崇徳院
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
保元の乱までの経歴については藤原忠通のところで書いたので省略。
保元の乱後、讃岐に配流になった崇徳は、反省の証として写経に専念し、書写した経文を後白河に送り、京の寺に納めてもらうよう依頼した。が、「呪詛がこめられているのではないか」と疑った後白河がそれらを送り返したことに崇徳は激怒。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で写経に書き込み、最後は夜叉のような姿で配流から8年後の1164年に崩御したと伝えられている。この時点では朝廷は崇徳の崩御にまったく関心を示さず、なんら措置はなかったが、1177年になり事態は変わる。
その前に保元の乱後の歴史をたどると、乱後、信西が政治の実権を握り、国政改革に乗り出す。また、平氏を優遇して平清盛とその弟たち4人を国司に任命した。源氏が待遇面で平氏に差をつけさせられたのは、おそらく源氏が代々摂関家の爪牙の役割を担っていたため、摂関家の力を削ぐ意味があったのだろう。
乱の2年後に後白河は息子の二条に譲位する。これは元々後白河の即位自体が、鳥羽の寵姫であった美福門院得子の養子(実父は後白河)である二条の中継ぎとしてのものだったため。後白河も得子の威光には逆らえず、信西にしても美福門院には頭があがらない立場だった。そのため後白河はわずかな近臣だけがブレーンであった。そして二条即位により朝廷は後白河上皇派と二条天皇派に別れる。
また、後白河派内部においても権力争いがあった。きっかけは後白河が近臣を育成するために目をつけた藤原信頼と信西が反目したことであった。信頼の家系は藤原北家経輔流といい、元をたどれば道長の伯父である関白・藤原道隆(儀同三司母の夫)にたどりつく。この信頼の家は武蔵や奥州に地盤を持ち、源氏とも縁が深く、そもそも兄の基成は奥州藤原氏の三代目・秀衡の舅でもある。また、嫡男・信親は清盛の娘を妻に迎えている。
そのため貴族の中では軍事力はかなり大きかったといえる。
信西の方は、二条天皇やその近臣とのつながりを太くしようとしたことが逆に反発を買い、さらに信頼との対立も深まったことから逆に孤立した。そんな中、1156年に平家一門が熊野詣でに行った隙に、信頼が源義朝や源頼政らとともに挙兵。敗れた信西は自害する。
が、その後も後白河院が政治の中心にはならず、相変わらず二条天皇の親政になるのだが、中立を保っていた平清盛は帰京後に二条天皇を奪還することに成功し、官軍の資格を得ると、信頼・義朝らの勢力を一気に打ち砕いてしまった。敗れた信頼は義朝と一緒に東国に落ち延びようとするが天皇を奪還された不手際に対して「日本一の不覚者」とののしられて拒絶され、最後は六条河原で斬首される。
義朝の方は東国に落ち延びる最中、尾張の地で長田忠致の家に泊まったところだまし討ちにあって殺される。
後白河の近臣はほぼ一掃され、二条天皇の時代が本格的に到来することになるのだが、二条の近臣であり叔父にあたる藤原経宗(頼通の六男・師実の子孫)らが後白河の怒りを買うことをしたために流罪になった。そのため後白河派、二条派どちらも有力者不在となった。ちなみに1161年、後白河と平滋子の間に後の高倉天皇が誕生すると平氏一門の中から、この皇子を立太子しようとする動きが起きたが、これは二条の勅勘にあい当事者たちは解官等の処分にあっている。その中の一人、平時忠が後に「平氏にあらずんば人にあらず」といった張本人。
が、1166年、二条天皇が22歳の若さで崩御すると、次代の六条天皇が幼少であることもあり、一気に後白河有利な状態になる。
┏忠通━基実(近衛家)
┏━師通━━忠実━┻頼長
師実┻━経実━┳━経宗
┗━懿子
鳥羽┳━崇徳 ||━━二条━━六条
┣━━━━後白河
┗━近衛 ||━━高倉
平時信┳━滋子 ||━安徳
┣━時忠 ||
┗━時子 ||
||┳━━徳子
||┣━宗盛
||┗━知盛
平清盛
この間、清盛は後白河・二条どちらとも良好な関係を築いてきており、徐々に勢力を拡大していたのだが、六条の摂政であった近衛基実が急死すると、その未亡人は清盛の娘・盛子であったことから基実が保持していた膨大な荘園を接収することに成功する。後白河とも円満な関係が続き、平家一門(平姓全体を指す場合は”平氏”、清盛一家を指す場合は”平家”)は絶頂期を迎えた。
さて、ここまで長々と脱線を続けたが、崇徳に話を戻すと、1176年に平滋子、二条中宮(鳥羽と得子の娘)、六条上皇、近衛中宮(忠通と得子の養女)が相次いで死去、さらに1177年には鹿ケ谷の陰謀や大地震など物騒な事件が相次いで起きた。これらの出来事が保元の乱で敗死した藤原頼長や崇徳上皇の祟りとされた。
そこで頼長には正一位太政大臣が追贈され、崇徳はそれまでの讃岐院という諡号から崇徳院に改められたのだ。
自ら大魔縁になると宣言しただけあって、その後も崇徳のインパクトは大きく、承久の乱(1221年)に三上皇(後鳥羽、順徳、土御門)が鎌倉幕府によって配流になった際は、まさに「皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いが実現したと噂される。他にも様々な物語で怨霊として登場しており、『太平記』でも魔物の親玉として登場している。
ちなみに明治維新後、明治天皇は即位する前に勅使を讃岐に遣わし、崇徳の霊を京に呼び戻す儀式を行い鎮魂のための神社を建立している。
