることは認める。これを善意の正当化と呼ぶことにする。しかしながら組織は自己正当化をきらびやかに印象づけるために誇張した弁明を時に行う。それは弁明を聞いた側が、その物語を強烈に印象づけられるという目的の為だ。これは少々厄介な問題である。善意であれ悪意であれ、物語は注目されるために誇張される傾向がある。その効果を我々はプロパガンダと呼んでいるのだが、プロパガンダはなにも組織側だけにあるのではない。
陰謀論を唱える側が、しばしば「全部なかった」とか「一件もなかった」という主張をすることがある。揚げ足を取られることもしばしばあるこの主張だが、唱える側はそれもある程度は承知でやっているのかもしれない。
例えばある人が不当に貶められたとする。懲役1年の罪がそれこそ死刑に値する罪であると貶められたとする。冤罪ではなく、罪の軽重の問題だ。この者はどのように主張し戦うのだろうか?
①わたしは本来は懲役1年です!
②わたしは無実です!
という二つの戦い方があるが、一般に裁判という形式を取る場合、ほぼ全てが②の形式で戦うことになるだろう。
それは前述した「全部なかった」という陰謀論側の主張と構造的にはかわらないものである。これと似た構造は、交渉においても現れる。
いくらで売る?いくらで買う?
売り手「70万で売る」(落とし所は50だろうな)
買い手「30万でしか買えない」(落とし所は50くらだろうな)
いわゆる駆け引きである。

陰謀論側は、不当に貶められた認定された事実の汚名をそそぐために、可能な限りの減刑の論理を展開する。だから「全部なかった」という展開になりがち。

陰謀していることを疑われた組織側は、不当に貶められた疑惑をそそぐために、可能な限り相手の論理の荒唐無稽さを印象付ける論理を展開する。だから「無知の戯言」という展開になりがち。

言論に駆け引きが行われているのであるが、駆け引きが存在する理由は冒頭にも書いた不信感である。

不信感は売買交渉の例の時に書いたように、利益に直結する不信感もあるし、主張の信念や学問的態度の一貫性がゆらぐという名誉に関わるものもある。

世界貿易センタービルのテロを米国政府は事前に知っており黙殺した、とする陰謀論は、まさに国に対する国民の不信が反映している。
国側は冤罪か、あるいは自国の軽犯罪が不当に重罪として喧伝されることへの強い弁明として「そんなことは『まったく』ない」と反論する。これは陰謀論者に対する不信が反映している。

不信がある社会において、
ごめんなさい、の次に来るものは「許さん、どうしてくれる」であり、「なら賠償だ」だからである。

テレビなどで、昨今「日本のここがすごい」とか「日本は遅れている、もうダメだ」という言説。某国が「慰安婦がどーの」などの喧伝に対する我が国の反論。
「ヘイトスピーチだ」に対する、それは差別じゃない、酷いことをしてるから白い目で見られるのは当たり前とか。これらの枝葉末節な議論に通底することは、

他者に対する不信感。

不信感を不当に煽る勢力もあれば、過去からの不信の積み重ねで信用を失った勢力もいる。そのどちらも持っている勢力もいる。別に勢力で区切らずに、個人においてもおなじであろう。

契約書が分厚くなるのも、条約の文言に解釈の余地を大きく残すのも、約束に公正証書をまくのも、裁判が三審制であるのも、憲法が存在するのも、たぶん不信の成せる技なのだろう。

キリスト教は神を信じることと愛を説く。神にしてもひたすらの盲信を説き、不信は許されない。人々に不信を許さない教義をあえて人が作った理由は、これが争いを生むと思ったからなのか?
そして、その不信を利用して教団の利益に誘導した勢力が、結果として平和につながる方便を破壊したという事実。
宗教が怖いのか?はたまた人間が怖いのか?