待賢門院堀河
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
白河法皇の寵姫であり後に鳥羽天皇の中宮として崇徳・後白河の二人の天皇の母となった待賢門院藤原璋子に仕えたことからこの名前となっている。
ちなみに院号というのは本人になじみのある土地名などからつけられるが、この待賢門とは内裏の外側にある門のこと。
同じく鳥羽天皇の寵愛を受けた美福門院得子の場合の美福門も同じく内裏の外側の門の名前である。
他に藤原道長の姉で円融天皇の女御だった東三条院詮子の場合、実家が東三条邸という邸だったため。この邸は藤原良房が建てたといわれ、後に代が下って詮子の父・兼家の持ち物となり詮子に譲られ、その後は歴代天皇が里内裏(内裏が使用できない時の代わり)として使われたことから、藤原摂関家にとっての重要拠点となる。
藤原忠通もこの邸を父・忠実から受け継いだが、忠実から義絶された際に取り上げられている。
摂関家といえば、もうひとつの重要拠点が土御門邸。こちらは藤原道長が舅の源雅信から譲られ、こちらも里内裏として使われ、ついには内裏がここになった。この邸は別名を上東門第ともよばれ、道長からこの邸を受け継いだ一条天皇の中宮・彰子は上東門院という院号で呼ばれることになる。
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
白河法皇の寵姫であり後に鳥羽天皇の中宮として崇徳・後白河の二人の天皇の母となった待賢門院藤原璋子に仕えたことからこの名前となっている。
ちなみに院号というのは本人になじみのある土地名などからつけられるが、この待賢門とは内裏の外側にある門のこと。
同じく鳥羽天皇の寵愛を受けた美福門院得子の場合の美福門も同じく内裏の外側の門の名前である。
他に藤原道長の姉で円融天皇の女御だった東三条院詮子の場合、実家が東三条邸という邸だったため。この邸は藤原良房が建てたといわれ、後に代が下って詮子の父・兼家の持ち物となり詮子に譲られ、その後は歴代天皇が里内裏(内裏が使用できない時の代わり)として使われたことから、藤原摂関家にとっての重要拠点となる。
藤原忠通もこの邸を父・忠実から受け継いだが、忠実から義絶された際に取り上げられている。
摂関家といえば、もうひとつの重要拠点が土御門邸。こちらは藤原道長が舅の源雅信から譲られ、こちらも里内裏として使われ、ついには内裏がここになった。この邸は別名を上東門第ともよばれ、道長からこの邸を受け継いだ一条天皇の中宮・彰子は上東門院という院号で呼ばれることになる。