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【小倉百人一首】76:法性寺入道前関白太政大臣

2014年08月10日 03時53分29秒 | 小倉百人一首
法性寺入道前関白太政大臣

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

本名は藤原忠通。藤原忠実の嫡男。
父・忠実はその父である師通の急死により若くして藤氏長者となったが(最年少記録の22歳)政治家としては未熟で、当時院政を行っていた白河法皇(72代)を失望させるような失態をたびたび繰り返し、最終的には関白を嫡男の忠通に譲らされ、結果的に摂関家の権威を完全に天皇家より下にしてしまった。ただし父祖の代から分割相続によって減り続けていた荘園は、忠実が様々画策したことでかなりの量を得ていた。

忠通は40代になるまで男子に恵まれず、父・忠実の勧めもあって25歳年下の弟・頼長を養子としたが、後に男子が生まれたため縁組を解消。ここから忠実・頼長と、忠通の対立が始まる。


    白河
    ||━━堀河━━鳥羽━┳崇徳
  ┏━賢子     ||  ┣後白河
師通┻━忠実┳━━━━泰子 ┗近衛
      ┣━忠通
      ┗━頼長

その前に白河以降の皇統を簡単に述べると、白河は天皇位を譲った堀河に先立たれ、孫の鳥羽を天皇に立てるが、自分の養女である璋子を鳥羽の中宮とさせた。そして信じがたいことに璋子に密通した。そうして生まれたのが崇徳である。なので鳥羽から見て、崇徳は親子の関係ではあるものの、血縁的には祖父の子であるという非常に醜悪な親子関係ができあがってしまった。
実は璋子は鳥羽に入内する前に、忠通との縁談を白河から忠実に持ちかけていたのだが、璋子の素行に問題があったらしく、忠実が断り白河の不興を買っていた。おまけに忠実の娘・泰子を鳥羽に入内させる話を白河の方から持ちかけられたときも忠実は断っている。これはおそらく泰子が璋子の二の舞になるのを恐れたからだろう。が、これが白河の怒りを買った。忠実が関白を罷免になった直接の原因はこれである。そして白河の崩御後に泰子を鳥羽へ入内させている。

鳥羽は崇徳が成長すると白河の命により譲位させられ、その後に白河は77歳の長寿で崩御、ようやく鳥羽の院政が始まる。忠実もこれを期に久々に政界復帰する。ただし関白は忠通に譲っているので摂関家版院政の様相をていした。

白河法皇は日本史上では珍しい、ほぼ完全な独裁者であり、その地位は最後まで揺らがなかった。これに比肩するとしたら足利義満か豊臣秀吉くらいではないだろうか。
父帝・後三条の政策により豊富な荘園を持つことができ、上皇となった後は三代に渡って幼帝の後見人として政治を思うままにした。ただし、有名な三不如意(思い通りにいかないのは延暦寺の僧兵、賀茂川の氾濫、サイコロの目)にも謳われているとおり、宗教勢力だけはついに排除できなかった。これは迷信深い時代背景もあるだろうが、いずれにしろ完全に宗教勢力を政治から排除できたのは織田信長以降になる。

さて、鳥羽上皇は泰子を中宮に冊立し、さらに藤原得子が皇后に冊立(美福門院と呼ばれる)。その得子との間に生まれた子が近衛。崇徳は鳥羽によって近衛に譲位させられた。崇徳と近衛の間にいる後白河が飛ばされているのは、鳥羽の実の子とはいえ、母が璋子だからだろう。
ちなみに美福門院得子は藤原北家の出だが、忠通の家は藤原北家の開祖である房前の三男・真楯の流れで、得子の方は房前の五男・魚名の流れなので、同じ北家といえど格差は天地ほどもある。ただし、この魚名流は白河・鳥羽の院政期に近臣として取り立てられ、最初で最後の栄華を誇ることになる。
ついでに璋子(こちらは待賢門院)と忠通の共通の祖先をたどると、道長の祖父・師輔になる。師輔の十一男・公季の流れが璋子になり、師輔の三男・兼家の流れが忠通。

この近衛に、忠通・頼長兄弟はそれぞれ養女を入内させ、後宮政策で対立する。これに怒った忠実は忠通を義絶、藤氏長者の地位も頼長に渡す。この摂関家内部の抗争に対し、鳥羽は基本的には不干渉というかあえて口出しをしない姿勢を貫いており、地位についても忠通は関白、頼長は内覧を与え、ぎりぎりの均衡を保たせていた。
ちなみに内覧とは、天皇に奉る書、または天皇が下す書を誰よりも先に見る権利のことで、基本的にこれは摂政・関白のみの権利だった(摂関を置かなかった時代の大臣に与えられることも例外としてあったが)。

