法性寺入道前関白太政大臣
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
本名は藤原忠通。藤原忠実の嫡男。
父・忠実はその父である師通の急死により若くして藤氏長者となったが(最年少記録の22歳)政治家としては未熟で、当時院政を行っていた白河法皇(72代)を失望させるような失態をたびたび繰り返し、最終的には関白を嫡男の忠通に譲らされ、結果的に摂関家の権威を完全に天皇家より下にしてしまった。ただし父祖の代から分割相続によって減り続けていた荘園は、忠実が様々画策したことでかなりの量を得ていた。
忠通は40代になるまで男子に恵まれず、父・忠実の勧めもあって25歳年下の弟・頼長を養子としたが、後に男子が生まれたため縁組を解消。ここから忠実・頼長と、忠通の対立が始まる。
白河
||━━堀河━━鳥羽━┳崇徳
┏━賢子 || ┣後白河
師通┻━忠実┳━━━━泰子 ┗近衛
┣━忠通
┗━頼長
その前に白河以降の皇統を簡単に述べると、白河は天皇位を譲った堀河に先立たれ、孫の鳥羽を天皇に立てるが、自分の養女である璋子を鳥羽の中宮とさせた。そして信じがたいことに璋子に密通した。そうして生まれたのが崇徳である。なので鳥羽から見て、崇徳は親子の関係ではあるものの、血縁的には祖父の子であるという非常に醜悪な親子関係ができあがってしまった。
実は璋子は鳥羽に入内する前に、忠通との縁談を白河から忠実に持ちかけていたのだが、璋子の素行に問題があったらしく、忠実が断り白河の不興を買っていた。おまけに忠実の娘・泰子を鳥羽に入内させる話を白河の方から持ちかけられたときも忠実は断っている。これはおそらく泰子が璋子の二の舞になるのを恐れたからだろう。が、これが白河の怒りを買った。忠実が関白を罷免になった直接の原因はこれである。そして白河の崩御後に泰子を鳥羽へ入内させている。
鳥羽は崇徳が成長すると白河の命により譲位させられ、その後に白河は77歳の長寿で崩御、ようやく鳥羽の院政が始まる。忠実もこれを期に久々に政界復帰する。ただし関白は忠通に譲っているので摂関家版院政の様相をていした。
白河法皇は日本史上では珍しい、ほぼ完全な独裁者であり、その地位は最後まで揺らがなかった。これに比肩するとしたら足利義満か豊臣秀吉くらいではないだろうか。
父帝・後三条の政策により豊富な荘園を持つことができ、上皇となった後は三代に渡って幼帝の後見人として政治を思うままにした。ただし、有名な三不如意(思い通りにいかないのは延暦寺の僧兵、賀茂川の氾濫、サイコロの目)にも謳われているとおり、宗教勢力だけはついに排除できなかった。これは迷信深い時代背景もあるだろうが、いずれにしろ完全に宗教勢力を政治から排除できたのは織田信長以降になる。
さて、鳥羽上皇は泰子を中宮に冊立し、さらに藤原得子が皇后に冊立(美福門院と呼ばれる)。その得子との間に生まれた子が近衛。崇徳は鳥羽によって近衛に譲位させられた。崇徳と近衛の間にいる後白河が飛ばされているのは、鳥羽の実の子とはいえ、母が璋子だからだろう。
ちなみに美福門院得子は藤原北家の出だが、忠通の家は藤原北家の開祖である房前の三男・真楯の流れで、得子の方は房前の五男・魚名の流れなので、同じ北家といえど格差は天地ほどもある。ただし、この魚名流は白河・鳥羽の院政期に近臣として取り立てられ、最初で最後の栄華を誇ることになる。
ついでに璋子(こちらは待賢門院)と忠通の共通の祖先をたどると、道長の祖父・師輔になる。師輔の十一男・公季の流れが璋子になり、師輔の三男・兼家の流れが忠通。
この近衛に、忠通・頼長兄弟はそれぞれ養女を入内させ、後宮政策で対立する。これに怒った忠実は忠通を義絶、藤氏長者の地位も頼長に渡す。この摂関家内部の抗争に対し、鳥羽は基本的には不干渉というかあえて口出しをしない姿勢を貫いており、地位についても忠通は関白、頼長は内覧を与え、ぎりぎりの均衡を保たせていた。
ちなみに内覧とは、天皇に奉る書、または天皇が下す書を誰よりも先に見る権利のことで、基本的にこれは摂政・関白のみの権利だった(摂関を置かなかった時代の大臣に与えられることも例外としてあったが)。
