リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

カンボジアからの手紙

2007-07-28 | book
遠藤俊介著『カンボジアの子どもたち』(連合出版)読む。
タイトル通り、カンボジアで生活する子供たちのポートレイトを中心に編まれた写真集。
僕は、カンボジアのことをよく知らない。
どのような政治的・社会的変遷をたどり、現在どうあるのか、恥ずかしながら知識がない。
だから、写真から受ける印象だけを書くことにする。

子供たちのふるまいは明るく、純粋そのものだ。
カメラをのぞき込むピュアなまなざしは、現代日本の生活者の僕にとって、まぶしい。
まぶしすぎる。目を逸らしたくなってしまうほどに。
けれど、俊介はそのまなざしを受け止め、微笑みを返す。そんなやさしい空気が、写真に流れていると感じる。

俊介は僕の友人だ。
カンボジアからポストカードや年賀状を何度かもらったことがある。
僕はそれを、「今はこんな感じ」という近況報告として受け止めていた。
だから、この写真集も、その延長上で、彼の活動を見せてもらった感じだ。

以前見せてもらったことのあるモノクロ写真は収められていなかった。
作家性の高いモノクロよりも、親しみやすいカラーを、初の写真集に選んだところがあいつらしい。そう思いたい。
できればモノクロ写真の第二弾写真集や写真展など、次の便りを期待して待ちたい。


肖像写真を読む

2007-07-28 | book
多木浩二著『肖像写真』(岩波新書)読む。
十九世紀のナダール、二十世紀前半のザンダー、二十世紀後半のアヴェドン、それぞれ時代を代表する肖像写真を撮った写真家に焦点を絞って、考察した一冊。

ナダールは、写真が特別だった時代に特別な人々(ブルジョワジー層)を撮った。
交流の会った作家・芸術家の肖像は、“歴史上の人物“のアウラを漂わせている。
そのなかでも、ボードレールの肖像は、格別の輝きを放っている。
陰影の深い、重厚な雰囲気の肖像が多いなかで、ボードレールの肖像は、フラッシュを浴びたように白く浮かび上がっている。そして、流し目でこちらをうかがっている。

どこか中世的でナルシズムを感じさせるたたずまいは、後の“詩人”像の原型といってもいいだろう。ボードレールの『悪の華』がけして古びないように、その存在感はつねにアクチュアルだと、彼みずからが宣言しているかのような肖像写真である。

ザンダーは、ドイツの一地方の名もなき人々を撮った。
写真には、「」「」など、そっけない題名が付されるだけだ。
ザンダーの肖像写真で、最も魅力的な一枚は「舞踏会へ向う3人の農夫」だろう。
3人の若者が、正装をして田舎道を歩いている。特に似ているわけではないのだが、まるで三つ子のように同じポーズでカメラを見つめている。

名前を持たない通りがかりの3人の若者の視線は、写真を通して現在の私たちを見つめる。
過去の視線が現在を貫くアクチュアリティが写真の魅力なのだと気付かされる肖像写真である。

アヴェドンは、現代の写真家だから、肖像写真だけを撮っていたわけではない。
ナダールやザンダーの時代よりも、写真の表現の幅は広がり、肖像が担う意味は薄れた時代だ。
「ウィリアム・キャスビー」の肖像が、奴隷として生まれた人間の最後の一人を撮ったものだと知った時、私たちは一気に歴史に立ち会わされる。
アメリカの奴隷制度がかつて存在した、人類はそのような歴史を持った。そのことを、当事者の強いまなざしが、現代の私たちに伝える。
このまなざしは、けして歴史の象徴ではなく、具体的な現在性で私たちを見つめる。

肖像写真の被写体は、時代を超えたまなざしを私たちに投げかける。
見つめ返す私たちは、一枚の写真の前で、歴史と向き合っているのである。