ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

旅順

2014-02-26 21:20:12 | Weblog
どうやら、中国の全人代常務委員会が 、
9月3日を『抗日戦争勝利の記念日』 、
12月13日を『南京大虐殺犠牲者への国家哀悼の日』 として、
法的に定める記念日にするらしい。

日中両国ともに、もう仲良くする気なんてない、ってことなんだろう。
特に9月は18日もあるし(柳条湖事件)、なんだかますます反日の雰囲気になるんだろうけど、
PM2.5満載の毒霧が日本に飛来している今、
どうやってお互いに親しみをもち、仲良くするんだよ、という気がする。

日本は、むかし、南京事件(日本人がイヤなことされた事件)や通州事件を通して、
「中国人に鉄槌を!」というような気運になったけど、
このまま毒霧が日本を覆い、在中日本人や日本企業がイヤな目にあったら、
あの頃と同じように「こらしめてやれ、戦争だ!」という意見が強くなると思う。

ということで、お願いだから中国共産党さん、
あまり日本を追いつめないでくださいな。
そして、一般の中国人は、あまりにも政治に無関心過ぎだ!
参政権がないってことは、こういうことなんだろうなあ。

で、週末の旅順・大連旅行の写真。
まず、土曜日の旅順。
朝一番の飛行機で上海浦東から大連へ。
予約しておいたクルマに乗って、大連から旅順へ。
行く道では、川が凍っていた。

まず、行ったのは、まったく行く意味がないと力説したい水師営。


歴史の教科書で見た、乃木大将とステッセル将軍たちの写真が撮影された場所、
のはずなんだけど、
いまは復元である上に、中には反日のパネルばかりが展示されていて、
しかも日露戦争とは関係がない写真も多く、つまり日本帝国主義の中国侵略資料館になっていて、
ついでに無料のガイドさんは「修復の為の寄付をお願い」とせびってくる。
本物じゃないのに、なんで寄付しなきゃならないのか、ぜんぜんわからん。

入場料40元を損した気分。

気を取り直し、東鶏冠山へ。


銃痕の跡が遺っていた。
塹壕戦、強そうだもんなあ。ロシア人。

外側。


内側。


こんなところに立てこもってるロシア人と、
よく戦ったよ。当時の日本人は。しかも真冬に。

碑も残されている。


つい最近まで、旅順は軍港として一般解放されていなかったから、
文革の魔の手からも残されていた。

そして次は、ずっと行きたいと思っていた203高地。
いきなりポッコリとある丘は、傾斜がすごく急で、
こんなところ、登って攻めたんっスか。うそ~、という気分になった。
息が上がった。

頂上では、一緒に行った友人と「旅順港は見えるか!」とやりたかったんだけど、
PM2.5の毒霧に阻まれ、ほとんど見えない。


やばいだろう。この空気。

でも、いちおう乃木大将が見上げた光景が見られる。


とはいえ、大興奮で旅順の町に戻り、昼食。

この餃子屋さん、美味しかった。


なぜか、店員に「朝鮮族?」と少数民族に間違えられたけど。


旅順駅。


次に旧関東軍司令部に行った。


ここも中のパネル展示は、日本帝国主義を、正義の味方中国共産党が評価し批判していたけど、
まあ、もう、どうでもいいや。

美しい階段。周囲の壁の絵を見なければ。


そして向かい側には、旅順博物館がある。
ここには、大谷光瑞が寄贈したお宝が収められている。

入ってすぐにあった鐘と、ウイグル地方から見つかったミイラが圧巻だった。


旅順からの帰り道、東本願寺の前を通った。
いまは北京京劇院。


ひとことで言うと、旅順はいい。

類友

2014-02-26 00:21:41 | Weblog
類は友を呼ぶ。

友人が紹介してくれたそのまた友人と言う人たちは、
自称「本物の右翼」で、自虐史観に反対。
そして音楽を愛する、優しい人たちだった。

中国に来てから、自虐史観を捨てる人は多い。
私の周囲で、本気で中国と向き合う覚悟を決めた人たちは、
ほとんどが、
対中国の15年戦争を支那事変と言い、太平洋戦争を大東亜戦争と呼ぶ。

私たちが中学と高校で学んだ日本史は、
ある史実を中国共産党的にはこのようにでっち上げられる、と言うものに過ぎず、
それでは、一方向の視点に過ぎないから、日本人としてそれでいいのか、
という探究心に燃える。

そういう意味で、
すべての日本人が2年くらい中国に住めば、
日本人としての誇りを取り戻すと、確信をもって言い始めるようになる。
これが、私たち1970年代以降生まれ、上海在住の日本人の価値観だ。

いまの若い人にはあまり知られていないが、
大連の人や、少し年配の日本人はみんな知っている。
大連駅は、上野駅を模して作られている。

上野駅と言えば、私が小さい頃は、
傷痍軍人たちが物乞いをし、真冬の寒さで凍死していた、あの上野駅だ。

多くの日本の弱者が、戦争に行き、大けがを負って帰国した。
そして、戦後の日本は、恩給こそあれ、そういった人たちを「侵略者」として蔑み、
金銭に換えられない偏見を持って見つめた。

貧しい土地の傷痍軍人たちは、冬になると出稼ぎの物乞いとして上野駅に座り、
そして、そのまま凍死した人もいる。
私は実際に、凍死した人を駅員さんと警察が担架に乗せて運んで行く場面に
出くわしたことがある。

これが日本なんだ。
私はその光景を自分の目で見た最後の世代かもしれない。
もう少し若い人たちは、見たことがないだろう。

何の為に、彼らはケガをし、そして死んで行ったのか。
もうちょっと立ち止まって、考えるときが来たのだと思う。
これこそが、日本の産業空洞化がもたらした恩恵なのだろう。