頼長は摂関家の貴族には珍しい非常に熱心な読書家で、毎年年末に日記に記載している「今年読んだ本」は数百冊にのぼる。また、集めた書籍を保管するための耐火性能つき文庫までつくるほど読書に執着をもった。学識においては並ぶものがなく、ある意味この時代の天才の一人といってもよい。
また、頼長の政治に対する姿勢は苛斂誅求であり、時間にルーズな貴族たちを取り締まったり、規則に違反する人に対しては無罪放免となった後に刺客を差し向けて殺害するなど、度を越えるところもあった。
さて、忠通・頼長兄弟の後宮政策だが、皮肉にも近衛自身が17歳の若さで跡継ぎのないまま崩御してしまい、次代の天皇は忠通が推す後白河となった。頼長と忠実親子はまったく廟義からのけ者にされただけでなく、頼長には近衛を呪詛したという嫌疑までかけられる(これは得子と忠通の陰謀だろうが)。この嫌疑について、忠実は娘である泰子を通して鳥羽の誤解を解こうと努力するも、タイミング悪く泰子が死去し、その後、鳥羽も死去してしまった。
そして事態は急変し、頼長は謀反の嫌疑をかけられた。そのため頼長は後白河政権を打倒する以外に活路がなく、自身の正当性を確保するために、復権をもくろんでいた崇徳上皇と手を組んだ。崇徳は近衛に譲位させられる際、近衛を”皇太子”にした上で譲位すると鳥羽に言い含められた(そのため天皇の父という立場になり、院政をしける)。が、実際には近衛は”皇太弟”にたてられており、そうなると院政をしくことはできない、という背景があった。
こうして始まったのが保元の乱である。ただし、この事件を裏で糸を引いていたのは当時後白河の側近であった信西といわれている。信西は藤原南家の出身で、頼長すらも一目を置く学者。ただ、自身の出世が血統的に絶望的なため、高階家の養子になったりもしたが、後白河がいずれ皇位につくとにらんで、その乳母を妻にしたことから運が開け、後白河のブレーンとして権勢をふるようになった。
保元の乱はある意味、頼長と信西という二人の天才の対決であったともいえる。
ちなみに頼長の専門は儒学であったのに対し、信西の専門は史学である。
乱といっても実際の戦闘は両陣営とも武士を雇って行うわけで、このとき後白河側が雇ったのが平清盛、源義朝という二人の名将や、摂津源氏で後に以仁王の令旨によって挙兵する源頼政である。ちなみに清盛は崇徳と乳母兄弟にあたり、本来なら崇徳上皇側につきそうなものだが、得子が後白河陣営に引きずり込んだ。ある意味清盛にとっては運命の分かれ目でもあったのだ。
戦闘は1156年7月11日、夜中に後白河側が夜襲をかけるが、本朝一の弓使いといわれた源為朝の奮戦によりうまくいかなかったものの、焼き討ちが功を奏し、わずか一日で片がつき後白河側が勝利する。頼長は戦闘で受けた傷がもとで死亡する。
他、崇徳側の武士たちは処刑となったのだが、公式な処刑は平安時代初期、薬子の変で処刑された藤原仲成以来である。また、崇徳上皇は讃岐に流罪となったが、天皇や上皇の流罪は奈良時代の淳仁天皇以来である。
忠通は勝利者となったが、父・忠実は崇徳側陣営だったため処罰の対象となった。が、それはすなわち忠実が持っていた膨大な荘園を失うことも意味したため、親子喧嘩はいったんお預けとし、忠実の助命に奔走。結果、忠実は不問とされた。
とはいえこの乱の代償は大きく、摂関家が保持していた人事権を失ったほか荘園を警備するための武力も解体され、忠通自身も関白の地位こそ保持したものの、政治の中枢から遠ざかった。
おりしも時代は平清盛一門の全盛期を迎え、公卿は相対的に勢力を弱めるのだが、それを象徴する事件が1170年に起きた「殿下乗合事件」。
これは忠通の五男・松殿基房(当時摂政)が清盛の孫である資盛(父は重盛)の車に、無礼があったとして恥辱を与えたところ、あとで持ち主が資盛と知り、基房が謝罪。が、重盛はそれを受け入れず、報復を恐れた基房は参内をやめ、ついには重盛の郎党たちに従者が報復されるという事件(『平家物語』では報復を行ったのは清盛ということになっている)。
こうしてみると、忠通の生涯は、常に父・忠実の失敗のツケを背負わされ続けたといえる。
ただ、この後忠通の子孫から五摂家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)が生まれ、摂政・関白はこの五摂家の独占となった。