頼長は摂関家の貴族には珍しい非常に熱心な読書家で、毎年年末に日記に記載している「今年読んだ本」は数百冊にのぼる。また、集めた書籍を保管するための耐火性能つき文庫までつくるほど読書に執着をもった。学識においては並ぶものがなく、ある意味この時代の天才の一人といってもよい。
また、頼長の政治に対する姿勢は苛斂誅求であり、時間にルーズな貴族たちを取り締まったり、規則に違反する人に対しては無罪放免となった後に刺客を差し向けて殺害するなど、度を越えるところもあった。

さて、忠通・頼長兄弟の後宮政策だが、皮肉にも近衛自身が17歳の若さで跡継ぎのないまま崩御してしまい、次代の天皇は忠通が推す後白河となった。頼長と忠実親子はまったく廟義からのけ者にされただけでなく、頼長には近衛を呪詛したという嫌疑までかけられる(これは得子と忠通の陰謀だろうが)。この嫌疑について、忠実は娘である泰子を通して鳥羽の誤解を解こうと努力するも、タイミング悪く泰子が死去し、その後、鳥羽も死去してしまった。

そして事態は急変し、頼長は謀反の嫌疑をかけられた。そのため頼長は後白河政権を打倒する以外に活路がなく、自身の正当性を確保するために、復権をもくろんでいた崇徳上皇と手を組んだ。崇徳は近衛に譲位させられる際、近衛を”皇太子”にした上で譲位すると鳥羽に言い含められた(そのため天皇の父という立場になり、院政をしける)。が、実際には近衛は”皇太弟”にたてられており、そうなると院政をしくことはできない、という背景があった。

こうして始まったのが保元の乱である。ただし、この事件を裏で糸を引いていたのは当時後白河の側近であった信西といわれている。信西は藤原南家の出身で、頼長すらも一目を置く学者。ただ、自身の出世が血統的に絶望的なため、高階家の養子になったりもしたが、後白河がいずれ皇位につくとにらんで、その乳母を妻にしたことから運が開け、後白河のブレーンとして権勢をふるようになった。
保元の乱はある意味、頼長と信西という二人の天才の対決であったともいえる。
ちなみに頼長の専門は儒学であったのに対し、信西の専門は史学である。

乱といっても実際の戦闘は両陣営とも武士を雇って行うわけで、このとき後白河側が雇ったのが平清盛、源義朝という二人の名将や、摂津源氏で後に以仁王の令旨によって挙兵する源頼政である。ちなみに清盛は崇徳と乳母兄弟にあたり、本来なら崇徳上皇側につきそうなものだが、得子が後白河陣営に引きずり込んだ。ある意味清盛にとっては運命の分かれ目でもあったのだ。

戦闘は1156年7月11日、夜中に後白河側が夜襲をかけるが、本朝一の弓使いといわれた源為朝の奮戦によりうまくいかなかったものの、焼き討ちが功を奏し、わずか一日で片がつき後白河側が勝利する。頼長は戦闘で受けた傷がもとで死亡する。

他、崇徳側の武士たちは処刑となったのだが、公式な処刑は平安時代初期、薬子の変で処刑された藤原仲成以来である。また、崇徳上皇は讃岐に流罪となったが、天皇や上皇の流罪は奈良時代の淳仁天皇以来である。
忠通は勝利者となったが、父・忠実は崇徳側陣営だったため処罰の対象となった。が、それはすなわち忠実が持っていた膨大な荘園を失うことも意味したため、親子喧嘩はいったんお預けとし、忠実の助命に奔走。結果、忠実は不問とされた。

とはいえこの乱の代償は大きく、摂関家が保持していた人事権を失ったほか荘園を警備するための武力も解体され、忠通自身も関白の地位こそ保持したものの、政治の中枢から遠ざかった。
おりしも時代は平清盛一門の全盛期を迎え、公卿は相対的に勢力を弱めるのだが、それを象徴する事件が1170年に起きた「殿下乗合事件」。
これは忠通の五男・松殿基房(当時摂政)が清盛の孫である資盛(父は重盛)の車に、無礼があったとして恥辱を与えたところ、あとで持ち主が資盛と知り、基房が謝罪。が、重盛はそれを受け入れず、報復を恐れた基房は参内をやめ、ついには重盛の郎党たちに従者が報復されるという事件(『平家物語』では報復を行ったのは清盛ということになっている)。

こうしてみると、忠通の生涯は、常に父・忠実の失敗のツケを背負わされ続けたといえる。
ただ、この後忠通の子孫から五摂家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)が生まれ、摂政・関白はこの五摂家の独占となった。

【小倉百人一首】75:藤原基俊

2014年08月10日 03時48分26秒 | 小倉百人一首
藤原基俊

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

道長のひ孫にあたる。
源俊頼のところでも書いたとおり、堀河天皇期における歌壇の中心人物の一人で、俊頼が革新的な歌風を好んだのに対し、基俊は伝統的な歌風を重んじた。
ちなみに父の俊家は正二位・右大臣まで登ったが、基俊は従五位上でとまっている。

