リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

WEEKEND ORANGE

2007-01-23 | town
週末、バスに乗って中央線沿線に向かう。
この沿線は、“中央線文化”と呼ばれる独特のローカル・カラーを持っている。
僕の趣味嗜好も、中央線文化指数が高いと自覚しており、確実にオレンジ色の血が流れているだろう。

まずは三鷹で下車。
こぢんまりと落ち着いた町だ。これといって特徴があるわけでもない。「ジブリ美術館」が知られる程度か。
だが、この位の規模が住みやすい町なんだろうと思う。

駅前のメイン商店街を歩いた。
まずは「中華そば江ぐち」を食べる。ここは三鷹の名物ラーメン屋。
グルメな今時ラーメンではなく、庶民的な雰囲気の店だ。
麺が本当にそばみたいで、ここでしか味わえない不思議な味である。
常連はチャーシューでビールを飲んだ後にラーメンを注文したりしている。
三鷹に行く機会があったら、一度訪れてみるといい。
好みに合わない人もいると思うけど、話のタネにはなるんじゃないかな。

古本屋を流した後、オレンジ色の中央線の列車に乗り、吉祥寺へ行く。
吉祥寺は「住みたい町ランキング」などで上位に挙がることが多い町。
にぎやかな通りが多く、ちょっと路地に入ると、こじゃれた「小さなお店」が軒を連ねる。
地理がよくわからないので、駅前周辺をぶらぶら経巡った。中古レコード屋をのぞいたりしながら。

夕刻、中野に向かい、知人らと合流。中野ブロードウェイを詣でる。
中野ブロードウェイは、言わずとしれた“サブカルの殿堂”。マニアックな品々と怪しげな店がひしめき、時間を忘れるラビリンスである。
文庫サイズの漫画とポストカードを買う。

夕飯は、ブロードウェイ入口すぐにある餃餃(チャオチャオ)。
大阪発のひとくち餃子で、かなり美味い。
ハフハフ言いながら餃子を食らい、ビールを飲み、ダハハと歓談する。至福の時だ。

中央線で新宿まで出て、帰途につく。
充実した週末の一日だった。
家路に向かう街灯が、オレンジ色に町を照らしていた。

近くて遠いヨコスカ紀行

2006-12-23 | town

「トンネル抜ければ 海が見えるから
 そのままドン突きの 三笠公園で」
このようにクレイジー・ケン・バンド「タイガー&ドラゴン」で最果てのように歌われる町。横須賀。
「ドス黒く淀んだ 横須賀の海」を私はもう何十年も見ている。
生まれた町を客観的に見るのは難しいが、横須賀は「近くて遠い」町である。
「遠さ」にはいくつかの面がある。
まずは、政治的な「遠さ」。
金網の向こう側は米軍基地、別の国だ。基地の在駐は、今でも町に独特の陰影を与えている。
なぜか携帯ショップで外国人ばかりが受付待ちしていたり。
だが、なんらかの文化を発信するオーラは、もうない。

もう一つは歴史的な「遠さ」である。
戦中・戦後の名残が、あちこちに点在する。
三笠公園には、軍艦「三笠」があり、艦内は資料室になっている。「三笠」は日露戦争時、日本海海戦でバルチック艦隊を破った。有料なので、入ってみたことがない。

公園の入り口には東郷平八郎の銅像があり、土産物屋にはフィンランド産「東郷ビール」が売っている。
米が浜通を抜けた、湘南学園の向かいに、料亭「小松」がある。
ここは、明治18年創業、海軍士官がよく利用したという。東郷平八郎や山本五十六の書もあると聞く。横須賀の人間ならば一度は「小松」での宴会を夢見る。


戦後、この町には「公娼」があった。平坂上の上町の方である。そのあたりは、自らの母のルーツを辿る山口瞳の『血族』で知った。山口瞳は資料を渉猟し、母の出自を追い詰めていく。鬼気迫る作品だった。
また、坂の下、安浦は「私娼」で賑わった。つい最近まで赤線地帯は細々と営業を続けていたらしい。
しかし、安浦も駅名が「県立大学前」に変わり、埋立地に高層マンションが立ち並び、そんな面影は残っていない。

石内郁『絶唱・横須賀ストーリー』という写真集がある。
僕はこの写真集を、図書館の郷土資料コーナーで見た。
僕が生まれた年、1977年の横須賀が写し取られている。
粗いモノクロームの写真から、知らない町の姿が浮かんでくる。
僕が通っていた中学校は、かつて刑務所があった場所で、その刑務所が写っていたりする。
僕は、この写真集を見ていると、自分と横須賀との距離を、相対的に測定できるような気がして、時々図書館に行って、ページを繰ってみる。

生まれた町に対して、ネガティブなことばかり書きすぎただろうか。
ドン突きから始まるものだってあるし、淀みだって時には輝く。
僕は町との距離感を、より精確に見定めたい。


近くに行きたい;ホンセン紀行

2006-12-22 | town
北品川~青物横丁間の旧東海道を歩いた。
いつもは快特で通過するだけ。この日は普通列車に乗り、青物横丁駅で下車した。

海雲寺、品川寺(ホンセンジと読む)を参拝し、銀杏の黄をめでる。
ホンセンジでは、門前の大きな毘沙門天に迎えられ、びっくりした。


旧東海道を逸れて、第一京浜を跨ぎ住宅街に入ると、高村智恵子文学詩碑がある。
「レモン哀歌」の自筆が彫られた碑の下に、レモンがひっそりと供えられていた。
「すずしく光るレモンを今日も置かう」


旧東街道に戻り、古い商店街の街並みをだらだら歩く。
この辺りは、「品川宿」と呼ばれた宿場町。道幅は昔と変わらないらしい。
旅人や行商人でさぞ賑わっていたのだろう。
目黒川にぶつかり、朱色の橋を渡ると、品川宿の総鎮守・荏原神社。
八ツ山通りを路地に入ったところにある寄木神社には、鏝(こて)絵がある。
鏝絵とは、左官による工芸的な装飾絵。ガラス戸越しで、部分的にしか見ることができなかった。
八ツ山通りをそのまま行くと、品川浦の船だまりに突き当る。船宿や屋台舟が停泊する先には、品川の新しいオフィスビルがそびえている。


歩き続けて小腹が空いてきたので、煎餅屋「あきおか」でせんべいを買う。
青海苔が練り込まれたしょうゆせんべいで、磯の味がする。海苔は品川の特産だった。
京急線の向こう側にある品川神社は、快特に乗っていても目に付く大きな神社。
ここには「品川富士」と呼ばれる小高い岩山がある。
富士山まで行って登れない人々が、ここに登ってその気分を味わう、いわば江戸の庶民のアミューズメントといったところか。
かつては見晴らしのよい、それこそ富士山が見える絶景だったのかもしれないが、
今、見下ろせるのは殺風景な街並みである。
「旧東街道を歩く」バーチャルな楽しみは、こうして殺風景な現実を前にして、影絵のようにパタリと倒れる。

新馬場駅から品川駅まで戻って、快特で帰ろう。