父が亡くなって5年なので、いろいろと思い出してみるのだけれど、
つくづく思う。
なんて手間のかかる人なんだろう。まったく。
この「手間」というやつは、もちろん現在進行形なので、
あえて過去形にはしないでつぶやいてみる。
母の周到さに比べ、父はなんて稚拙なんだろう。
「ねえ、あとのこと考えた?」って、本人をつかまえて聞いてやりたい。
聞くと、なぜか照れながら「えっ?」って言うんだろうな。
そして私は「なぜそこで照れるのか、わからない!」と心の中で叫ぶ。
そこは恥じるか、反省すべきところであって、照れるところではない。
ああ、クレヨンしんちゃんだなあ。
「それほどでも~」「ほめてない!」というあの会話だ。
父のことを本当に憎んだ時期にも、
たとえ周囲の誰が私を大切にしてくれたとしても、
父を失った(と信じていた)気持ちを代わりに埋められる人はいないってことは、
ずっとわかっていた。
それぐらい好きで、だから憎もうとしてた。
人はあるとき、ふと、輪を閉じようと思う。
自分は無理をしていた。本心に気がつかないフリをしてた。
でも、あるとき、それを一本の糸としてたぐりよせて、
輪をえがいて結んで、そして閉じたくなる。
それは、ある人との再会につながったり、ある人との別れになったり、
また違う関係性の始まりだったりする。
歩いている道は、未来に向かって一直線に続く道ではなくて、
道はめぐって、ある大切なところに戻るんだと思う。
だから私も、無謀にも、今ごろ上海なんかに来て働いているわけで・・・、
きっと「ねえ、あとのこと考えた?」と母に言われてしまうなあ。
つくづく思う。
なんて手間のかかる人なんだろう。まったく。
この「手間」というやつは、もちろん現在進行形なので、
あえて過去形にはしないでつぶやいてみる。
母の周到さに比べ、父はなんて稚拙なんだろう。
「ねえ、あとのこと考えた?」って、本人をつかまえて聞いてやりたい。
聞くと、なぜか照れながら「えっ?」って言うんだろうな。
そして私は「なぜそこで照れるのか、わからない!」と心の中で叫ぶ。
そこは恥じるか、反省すべきところであって、照れるところではない。
ああ、クレヨンしんちゃんだなあ。
「それほどでも~」「ほめてない!」というあの会話だ。
父のことを本当に憎んだ時期にも、
たとえ周囲の誰が私を大切にしてくれたとしても、
父を失った(と信じていた)気持ちを代わりに埋められる人はいないってことは、
ずっとわかっていた。
それぐらい好きで、だから憎もうとしてた。
人はあるとき、ふと、輪を閉じようと思う。
自分は無理をしていた。本心に気がつかないフリをしてた。
でも、あるとき、それを一本の糸としてたぐりよせて、
輪をえがいて結んで、そして閉じたくなる。
それは、ある人との再会につながったり、ある人との別れになったり、
また違う関係性の始まりだったりする。
歩いている道は、未来に向かって一直線に続く道ではなくて、
道はめぐって、ある大切なところに戻るんだと思う。
だから私も、無謀にも、今ごろ上海なんかに来て働いているわけで・・・、
きっと「ねえ、あとのこと考えた?」と母に言われてしまうなあ。