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
本名は藤原忠通。藤原忠実の嫡男。
父・忠実はその父である師通の急死により若くして藤氏長者となったが(最年少記録の22歳)政治家としては未熟で、当時院政を行っていた白河法皇(72代)を失望させるような失態をたびたび繰り返し、最終的には関白を嫡男の忠通に譲らされ、結果的に摂関家の権威を完全に天皇家より下にしてしまった。ただし父祖の代から分割相続によって減り続けていた荘園は、忠実が様々画策したことでかなりの量を得ていた。
忠通は40代になるまで男子に恵まれず、父・忠実の勧めもあって25歳年下の弟・頼長を養子としたが、後に男子が生まれたため縁組を解消。ここから忠実・頼長と、忠通の対立が始まる。
白河
||━━堀河━━鳥羽━┳崇徳
┏━賢子 || ┣後白河
師通┻━忠実┳━━━━泰子 ┗近衛
┣━忠通
┗━頼長
その前に白河以降の皇統を簡単に述べると、白河は天皇位を譲った堀河に先立たれ、孫の鳥羽を天皇に立てるが、自分の養女である璋子を鳥羽の中宮とさせた。そして信じがたいことに璋子に密通した。そうして生まれたのが崇徳である。なので鳥羽から見て、崇徳は親子の関係ではあるものの、血縁的には祖父の子であるという非常に醜悪な親子関係ができあがってしまった。
実は璋子は鳥羽に入内する前に、忠通との縁談を白河から忠実に持ちかけていたのだが、璋子の素行に問題があったらしく、忠実が断り白河の不興を買っていた。おまけに忠実の娘・泰子を鳥羽に入内させる話を白河の方から持ちかけられたときも忠実は断っている。これはおそらく泰子が璋子の二の舞になるのを恐れたからだろう。が、これが白河の怒りを買った。忠実が関白を罷免になった直接の原因はこれである。そして白河の崩御後に泰子を鳥羽へ入内させている。
鳥羽は崇徳が成長すると白河の命により譲位させられ、その後に白河は77歳の長寿で崩御、ようやく鳥羽の院政が始まる。忠実もこれを期に久々に政界復帰する。ただし関白は忠通に譲っているので摂関家版院政の様相をていした。
白河法皇は日本史上では珍しい、ほぼ完全な独裁者であり、その地位は最後まで揺らがなかった。これに比肩するとしたら足利義満か豊臣秀吉くらいではないだろうか。
父帝・後三条の政策により豊富な荘園を持つことができ、上皇となった後は三代に渡って幼帝の後見人として政治を思うままにした。ただし、有名な三不如意(思い通りにいかないのは延暦寺の僧兵、賀茂川の氾濫、サイコロの目)にも謳われているとおり、宗教勢力だけはついに排除できなかった。これは迷信深い時代背景もあるだろうが、いずれにしろ完全に宗教勢力を政治から排除できたのは織田信長以降になる。
さて、鳥羽上皇は泰子を中宮に冊立し、さらに藤原得子が皇后に冊立(美福門院と呼ばれる)。その得子との間に生まれた子が近衛。崇徳は鳥羽によって近衛に譲位させられた。崇徳と近衛の間にいる後白河が飛ばされているのは、鳥羽の実の子とはいえ、母が璋子だからだろう。
ちなみに美福門院得子は藤原北家の出だが、忠通の家は藤原北家の開祖である房前の三男・真楯の流れで、得子の方は房前の五男・魚名の流れなので、同じ北家といえど格差は天地ほどもある。ただし、この魚名流は白河・鳥羽の院政期に近臣として取り立てられ、最初で最後の栄華を誇ることになる。
ついでに璋子(こちらは待賢門院)と忠通の共通の祖先をたどると、道長の祖父・師輔になる。師輔の十一男・公季の流れが璋子になり、師輔の三男・兼家の流れが忠通。
この近衛に、忠通・頼長兄弟はそれぞれ養女を入内させ、後宮政策で対立する。これに怒った忠実は忠通を義絶、藤氏長者の地位も頼長に渡す。この摂関家内部の抗争に対し、鳥羽は基本的には不干渉というかあえて口出しをしない姿勢を貫いており、地位についても忠通は関白、頼長は内覧を与え、ぎりぎりの均衡を保たせていた。
ちなみに内覧とは、天皇に奉る書、または天皇が下す書を誰よりも先に見る権利のことで、基本的にこれは摂政・関白のみの権利だった(摂関を置かなかった時代の大臣に与えられることも例外としてあったが)。
