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【小倉百人一首】72:祐子内親王家紀伊

2014年08月07日 00時41分50秒 | 小倉百人一首
祐子内親王家紀伊

音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

出自がはっきりしていなく、詳細は不明だが、この呼び名は後朱雀天皇と藤原頼通の養女の間に生まれた皇女である祐子内親王に仕えたから。ちなみに母娘二代にわたりこの貴人に使えており、母の呼称も祐子内親王家小弁。
ちなみに菅原孝標女も祐子内親王に仕えている。

祐子内親王は藤原師通を養子にしている。
ここで藤原氏の道長以降の歴史を簡単に書いておく。


     ┏後一条┏後冷泉
円融━一条┻後朱雀┻後三条━白河
    ||         ||━堀河
  ┏彰子      ┏━━賢子
道長╋頼通━師実━師通┻忠実
  ┃       ||
  ┗教通━信長━信子


道長が生前から位を譲ったのは頼通だが、頼通の娘は天皇に嫁ぐも男子に恵まれなかったため、天皇の外戚の立場を得ることはついにできなかった。
頼通の後に藤氏長者として摂関の座についたのがその弟の教通。ただし、道長の遺言で、教通の次の藤氏長者は師実になることは決められていた。この時代の天皇は後三条だが、この人は藤原氏を外戚にもたなかったため、反藤原氏の政治を目指し、荘園整理令を出して藤原氏などが違法に所持していた荘園の没収に成功した。おりしも頼通・教通の兄弟仲が悪かったのも後三条の政治改革を成功させる一因となっていた。
頼通は、次代の藤氏長者を甥の師実ではなく実の息子である信長に譲ろうとあがくが、姉であり遺言の生き証人であった待賢門院彰子が実行させた。
ちなみに師実は頼通の六男だが、兄たちは他家に養子にだされていたために嫡男となることができた。
さて、その師通は娘の賢子を白河に嫁がせて次代の天皇である堀河を生むことで天皇の外戚の地位を得ることができた。
実は後三条は、崩御の半年前に白河に譲位しており、その際白河の次代を白河の異母弟の実仁親王にするよう命じていた。が、実仁親王は早世したため、白河は皇太子を自分と賢子の間の子である堀河にすることができたのだ。これだとまるで天皇自らが藤原氏を外戚にしたがってるようにみえるが、実はその通りで白河は非常に賢子を寵愛しており、その賢子が28歳の若さで死去したときは非常に悲しんでいる。
後に身分を問わず多数の寵姫をかかえる白河だが、このときまでほぼ賢子に一途だったといってよい。
白河の院政期の話や、その後の皇室の混乱についてはまた別の機会に。

【小倉百人一首】71:大納言経信

2014年08月07日 00時32分05秒 | 小倉百人一首
大納言経信

夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

本名は源経信。宇多源氏の出。母系をたどると、曽祖父は、藤原伊尹によって安和の変で失脚させられた源高明がおり、父方の方も摂関家の非主流とばかり婚姻を結んでいたためあまり振るわなかった。
多芸多才さは藤原公任にも比肩するといわれ、歌人としては「天下の判者」とまでいわれた。
ちなみに経信とは違う系統になるが、宇多源氏の中から武家として身を立てる家もでて、源義経の下で平家討伐に活躍した佐々木氏や京極氏、六角氏を輩出し、明治時代の軍人・乃木希典もこの血統を受け継いでいる。