この歌のエピソードは有名で、基俊が興福寺(藤原氏の氏寺)で行われる維摩会という法会にて、名誉ある講師の任を息子の光覚にさせてもらうよう藤原忠通に頼んだ。
それに対して忠通は清水寺観音の託宣歌で応えた。

 なほたのめ しめぢが原の さしも草 わが世の中に あらむかぎりは

これは「おれに任せておけ」という意味になり、期待した基俊だが、この約束は反故にされてしまった。その無念さを詠ったのがこの歌である。

【小倉百人一首】74:源俊頼朝臣

2014年08月10日 03時34分49秒 | 小倉百人一首
源俊頼朝臣

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

源経信の三男で宇多源氏出身。
堀河天皇に仕え、当時の歌壇の中心的人物であった。同時代には藤原基俊という人もいて、両者は歌風の違いなどからよく比較の対象となった。

俊頼は白河法皇の勅命により5番目の勅撰和歌集である『金葉集』を編纂している。が、この『金葉集』は白河に二度もダメだしをされ(巻頭歌の歌人が気に入らなかったから)、三度目でようやく認めてもらった。ただし二度目のだしたものはすでに流布していた。
しかも、ようやく世に出たと思ったら世間の評判は悪く、俊頼にしてみれば踏んだり蹴ったりの結果だった。

【小倉百人一首】73:前中納言匡房

2014年08月10日 01時06分44秒 | 小倉百人一首
前中納言匡房

高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ

本名は大江匡房。この時代を代表する碩学。赤染衛門のひ孫にあたる。
この歌は当時の関白・藤原師通(頼通の孫)の邸宅で行われた酒宴の席で詠んだ歌。ちなみに外山とは地名ではなく人里に近い山のことをさす。

先祖の大江千里のところでも書いたが大江氏は紀伝道を家学とする学者の家系。そのため匡房も学問によって立身出世をはかるが、その上昇志向は並ではなく、後三条天皇期から出世の階段を登り始め、堀河天皇期にはついに公卿になった。

後三条が東宮(皇太子)になったのは父帝・後朱雀天皇が皇子の後冷泉(後三条の兄)に譲位する際で、後冷泉が即位すると同時に後三条が東宮となった。ただしこの決定には当時関白だった藤原頼通は非常に不服であった。頼通としては後冷泉に入内させた娘(寛子)が男子を産めば、後三条の東宮を廃位して自身の孫を後冷泉の次代の天皇にしただろう。が、結局後冷泉と寛子の間には男子は産まれなかった。
とはいえ、東宮時代は頼通から陰に陽に圧力をかけられたが、これに負けることなくついに1068年に登極。なんと23年もの長きにわたり東宮であった。
即位後、藤原摂関家の影響力を弱めるため、藤原氏内部でも反摂関家勢力の家や村上源氏などを積極的に登用。匡房もそのうちの一人。
当時、天皇家を養うべき租税があまりに少なすぎたため、違法な荘園の取り締まりを敢行し、摂関家ですらこれに従わせた。
これは平安期の大きなターニングポイントというべきで、これまで摂関家を支えてきた受領層、つまり中下級官人たちは摂関家よりも天皇家の方になびくようになり、これが後に白河上皇が巨大な権力を持つ下地になる。
また、自身が不遇だった東宮時代に嫌がらせをしてきた源隆国(醍醐源氏・正二位権大納言)の息子たちも能力があるとみて登用するなど、開明的でもあった。これには匡房による教育も無関係ではないだろう。ちなみに匡房は後三条の学識について当代一と太鼓判を押している。

匡房に話を戻すと、学者らしく著作も多いのだが、その中でも変り種なものに日本初の兵法書である『闘戦経』というものがある。残念ながら匡房は著者の候補のうちの一人ということで、著者かどうかはっきりしないが、大江家は後にこの『闘戦経』を使った兵法伝授も家学となって、なんと江戸時代まで続いている。
また、当時の源氏の棟梁である源義家に兵法を講義し、そのおかげで義家は後三年の役で勝利したという伝説まで作られている(年齢は義家の方が2歳年上)。
平安時代の公家はそもそも武事と無縁で兵法を講義するというのはぴんとこない。例えば匡房の生きた時代はまだ武士の世ではなく、日常的に戦乱があったわけではない。ただ、中国から『孫子』をはじめとする兵法書は伝わってきていたはずなので、それらを独自に研究してモノにしたという可能性はなくはないし、南北朝時代の北畠顕家のように武士より戦上手な公家も例外的にいることはいるので、歴史のロマンとしてはありかもしれない。

もうひとつ特記しておきたい著作に『続本朝往生伝』というものがある。この中で一条天皇期の人材の豊富さについて触れており、二十の分野別に86人の代表的な人物を書き記した。

ちなみに保元・平治の乱の渦中にいた時の関白・藤原忠通の名付け親でもある。