当然のことながら、仕事で何かを広げようと思うと、
日本だろうが上海だろうが、壁にあたる。
そもそも、そこに壁があるから、これまでは止まっていたわけなので、
壁を抜けようと思ったら、方法を考え、広げる努力をすることから始まる。
そして、壁は、
国の制度だったり、会社の仕組みだったり、習慣の違いだったり、
人の心の障壁だったりする。
ここのところ、仕事でもがいてみてる。
上海に来て、中国人オーナーの会社に入って8ヶ月が過ぎ、
なんとなく管理職っぽいボジションに就いたのだけれど、
日本と大きく勝手が違って、日本とは違う意味でもやもやすることがある。
そもそも日本の会社にも馴染めなかったから、いまここにいるわけなので、
しっくりこない感があるのは、私の性格が一番の原因。
で、もやもやの理由。
それは、オーナーが、会社の数字を開示しない、ということ。
日本でも、お金はそんなにクリアにされない。
特にオーナー企業の場合、お金回りが至極不鮮明なことはよくあるし、二重帳簿も普通だ。
中国でも、うまく脱税できないようなオーナーは無能と言われるし、
そもそもオーナーになれないだろう。
でも、日本の場合は、表面上の基準であったとしても、
なんとなく予算や売上目標、責任の範囲が各人に明確に示される。
そこの会社で働く限りは、売上や利益にある程度の責任をもつのは当然だ。
でも、中国は少し違うみたいだ。
ほんの一部の、ある意味同族の人だけがすべてを握り、
社員には、単なる売上目標が各論で課せられるのみ。
しかも、底辺の社員には、その各論すら伝えられず、
いつでも調整可能な人員としてのポジションに置いておかれるし、
会社の情報が漏洩しないように情報自体を開示されない。
面談と言うと、目標設定ではなくて、まるで踏み絵を踏まされるような内容だ。
そして、会社に具体的な方向性を質問すると、
「儲かったら待遇をよくするから」という話しか、未来のビジョンとして示されない。
「どうやって儲けるんですか?」という問いには、精神論の回答が戻ってくるばかりなので、
なんだか、戦前の大本営発表を聞いているみたいだなあ、と思えることも多い。
中国人なら、それでいいのかもしれない。
でも、私は日本人だし、どうしたらいいか困る。
最初は、中国は資本主義の経験が短いからしょうがないと思っていたけれど、
でもなんとなく、最近は、
これがグローバルスタンダードに近いんじゃないかと思えてきた。
バブル崩壊後に社会人になった私は、すでに身体の奥底まで
「原価意識」がしみこんでいる。
何かを業務として行う時、売上と原価を考えずに、
単に「楽しそうだから」で進めることもできなければ、
「面倒そうだから」で諦めることもできない。
自分のことだけであれば、線引きすることができる。
会社から必要とされている利益はこのくらいで、
それは、この程度やればクリアできるのだけれど、
私は「好きだから、やりたいから、たとえ無償でも、休日をつぶしてでもやる」と、思える。
たとえ、いま、お金の基準がなくても、これまでの経験でなんとなく決めることができる。
ただし、趣味ではなくて業務である以上、他人や他社の協力を必要とする。
相手は日本人や日本企業であることが多いから、
相手も乗ってくれるような理由をいろいろと仕組みとして考えるわけだけれど、
具体的な数字の話ができず、中国的な華やかな面子の話が多い限り、
日本企業との溝は深いと思える。
ただ、最近、ふと振り返って、
日本人は、底辺にまで責任を求めすぎるんじゃないか、と思えてきた。
中国も、たぶんアメリカも、
底辺の人間にまで、原価意識を徹底させようなんて、考えてないと思う。
それぞれが、好きなことをやったらいい。
あなたがやりたいことが会社の利益に繋がるのなら、うちにいて。
でも、繋がらないのなら去って。
いずれにしても個人の責任。
ただ、それだけ。
だから、どこまで打ち込もうが、それは個人の自由。
アプローチ方法も個人の自由。
誰が決めたのかわからないような企業理念に、
一生かけて責任を感じる必要なんてない。
そもそも、経営者じゃないんだから。
でも、日本の場合はそうはいかない。
会社の目標が前面にですぎて、自分が一個人としてやりたいことを考えないようにしてる。
だから、まず、
残業代が出ないならやらないとか、会社に尽くす必要はないとか、
そういう言葉から業務にアプローチしてしまう。
そもそも、そんなに頑張っても、上はつかえているし、
いまだに男尊女卑だし、年功序列が普通。
無理して失敗しないほうがいい。
戦後、みなが平等になって、
機会はある程度は均等になったけれど、責任は均等ではない。
そして、結果も均等ではない。
中国の国営企業出身者と日本人は、比較的同じことを言う。