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
保元の乱までの経歴については藤原忠通のところで書いたので省略。
保元の乱後、讃岐に配流になった崇徳は、反省の証として写経に専念し、書写した経文を後白河に送り、京の寺に納めてもらうよう依頼した。が、「呪詛がこめられているのではないか」と疑った後白河がそれらを送り返したことに崇徳は激怒。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で写経に書き込み、最後は夜叉のような姿で配流から8年後の1164年に崩御したと伝えられている。この時点では朝廷は崇徳の崩御にまったく関心を示さず、なんら措置はなかったが、1177年になり事態は変わる。
その前に保元の乱後の歴史をたどると、乱後、信西が政治の実権を握り、国政改革に乗り出す。また、平氏を優遇して平清盛とその弟たち4人を国司に任命した。源氏が待遇面で平氏に差をつけさせられたのは、おそらく源氏が代々摂関家の爪牙の役割を担っていたため、摂関家の力を削ぐ意味があったのだろう。
乱の2年後に後白河は息子の二条に譲位する。これは元々後白河の即位自体が、鳥羽の寵姫であった美福門院得子の養子(実父は後白河)である二条の中継ぎとしてのものだったため。後白河も得子の威光には逆らえず、信西にしても美福門院には頭があがらない立場だった。そのため後白河はわずかな近臣だけがブレーンであった。そして二条即位により朝廷は後白河上皇派と二条天皇派に別れる。
また、後白河派内部においても権力争いがあった。きっかけは後白河が近臣を育成するために目をつけた藤原信頼と信西が反目したことであった。信頼の家系は藤原北家経輔流といい、元をたどれば道長の伯父である関白・藤原道隆(儀同三司母の夫)にたどりつく。この信頼の家は武蔵や奥州に地盤を持ち、源氏とも縁が深く、そもそも兄の基成は奥州藤原氏の三代目・秀衡の舅でもある。また、嫡男・信親は清盛の娘を妻に迎えている。
そのため貴族の中では軍事力はかなり大きかったといえる。
信西の方は、二条天皇やその近臣とのつながりを太くしようとしたことが逆に反発を買い、さらに信頼との対立も深まったことから逆に孤立した。そんな中、1156年に平家一門が熊野詣でに行った隙に、信頼が源義朝や源頼政らとともに挙兵。敗れた信西は自害する。
が、その後も後白河院が政治の中心にはならず、相変わらず二条天皇の親政になるのだが、中立を保っていた平清盛は帰京後に二条天皇を奪還することに成功し、官軍の資格を得ると、信頼・義朝らの勢力を一気に打ち砕いてしまった。敗れた信頼は義朝と一緒に東国に落ち延びようとするが天皇を奪還された不手際に対して「日本一の不覚者」とののしられて拒絶され、最後は六条河原で斬首される。
義朝の方は東国に落ち延びる最中、尾張の地で長田忠致の家に泊まったところだまし討ちにあって殺される。
後白河の近臣はほぼ一掃され、二条天皇の時代が本格的に到来することになるのだが、二条の近臣であり叔父にあたる藤原経宗(頼通の六男・師実の子孫)らが後白河の怒りを買うことをしたために流罪になった。そのため後白河派、二条派どちらも有力者不在となった。ちなみに1161年、後白河と平滋子の間に後の高倉天皇が誕生すると平氏一門の中から、この皇子を立太子しようとする動きが起きたが、これは二条の勅勘にあい当事者たちは解官等の処分にあっている。その中の一人、平時忠が後に「平氏にあらずんば人にあらず」といった張本人。
が、1166年、二条天皇が22歳の若さで崩御すると、次代の六条天皇が幼少であることもあり、一気に後白河有利な状態になる。
┏忠通━基実(近衛家)
┏━師通━━忠実━┻頼長
師実┻━経実━┳━経宗
┗━懿子
鳥羽┳━崇徳 ||━━二条━━六条
┣━━━━後白河
┗━近衛 ||━━高倉
平時信┳━滋子 ||━安徳
┣━時忠 ||
┗━時子 ||
||┳━━徳子
||┣━宗盛
||┗━知盛
平清盛
この間、清盛は後白河・二条どちらとも良好な関係を築いてきており、徐々に勢力を拡大していたのだが、六条の摂政であった近衛基実が急死すると、その未亡人は清盛の娘・盛子であったことから基実が保持していた膨大な荘園を接収することに成功する。後白河とも円満な関係が続き、平家一門(平姓全体を指す場合は”平氏”、清盛一家を指す場合は”平家”)は絶頂期を迎えた。
さて、ここまで長々と脱線を続けたが、崇徳に話を戻すと、1176年に平滋子、二条中宮(鳥羽と得子の娘)、六条上皇、近衛中宮(忠通と得子の養女)が相次いで死去、さらに1177年には鹿ケ谷の陰謀や大地震など物騒な事件が相次いで起きた。これらの出来事が保元の乱で敗死した藤原頼長や崇徳上皇の祟りとされた。
そこで頼長には正一位太政大臣が追贈され、崇徳はそれまでの讃岐院という諡号から崇徳院に改められたのだ。
自ら大魔縁になると宣言しただけあって、その後も崇徳のインパクトは大きく、承久の乱(1221年)に三上皇(後鳥羽、順徳、土御門)が鎌倉幕府によって配流になった際は、まさに「皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いが実現したと噂される。他にも様々な物語で怨霊として登場しており、『太平記』でも魔物の親玉として登場している。
ちなみに明治維新後、明治天皇は即位する前に勅使を讃岐に遣わし、崇徳の霊を京に呼び戻す儀式を行い鎮魂のための神社を建立している。