頼長は摂関家の貴族には珍しい非常に熱心な読書家で、毎年年末に日記に記載している「今年読んだ本」は数百冊にのぼる。また、集めた書籍を保管するための耐火性能つき文庫までつくるほど読書に執着をもった。学識においては並ぶものがなく、ある意味この時代の天才の一人といってもよい。
また、頼長の政治に対する姿勢は苛斂誅求であり、時間にルーズな貴族たちを取り締まったり、規則に違反する人に対しては無罪放免となった後に刺客を差し向けて殺害するなど、度を越えるところもあった。
さて、忠通・頼長兄弟の後宮政策だが、皮肉にも近衛自身が17歳の若さで跡継ぎのないまま崩御してしまい、次代の天皇は忠通が推す後白河となった。頼長と忠実親子はまったく廟義からのけ者にされただけでなく、頼長には近衛を呪詛したという嫌疑までかけられる(これは得子と忠通の陰謀だろうが)。この嫌疑について、忠実は娘である泰子を通して鳥羽の誤解を解こうと努力するも、タイミング悪く泰子が死去し、その後、鳥羽も死去してしまった。
そして事態は急変し、頼長は謀反の嫌疑をかけられた。そのため頼長は後白河政権を打倒する以外に活路がなく、自身の正当性を確保するために、復権をもくろんでいた崇徳上皇と手を組んだ。崇徳は近衛に譲位させられる際、近衛を”皇太子”にした上で譲位すると鳥羽に言い含められた(そのため天皇の父という立場になり、院政をしける)。が、実際には近衛は”皇太弟”にたてられており、そうなると院政をしくことはできない、という背景があった。
こうして始まったのが保元の乱である。ただし、この事件を裏で糸を引いていたのは当時後白河の側近であった信西といわれている。信西は藤原南家の出身で、頼長すらも一目を置く学者。ただ、自身の出世が血統的に絶望的なため、高階家の養子になったりもしたが、後白河がいずれ皇位につくとにらんで、その乳母を妻にしたことから運が開け、後白河のブレーンとして権勢をふるようになった。
保元の乱はある意味、頼長と信西という二人の天才の対決であったともいえる。
ちなみに頼長の専門は儒学であったのに対し、信西の専門は史学である。
乱といっても実際の戦闘は両陣営とも武士を雇って行うわけで、このとき後白河側が雇ったのが平清盛、源義朝という二人の名将や、摂津源氏で後に以仁王の令旨によって挙兵する源頼政である。ちなみに清盛は崇徳と乳母兄弟にあたり、本来なら崇徳上皇側につきそうなものだが、得子が後白河陣営に引きずり込んだ。ある意味清盛にとっては運命の分かれ目でもあったのだ。
戦闘は1156年7月11日、夜中に後白河側が夜襲をかけるが、本朝一の弓使いといわれた源為朝の奮戦によりうまくいかなかったものの、焼き討ちが功を奏し、わずか一日で片がつき後白河側が勝利する。頼長は戦闘で受けた傷がもとで死亡する。
他、崇徳側の武士たちは処刑となったのだが、公式な処刑は平安時代初期、薬子の変で処刑された藤原仲成以来である。また、崇徳上皇は讃岐に流罪となったが、天皇や上皇の流罪は奈良時代の淳仁天皇以来である。
忠通は勝利者となったが、父・忠実は崇徳側陣営だったため処罰の対象となった。が、それはすなわち忠実が持っていた膨大な荘園を失うことも意味したため、親子喧嘩はいったんお預けとし、忠実の助命に奔走。結果、忠実は不問とされた。
とはいえこの乱の代償は大きく、摂関家が保持していた人事権を失ったほか荘園を警備するための武力も解体され、忠通自身も関白の地位こそ保持したものの、政治の中枢から遠ざかった。
おりしも時代は平清盛一門の全盛期を迎え、公卿は相対的に勢力を弱めるのだが、それを象徴する事件が1170年に起きた「殿下乗合事件」。
これは忠通の五男・松殿基房(当時摂政)が清盛の孫である資盛(父は重盛)の車に、無礼があったとして恥辱を与えたところ、あとで持ち主が資盛と知り、基房が謝罪。が、重盛はそれを受け入れず、報復を恐れた基房は参内をやめ、ついには重盛の郎党たちに従者が報復されるという事件(『平家物語』では報復を行ったのは清盛ということになっている)。
こうしてみると、忠通の生涯は、常に父・忠実の失敗のツケを背負わされ続けたといえる。
ただ、この後忠通の子孫から五摂家(九条、一条、二条、近衛、鷹司)が生まれ、摂政・関白はこの五摂家の独占となった。