日本だろうが上海だろうが、壁にあたる。
そもそも、そこに壁があるから、これまでは止まっていたわけなので、
壁を抜けようと思ったら、方法を考え、広げる努力をすることから始まる。
そして、壁は、
国の制度だったり、会社の仕組みだったり、習慣の違いだったり、
人の心の障壁だったりする。
ここのところ、仕事でもがいてみてる。
上海に来て、中国人オーナーの会社に入って8ヶ月が過ぎ、
なんとなく管理職っぽいボジションに就いたのだけれど、
日本と大きく勝手が違って、日本とは違う意味でもやもやすることがある。
そもそも日本の会社にも馴染めなかったから、いまここにいるわけなので、
しっくりこない感があるのは、私の性格が一番の原因。
で、もやもやの理由。
それは、オーナーが、会社の数字を開示しない、ということ。
日本でも、お金はそんなにクリアにされない。
特にオーナー企業の場合、お金回りが至極不鮮明なことはよくあるし、二重帳簿も普通だ。
中国でも、うまく脱税できないようなオーナーは無能と言われるし、
そもそもオーナーになれないだろう。
でも、日本の場合は、表面上の基準であったとしても、
なんとなく予算や売上目標、責任の範囲が各人に明確に示される。
そこの会社で働く限りは、売上や利益にある程度の責任をもつのは当然だ。
でも、中国は少し違うみたいだ。
ほんの一部の、ある意味同族の人だけがすべてを握り、
社員には、単なる売上目標が各論で課せられるのみ。
しかも、底辺の社員には、その各論すら伝えられず、
いつでも調整可能な人員としてのポジションに置いておかれるし、
会社の情報が漏洩しないように情報自体を開示されない。
面談と言うと、目標設定ではなくて、まるで踏み絵を踏まされるような内容だ。
そして、会社に具体的な方向性を質問すると、
「儲かったら待遇をよくするから」という話しか、未来のビジョンとして示されない。
「どうやって儲けるんですか?」という問いには、精神論の回答が戻ってくるばかりなので、
なんだか、戦前の大本営発表を聞いているみたいだなあ、と思えることも多い。
中国人なら、それでいいのかもしれない。
でも、私は日本人だし、どうしたらいいか困る。
最初は、中国は資本主義の経験が短いからしょうがないと思っていたけれど、
でもなんとなく、最近は、
これがグローバルスタンダードに近いんじゃないかと思えてきた。
バブル崩壊後に社会人になった私は、すでに身体の奥底まで
「原価意識」がしみこんでいる。
何かを業務として行う時、売上と原価を考えずに、
単に「楽しそうだから」で進めることもできなければ、
「面倒そうだから」で諦めることもできない。
自分のことだけであれば、線引きすることができる。
会社から必要とされている利益はこのくらいで、
それは、この程度やればクリアできるのだけれど、
私は「好きだから、やりたいから、たとえ無償でも、休日をつぶしてでもやる」と、思える。
たとえ、いま、お金の基準がなくても、これまでの経験でなんとなく決めることができる。
ただし、趣味ではなくて業務である以上、他人や他社の協力を必要とする。
相手は日本人や日本企業であることが多いから、
相手も乗ってくれるような理由をいろいろと仕組みとして考えるわけだけれど、
具体的な数字の話ができず、中国的な華やかな面子の話が多い限り、
日本企業との溝は深いと思える。
ただ、最近、ふと振り返って、
日本人は、底辺にまで責任を求めすぎるんじゃないか、と思えてきた。
中国も、たぶんアメリカも、
底辺の人間にまで、原価意識を徹底させようなんて、考えてないと思う。
それぞれが、好きなことをやったらいい。
あなたがやりたいことが会社の利益に繋がるのなら、うちにいて。
でも、繋がらないのなら去って。
いずれにしても個人の責任。
ただ、それだけ。
だから、どこまで打ち込もうが、それは個人の自由。
アプローチ方法も個人の自由。
誰が決めたのかわからないような企業理念に、
一生かけて責任を感じる必要なんてない。
そもそも、経営者じゃないんだから。
でも、日本の場合はそうはいかない。
会社の目標が前面にですぎて、自分が一個人としてやりたいことを考えないようにしてる。
だから、まず、
残業代が出ないならやらないとか、会社に尽くす必要はないとか、
そういう言葉から業務にアプローチしてしまう。
そもそも、そんなに頑張っても、上はつかえているし、
いまだに男尊女卑だし、年功序列が普通。
無理して失敗しないほうがいい。
戦後、みなが平等になって、
機会はある程度は均等になったけれど、責任は均等ではない。
そして、結果も均等ではない。
中国の国営企業出身者と日本人は、比較的同じことを言う。